無事、満月を終えた後の第壱六夜公演は独立した作品の2本立。しかも別々のフライヤーを用意した本格的な別立て作品仕様。どちらも戒田さんの心意気がしっかり伝わる力作である。
僕が見た1本目がこの作品だ。こちらは昨年短編のひとり芝居として上演した「バラバのイエス」の物語を拡大リメイクヴァージョンとして再構築した新作。殿村ゆたかさんが主人公のバラバを演じる。すごい力演だが、あまりに力が入りすぎて少し見苦しい。30分ほどの短編なら1本調子でも切り抜けられるが80分の長編はそうはいかない。登場人物は5人いるが、これは基本は1人芝居である。ほとんど彼がひとりでこの空間を仕切ることになる。2人のユダとのそれぞれの問答や、2人の女とのやり取りも彼の見た幻想でしかなく、芝居は閉ざされた牢獄から1歩も出ることはない。
処刑を目前に控えた彼がこのひとりの部屋で何を思うかが描かれる。これはバラバ自身のこれまでの人生が省みられるわけではない。また、今直面する死への恐怖が描かれるのでもない。では何が描かれるのかというと、囚われた自由人である彼が最後まで自己への尊厳を守りぬくことの意味だ、と思う。だからこれはあくまでも彼の問題だけに帰結するべきだったのだ。
なのに、気がつけば主人公はここには不在のナザレのイエスの方にスライドする。隣の部屋で同じように囚われている男。彼との対比からバラバにはないものが描かれる。だが、ナザレに取り残されるバラバの内面こそがこの芝居が描かなくてはならないことではないか。殿村さんの熱演が空回りしたのは、彼だけの問題ではない。また、ここにやってくる2人のユダとバラバ自身が重ねられていくというのも図式的だし、単純すぎる。
タイトルの『トラワレアソビ』の『アソビ』という部分をもう少しうまく表現できなかったものか。たわむれではなく、自分の命が懸っている。そんな状況をアソビにしてしまうバラバという男の魅力に迫って欲しいかった。
作、演出の戒田さんはこの素材にトラワレ過ぎて客観性を持ち得なかったのかもしれない。やりたいことが多すぎて焦点を絞り込めずに自滅している。だが、こういう冒険は悪くない。失敗だとは思うが潔い。
僕が見た1本目がこの作品だ。こちらは昨年短編のひとり芝居として上演した「バラバのイエス」の物語を拡大リメイクヴァージョンとして再構築した新作。殿村ゆたかさんが主人公のバラバを演じる。すごい力演だが、あまりに力が入りすぎて少し見苦しい。30分ほどの短編なら1本調子でも切り抜けられるが80分の長編はそうはいかない。登場人物は5人いるが、これは基本は1人芝居である。ほとんど彼がひとりでこの空間を仕切ることになる。2人のユダとのそれぞれの問答や、2人の女とのやり取りも彼の見た幻想でしかなく、芝居は閉ざされた牢獄から1歩も出ることはない。
処刑を目前に控えた彼がこのひとりの部屋で何を思うかが描かれる。これはバラバ自身のこれまでの人生が省みられるわけではない。また、今直面する死への恐怖が描かれるのでもない。では何が描かれるのかというと、囚われた自由人である彼が最後まで自己への尊厳を守りぬくことの意味だ、と思う。だからこれはあくまでも彼の問題だけに帰結するべきだったのだ。
なのに、気がつけば主人公はここには不在のナザレのイエスの方にスライドする。隣の部屋で同じように囚われている男。彼との対比からバラバにはないものが描かれる。だが、ナザレに取り残されるバラバの内面こそがこの芝居が描かなくてはならないことではないか。殿村さんの熱演が空回りしたのは、彼だけの問題ではない。また、ここにやってくる2人のユダとバラバ自身が重ねられていくというのも図式的だし、単純すぎる。
タイトルの『トラワレアソビ』の『アソビ』という部分をもう少しうまく表現できなかったものか。たわむれではなく、自分の命が懸っている。そんな状況をアソビにしてしまうバラバという男の魅力に迫って欲しいかった。
作、演出の戒田さんはこの素材にトラワレ過ぎて客観性を持ち得なかったのかもしれない。やりたいことが多すぎて焦点を絞り込めずに自滅している。だが、こういう冒険は悪くない。失敗だとは思うが潔い。