習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

evkk『FOG』

2010-10-14 22:53:18 | 演劇
いつもにも増してどんどんエスカレートしていく。外輪さんは、もはやテキストを語るよりもテキストを解体して、物語らないことを選ぶ。それは観客を混乱させるためではない。語るべきドラマよりも心の深奥を見せることの方が大事だと感じるからだ。混沌を混沌のまま見せるためには、方法論が何よりも大事になる。情報量を肥大化させるために、あらゆる手を使う。その結果、観客はそのすべてを消化吸収することは不可能になる。これは作り手の傲慢ではなく、そうすることでわからなくてもかまわないし、わかることなんかには何の意味もない、ということを伝える。観客を煙に巻くことではなく、僕たちに見えているものなんて、現実のほんの一部分でしかないということを、感じさせるため手段である。あっ、でもきっと外輪さんは自分が楽しんでるだけなのかも。彼は本当に遊び好きだから。

 それにしても線上のアクティングエリアによる芝居だなんて、初めて見た。主人公の女(村上桜子)はキャスター付きのバックを引いてこの線の上を右往左往する。というか、きちんと右から左へ、左から右への運動を繰り返す。止まることはない。本来のアクティングエリアとなる空間はそのままにしてあるから、そこで芝居もできる。T字型の舞台だ。だが、基本的にはこの線上でしか、芝居はない。客席も正面を向いて椅子は並べられてない。線上に向かって並ぶ。(役者は観客と同じように客席の椅子に座ることもある。さらにはそこでセリフを言うし)

 その線上で、彼女は様々な人々と関わりを持ち言葉を交わすのだが、彼女は立ち止ることなく、ずっと歩き続ける。本来芝居は立ち止らなくては出来ないものだが、彼女はずっと基本的には線上を留まることなく歩き続ける。さらには、そこにセリフと字幕、ナレーションをほぼ同時に見せていく。これらは等価なものとして扱われる。(ラスト近くでカバンからおびただしい白骨を取りだす本来なら衝撃的なシーンすらそれらの中に、さりげなく埋もれる。)


 これはかなり酷な芝居だ。字幕を読んでいると、芝居を見ることができなくなる。セリフは聞こえていても頭に入らない。もちろん芝居の方を見ていると字幕は消えてしまう。同時に目を左右にして受け入れようとすると、どちらも中途半端になる。更にはそこに大野美伸さんによる(今回彼女は出演しない)ナレーションまで聞こえてくるのである。だいたい字幕の内容は多分に文学的で理解に時間がかかるし、ナレーションは観念的。ストーリーを担うセリフも解体したドラマとして見せられるし。無機的で象徴的なナレーションがドラマをリードするわけでもない。この3者3様のバラバラな要素が時には重なりながら、今、目の前で起きていることを立体的に捉えようとする。今回の外輪さんは物語ることを完全に放棄している。必要以上に混沌となるように見せようと、わざと腐心しているように思える。なんとも意地悪である。

 血まみれの男と彼の妻。2人を巡る男女が入り乱れて、そこから彼女の内面が語られていく。舞台上の村上桜子さんはいつものように美しい。だが、そんな彼女を周囲の人々はブヨブヨに太ってしまって見る影もない、と言う。そのギャップは僕らを混乱させる。見えているものと、芝居上の現実との落差。閉経前の老いていこうとする女。彼女の夫と、息子、その恋人、両親、たくさんの人々が入り乱れて彼女の前を去来していく。やがて、ここから明確な答えを追うことにはなんの意味もないことだ、と気付く。すべてが霧の中の出来事である。確かな足取りで線の上を歩く彼女の姿だけが現実だ。

 やがて僕たちは、いつの間にか、彼女が老いている姿(あんなにも颯爽と歩いていた彼女が、最後は腰を曲げて、老婆になる!)を目撃することになる。その衝撃のラストを受け入れよ。

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