公開最終日でようやく見た。9月から上映されていたのに、見れないまま、今日に至る。もう諦めていたのだが、たまたま時間が取れたので劇場に行く。期待半分、不安半分。初めての監督の映画はいつもそうだ。先日の『寝ても覚めても』もそうだった。手の内が見えないから、ドキドキする。しかも、評判がとてもいいから、余計に不安になる。本作も同じパターンだ。『ハッピーアワー』で大評判になった濱口竜介監督の商業映画第1作だった『寝ても覚めても』は語り口が素晴らしく、あの衝撃の終盤も含めて、今まであまり見たことのない映画に違和感もあったが、確かにあれは凄かったと認める出来だった。特にあのラストシーンの不安感は絶品だったのだが、こちらは正直言うと、僕は最後まで乗れなかった。いい映画だという事は認める。だけど、彼らに感情移入出来ない。
昨年の僕のベストワンである石井裕也監督作品『夜空はいつでも最高密度の青色だ』でヒロインを務めた石橋静河がここでもヒロインを演じる。ストーリーらしいストーリーはないところもあの映画に似ている。だが、全肯定だったあの映画と違ってこの映画は凄く嫌。見ているうちにどんどん不快感が蓄積してくる。
僕と彼女と同居している友人との三角関係が描かれる。何もしないで酒を飲み、遊ぶ。お話が進展していかないで、停滞したまま。ずっとこんなふうにして、何もせずに淀んだままの今の時間を過ごす。男二人の部屋に行き、一緒に過ごす時間が描かれる。あるいは、夜の函館の町を浮遊する。酒を飲みながらビリヤードやピンポンに興じる。映画のほとんどが柄本佑と染谷将太と石橋静河の3人が遊ぶシーンだけで構成されている。柄本と石橋の職場である書店でのシーンや、染谷が母親と会うシーンもあるけど、ほんのわずかだ。ほんとうはそういうシーンすらいらないくらい。
この幸せな関係がずっと続くわけはない。そんなこと彼ら自身がよくわかっている。そこには触れずに遊びに興じる。クラブで踊りカラオケで歌い、朝まで飲んで騒いで過ごす。そんな彼らの夏の日々がダラダラと描かれる。不愉快な映画だ、と思う人も多数いるのではないか。僕もその一人だった。
だが、延々と続くメリハリのない映画が終わるとき、なんとも言えない寂しさが込みあげてくる。どこかでこの自堕落な時間が愛おしく思う自分がいる。感情移入なんか一切できなかったのに、彼らが過ごした終わることのない時間の終焉を慈しんでいる。こんなどうしようもない彼らがなんだか愛おしい。それって、なんだかとても不思議な気分だった。彼らのダラダラした日々のスケッチへの嫌悪感は、今の自分の抱える苛立ちと相乗効果を成し、そこに拒絶を感じ、最後はそこに融和する。とても個人的な心境が映画を見ることにこんなにも影響を与えることはあまりない。だが、この映画は今の自分の一番痛いところを直撃したのだろう。いろんな意味でショックだった。