やりたい気持ちはわかるし、とても素直で正直な芝居だ、とは思うのだが、あまりにストレートでひとりよがり。まず、これを観客に見せる、ということを考えてない。わからせたい、ということも。わかる奴だけわかればいい、という姿勢では作る意味はないし、そんなのがわかる奴なんてひとりもいない。
台本を書くこと、芝居を作りこと、自分のこと、周りの人たちのこと、半径数メートルの四畳半世界の中で、彼の脳内宇宙は閉じてしまっていては、まるで意味がない。ここから世界が広がっていかなくては作品だとは言えまい。「しずむ」だけではダメで、沈んでしまう自分とその世界にどう向き合うのかを描くことがこの作品の存在意義ではないか。
「という夢を見た」という彼の夢が世界の拒絶であってはならない。漱石の『夢十夜』だって、ちゃんと物語を提示しているのだから、洪一平も自分自身の分身を通して、しっかりと自分の死をみつめてもらいたかった。
「海の上、船の上」というチラシにある風景が芝居の中では生きてこないのも残念だ。現実の自分の部屋と自分の書く芝居の台本が重なり合い、死への誘惑とどう抗い、どこに行くのか。せめてそれだけでも教えて欲しい。