筒井潤さんが、今回取り上げた3作品は、前作以上に冒険的だ。しかも、自分にしか出来ない(というか、しない)演出によって、(それでなくては彼がする意味はない)それぞれの作品を料理する手際は見事としか言いようがない。おもしろい。
だが、アフタートークで稲田真理さんが敢えて苦言を呈していたこともわからないではない。彼女ははっきりと「これじゃ、台本はいらないじゃないですか!」と言っていたのだ。筒井さんが苦しい言い訳をしている。「でも、台本がなくては、これらの作品はつくれません」と。それはもちろん、うそじゃない。うそじゃないけど、痛いところを突いていることも事実なのだ。筒井さんの世界観を見せるために台本はある。演出家として問題はないだろう。台本なのである。それは作品を成立させるための設計図でしかない。
台本の持つ世界をどう料理するかが、演出家の腕も見せどころなのだが、台本の世界を正確に表現することも、作家に対する礼節だろう。方法論が前面に出すぎるのは筒井さんの筒井さんである所以なのだが、それが他者の台本を使うことによって化学反応を起こすところがこの企画の魅力でもある。ありえないような発想で、劇世界が構築されていくこと。それをどう受け止めるかは各人の問題で、稲田さんが感じたことはとても素直な意見だろう。どちらが正しいとか、そういう問題ではない。
筒井さんにとってお話というものは第一義ではない。まず、与えられた設定とシチュエーションをどう表現して見せるのか、それが大事だ。主人公の感情の揺らぎや、痛みをドラマとしてどう構築していくのかを、心理面からフォローするのではなく、そこで援用された方法論から見せていく。彼は「人間」を描くのではなく、「世界」を描く。そういう意味でも、これは興味深い作品になっていたのではないかと思う。
横山拓也さんの『仮面夫婦の鑑』なんて、方法論が前面に出すぎて、いささか見苦しい。いちばんバランスよく出来たのは最後の益山貴司さんの『正直カメラと日記爆弾』だろう。相性というのも、大きい。さて、稲田さんの『常吠ゆ』だが、僕は興味深く見ることが出来た。確かに稲田さんにとってはあり得ない。だが、内面の声を淡々と録音で流していく方法は、この兄妹のドラマをきちんと表現する。こういうアプローチもあるということだ。
だが、アフタートークで稲田真理さんが敢えて苦言を呈していたこともわからないではない。彼女ははっきりと「これじゃ、台本はいらないじゃないですか!」と言っていたのだ。筒井さんが苦しい言い訳をしている。「でも、台本がなくては、これらの作品はつくれません」と。それはもちろん、うそじゃない。うそじゃないけど、痛いところを突いていることも事実なのだ。筒井さんの世界観を見せるために台本はある。演出家として問題はないだろう。台本なのである。それは作品を成立させるための設計図でしかない。
台本の持つ世界をどう料理するかが、演出家の腕も見せどころなのだが、台本の世界を正確に表現することも、作家に対する礼節だろう。方法論が前面に出すぎるのは筒井さんの筒井さんである所以なのだが、それが他者の台本を使うことによって化学反応を起こすところがこの企画の魅力でもある。ありえないような発想で、劇世界が構築されていくこと。それをどう受け止めるかは各人の問題で、稲田さんが感じたことはとても素直な意見だろう。どちらが正しいとか、そういう問題ではない。
筒井さんにとってお話というものは第一義ではない。まず、与えられた設定とシチュエーションをどう表現して見せるのか、それが大事だ。主人公の感情の揺らぎや、痛みをドラマとしてどう構築していくのかを、心理面からフォローするのではなく、そこで援用された方法論から見せていく。彼は「人間」を描くのではなく、「世界」を描く。そういう意味でも、これは興味深い作品になっていたのではないかと思う。
横山拓也さんの『仮面夫婦の鑑』なんて、方法論が前面に出すぎて、いささか見苦しい。いちばんバランスよく出来たのは最後の益山貴司さんの『正直カメラと日記爆弾』だろう。相性というのも、大きい。さて、稲田さんの『常吠ゆ』だが、僕は興味深く見ることが出来た。確かに稲田さんにとってはあり得ない。だが、内面の声を淡々と録音で流していく方法は、この兄妹のドラマをきちんと表現する。こういうアプローチもあるということだ。