たった85分の映画だ。しかも無言の状態での長まわしまであるからそこを端折ったら上映時間はもっと短い映画になる。何も言わないままの主人公フリーズしたシイノ(永野芽郁)をカメラはずっと見守るシーンがいくつもある。言葉が出ない。感情を押し殺して耐えている。そんな彼女の姿を延々と見せる。(実際はそれほど長いシーンではないのだろうが、そんなふうに思える)
お話は実に単純で衝動的。自殺した親友マリコ(奈緒)の遺骨をそれまで彼女を虐待し続けてきた父親から奪い取り、その骨壺を抱えて、マリコが見たがっていた海に骨を還すための旅に出る。生前マリコがたまたまポスターで見た自分の名前を含む「マリコなんとか」という海岸まで行くのだが、なんとそこは北の果て青森にある。さらにはまさかの思いもしない形で散骨はなされるのだが・・・。昨年の『浜の朝日の嘘つきどもと』に続くタナダユキ監督最新作。毎年コンスタンスに過激な内容の新作を作り続編ける彼女のこれは『ふがいない僕は空を見た』と並ぶ代表作となりそうな1作。今まで以上に熱くて強烈、痛切な1作だ。
自宅のアパートから飛び降り自殺した彼女に会うため実家に行き遺骨になった彼女を強奪し、アパートの窓から骨を抱えたまま飛び出すところから始まり、海辺の断崖でひったくり犯に骨箱で殴り掛かり砕け散った骨箱から遺骨は海に舞い散るまで。映画は彼女たち2人(ひとりはもうお骨だが)の旅が描かれる。
幼いころから父による虐待を受けてきたマリコは、自己評価が低く、大きくなってからも男にちょっと優しくされたらすぐにその男に依存し、やがて暴力を振るわれ棄てられる。そんな彼女をシイノはずっと守ってきた。マリコは彼女の庇護のもとで小学生のころから生きてきた。そんな女同士の友情が描かれるのだが、強いシイノと弱いマリコというわかりやすい図式なのに、映画からはそんな単純な図式には収まりきらないふたりの関係が見えてくる。子供のころからずっと一緒で小学生のころ、中学生のころ、さらには高校生のころと3つの時代を映画は丁寧に描き、もちろん大人になってから今日までの日々も描かれる。簡潔に回想で短く切り取られるちょっとしたエピソードが鮮烈だ。そこにはふたりしかいない。ふたりが語り合うことから見えてくるささいなもののひとつひとつが彼女たちの歴史を的確に物語る。だから、シイノの過激な行為も説得力を持つ。
マリコは壊れている。彼女を壊したのは父親(この暴力的な男をなんと尾美としのりが演じるのだ!)のいびつな愛情だ。だが、もしかしたらシイノの優しさがそれを助長したのかもしれない。自立できない彼女を作った。突然の自殺の原因は一切わからないからシイノの受けた衝撃は大きい。ずっと彼女を守ってきた。時にはうざったいと思うこともあった。でも、ずっと見放さないできた。マリコはいつも「自分にはシイちゃんしかいないの」と笑いながら言う。そんなマリコを愛おしいと思う。同性愛ではない女同士の友情をこんな形で描いた映画はほかにないだろう。いいとか、わるいとか、そんなことどうでもいい。ただただマリコが大事で、今まで一緒に生きてきた。人生のほぼすべての時間を共に過ごしてきた。そんな彼女が何も言わずに勝手に死んでいったのだ。ラストで受け取る手紙の内容は観客である僕たちには知らされない。それはふたりだけのものだからだ。