ぽちごや

FC東京のディケイドSOCIOです。今シーズンは丹羽ちゃんとともに闘います。

佐賀の旅 ―2012/7/15 佐賀城本丸歴史館―

2012-07-20 22:50:50 | 旅行記

前日の予定が大幅に狂ったので、今日は佐賀県南部を旅します。佐賀駅です。

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佐賀駅に荷物を預け、駅南口にある観光案内所でけったくりを借りました。レンタサイクルです。自転車は南口の目の前にあります。ちなみにここは映画「悪人」のロケ地です。待ち合わせの場所ですね。佐賀市内の名所は駅から離れているので、自転車が便利です。500円なり。

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南口駅前の本丸通を直進し10分強走りますと、佐賀城址につきます。結構走ります。歩くのはほぼ無理。道中は公園があって綺麗です。

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佐賀城郭の北端の堀です。左側が北で、長崎街道が通ってます。

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本丸通に面して歴史館の門がありますけど、自転車は脇を時計回りにくるりと回り、鯱の門の手前臨時駐車場のあたりに止めます。ちょっとわかりづらいです。

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本丸には鯱の門から入ります。

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すぐに本丸御殿を再現した、佐賀城本丸歴史館があります。

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城主や来賓しか通れない表玄関に上がります。案内ボランティアの方々がいらっしゃいます。そこで既に、並々ならぬ素朴な歓迎ムードを感じたのですけど、なんとなくやり過ごして応接間に通りました。暑そうにしてたら、ご年配ボランティアの芦田さんが、さりげなく団扇を持ってこられ、スッと差し出されます。思わず受け取ってパタパタしてたら、おもむろに芦田さんの解説が始まりました。自分はマイペースでみたいほうなので、普段は案内をお願いしないのですけど、芦田さんのナチュラルさにひかれ、委ねることにしました。なにしろ自分との距離感が絶妙なんです。寄りすぎずさりげなく。

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「ここは応接間です。大切な来客を出迎える部屋です。これは槍。幕末は小銃を保管していたようですね。」

「へー。天井が高いですね。」

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「そう。全部高い。こっちへおいでください。もっと高い。」と、次の間の廊下に連れてもらう。

「わー。高っ。それに長っ。」

「奥行が45mあるそうです。」

「マジすか。」

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「今朝も雨が降ってたので上側の雨戸を閉めているけど、開けるともっと明るい。こっちへどうぞ。」縁側に案内していただく。「ここは戸袋に雨戸をしまえるようになってます。」

「へー。ところで雨は大丈夫だったんですか?」

「本丸はちょっと高く作られているから大丈夫。南側が10kmほど行くと有明海で、昔はもっと海岸線が近かった。だから、佐賀の南部は水に弱いんです。石垣が高くないので、大雨になるとすぐいっぱいになる。」

「そうなんですか。」

「向かいに見えるのが天守台。」

「おー、あそこに天守があったんですか。」

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「そう。18世紀に焼けて、それから再建してない。図面がなくて絵しか残ってないからよくわからない。だから今でも再建できないんです。この本丸は、設計図面が残ってたから再建できた。こっちをご覧ください。」ふたたび廊下に戻る。「釘隠がないでしょ。」

「ホントだ。」

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「これは釘隠の図面が残ってないから。再建というのは、正確な根拠がないとできないらしい。」

「ふーん。」

「この廊下は部屋にも使われたんです。」

「畳敷ですね。」

「そう。この襖の向こうは接見の間。順路では後で見てもらうんだけど、特別に開けます。」待ってました、特別対応w。「部屋が三つあるでしょ。」

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「広いですね。」

「はい。一番奥が城主が座る間。次が家老。最後が御目見え以下が座る間。新年などの祝賀に使われたそうです。正月に雑煮が振る舞われたらしく、さっきの廊下が使われたそうで。」

「あ、そうか。食事係の人が控えてたんですね。」

「いや、そうじゃなくて、家老が座ったんです。佐賀藩には家老がいっぱいいるんです。まず鹿島、小城、蓮池の御三家があり、次に親類。その次に親類相当というのがあって、それからやっと家老。」

「でも殿様の間は広いですよ。詰めたら入れるんじゃないですか?」

「あそこは城主しか入れないんです。」

「えー。マジすか。」

「そう。だから、溢れた家老が廊下に座るの。」

「なるほどー。」

「接見の間は幅が広いでしょ。この広さだと普通、真ん中に柱があるのだけど、とても珍しいらしい。天井に太い梁があって、ちょうど部屋全体を吊り下げているような構造なんです。屋敷全体を見たほうがわかりよいね。こっちへどうぞ。」

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廊下の奥に進み、展示コーナーに行きます。「これが天守が書いてある絵。大きかったらしく、熊本城くらいあったそうです。」

「上下左右がバラバラな絵ですね。」

「当時の絵師が見た方向から書いたからこんなになったそうです。ここが本丸。この辺りが御三家。で、この辺りがもとの龍造寺家の重臣が住んでいた屋敷。龍造寺時代の佐賀城があった辺りに、鍋島家に仕えても住んでいたんですね。」

「え。じゃあ、鍋島家は龍造寺家の家臣を取り込んだんですか?」

「そうなんだけど、ちょっと複雑なの。龍造寺は、龍造寺は隆信の時代に一番勢いがよかった。きっかけは九州の桶狭間と言われる今山の戦い。そこで豊後の大友親貞(宗麟の弟)を破って勢力を拡大したのだけど、その時の主戦が鍋島直茂。ちなみに鍋島家の家紋はその時首を取った大友親貞の家紋をぶんどったんだそうです。」

「へー。」

「ところが、龍造寺隆信は、沖田畷の戦いでよせばいいのに自ら出陣して、島津家久と有馬晴信の連合軍に殺されてしまうんですな。兵の数で圧倒していて勝利は間違いないと言われた戦で、慢心があったのか。歴史は繰り返しますね。」

「ううむ。」

「それで龍造寺家は衰退してしまいます。政家が家督をつぐけど病弱で、朝鮮出兵に参加できなかったんです。地元なのに。それで秀吉の怒りをかい、隠居させられるんです。息子の高房が家督を継ぐけどまだ子供。で、秀吉の命令で、重臣の鍋島直茂が実質的に佐賀を握ることになった。直茂は政家に変わって朝鮮に出兵するんです。その時に龍造寺家の家臣と苦楽を共にして、結束ができた。直茂にリーダーシップがあったんで、鍋島のもとに集まろうという雰囲気ができたんです。」

「ほほう。」

「徳川の時代になって本領安堵されるんだけど、正式に鍋島家が佐賀藩主になります。高房は幕府に佐賀藩を龍造寺家に返してもらうよう働きかけるんだけど聞いてもらえず、自殺するんです。まず奥さんを殺して、自分も死のうとするんだけど死にきれず、傷が化膿して死んだらしい。」

「テレビドラマみたいじゃないっすか。」

「さらに、龍造寺隆信の隠子というのが出てきて家督を主張するんだけど、鍋島に従属していた隆信の弟が、自分のほうが正統なのに鍋島に従っている。お前のような者が脇から出てくるんじゃないと一喝して、事無きを得たらしい。」

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「ますますドラマみたいだ。町人街はどの辺なんですか?」

「城の北側。城と佐賀駅の間くらい。長崎街道が城の北側を通っていて、その街道筋が町人街です。屋敷を見ましょう。」本丸屋敷の復元模型に移ります。「この御殿は、直正が建てたものです。鍋島家は35万石の大大名ですけど、直正というひとは質素倹約を重んじたんです。だから、建物も質素に作られてます。佐賀の誇りは、幕府ができなかったことを実現した、先見の明があったということ。鉄の鋳造に成功したり有田焼を輸出したりして、米以外の収入源がいっぱいあった。そのうえ質素に暮らすから、直正はお金を持っていたんです。藩の運営費は租税で賄うけど、直正がやりたいことは鉄や貿易で儲けたポケットマネーでなんでもすぐにやれた。」

「え? ポケットマネー?」

「そう。だから意思決定が速いの。そのお金を、学問や事業に使ったの。佐賀は長崎の隣という地の利があって、他の藩より蘭学者が多かったのです。直正が他藩に先駆けて蘭方医を採用したこともあって。それでオランダ語の本を通じて、西洋の事物をいっぱい知っていた。田中久重を呼んできたりして、プチャーチンの艦隊で見た蒸気機関車の研究をさせたりした。日本で最初に蒸気船を作ったのも佐賀藩なんです。明治になって、優秀な人材を排出したのも、直正が学問を重んじたから。」

「なるほど。」

「直正があんまりビジネスが上手いもんだから、商人や他の大名からは”そろばん大名”と言われて馬鹿にされていたんです。」

「なにが大事かってことですよね。」

「そう。ペリーが2度目に来日したとき、大艦隊を率いてきて、幕府は海防が必要になった。急遽お台場を作ったんだけど、肝心の大砲がない。幕府が持っていた大砲じゃ射程距離が短く役に立たないことは、長州の下関戦争で痛感してるわけ。それで、佐賀藩に鉄の大砲を作るよう命じるの。でも、そこで直正がちょっと待てと。」

「なんですか?」

「それはおかしいでしょうと。それは佐賀藩への注文なんじゃないかと言うわけ。」

「なるほど、普請ならタダ働きだけど、注文ならビジネスになるんですね。」

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「そう。江戸時代なのに、既にそんな感覚を持っていたの。おっと、こんなペースでいってたら3時間以上かかっちゃうね。ちょっと先に進みましょう。」いろいろ聞きこんじゃってすみませんw。芦田さんのお話がめちゃくちゃ面白くて、楽しくってww。「天井を見てください。大きな梁があるでしょう。あれで屋敷全体を吊り下げているのです。」

「おー。」

「今度は下を見ましょう。」床がガラス張りになっている場所があります。「下にあるのが江戸末期の礎石。本丸の再建は、図面通り忠実にやっているのです。ただ、遺跡を保護しなきゃいけないから、礎石の上に盛土をして、その上に今の本丸御殿を建てているから、当時よりちょっと背が高い。」

「なるほど。」

「順路はこちら。ここはさっき見てもらった接見の間。手前から四枚目に直正公が座ったんです。」

「す、座っていいですか?」

「どうぞどうぞ。」

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「おー、こんな風に見えるのか。ちょっと殿様気分ーw。」

「ww。」藩士の執務室に移動します。

「ここから藩士が務める部屋です。ちょっと窓を見てください。雨戸と障子が方っぽずつしかないでしょ。これで随分節約できるんです。」

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「おー、コスト削減だ。」藩主の居間に移動します。

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「ここが藩主の居間です。柱を見てください。接木してるでしょ。檜じゃなく杉が使われているんです。藩主の部屋に檜を使わないのは珍しいんです。檜より傷みがはやいですから、補修しているんです。藩主が檜を使わないと、家臣も従わないといけないでしょ。これで佐賀藩全体の倹約ができるんです。」

「なるほど。」

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「ここは太平洋戦争後、小学校として使われたんです。だから柱に釘のあとがいっぱい。」

「す、座っていいですか?」

「どうぞどうぞ。」

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「おー、こんな風に見えるのか。ちょっと家臣気分ーw。」

最後は佐賀藩にまつわる品や、七賢人に関する展示コーナーがあります。適塾の展示があって、ぴんと来なかったんですけど、直正公が蘭学を重んじられたとお聞きしたことを思いだしました。佐賀藩からもいっぱい入塾してるみたいですね。

「適塾は、大阪大学医学部の起源ですね。」

「ええ。自分は阪大出身なんで、佐賀で適塾を見れて誇らしいです。」

「そうですか。そんな優秀なかたをご案内できるとは、光栄です。」

「いえいえ、何をおっしゃいますかw。」

佐賀の乱のコーナーにて。「佐賀県が小さくなった理由がここにあります。佐賀藩は全国10番目に大きな大大名なんですが、西郷隆盛の西南戦争に応じるかたちで佐賀の乱が起きます。江藤新平は本意ならず担がれたのです。佐賀の乱に敗れたため佐賀県は一度消え、福岡県や長崎県に吸収されたのち、ようやく佐賀と長崎を分離するかたちで復興したのですけど、佐賀藩の当時からはずいぶん小さくされてしまいました。」

「うーん。」

「どうも、佐賀人は頑固で人付き合いが苦手なところがあります。だから江藤や副島には、県民はシンパシーを感じるのだけど、大隈はちょっと人気が下がりますね。」

「そうなんですか?。二度も総理になっているのに。」

たまたま、昨日鳥栖に行ったという話になりました。「そうですか、サガンを見に行かれたんですか。いや、東京からこられたんだから、FC東京を見に行ったんですよね。昨日はなんともどうも。ごちそうさまでしたw。ホントならそちらのほうが勝つ予定だったのに。」

「いえいえ、サガンはいいチームですよ。」

ぐるっと回って、表玄関に戻ります。「これでご案内はひととおりお仕舞いです。」

「ありがとうございましたー。楽しかったです。」

「近くにも博物館や美術館など、いろいろありますから、時間があったらぜひご覧ください。」

「はい。」

「では、ご機嫌よう。」

芦田さん、ありがとうございました。目元が涼やかで、キリッとしたお顔をされていて、どことなく侍を感じます。そういえば佐賀は、葉隠の土地柄ですね。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」。佐賀県立博物館にも行きましたけど、見かけなかったな葉隠。

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本丸歴史館を出て、天守台に登ります。

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芦田さんのおかげで、とっても楽しい2時間でした。ほかのボランティアのかた達もとても親切でした。地図をじーと眺めてたら、「どこへ行かれるんですか? ご案内しましょうか?」と声をかけていただきました。佐賀の土地柄なんでしょうか。とても心地よいホスピタリティです。

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