Pochiのブチブチジャーニー

文字通り、Pochiが個人的な感想や意見をブチブチと語る。価値のあるものではないよ。

原発反対に名を連ねる人たちはなんでも反対だし連合や共産党と仲好しだ

2011-09-23 18:01:35 | Weblog
 原発反対のデモが行われたが、この呼びかけ人の名を見て「またか」という気になった。大江建三郎、落合恵子…その他書くのも面倒だから書かないが、この人たちはおおくくりにして大企業や政府やアメリカに関係した大きな問題になると、必ずと言っていいほど出てくる。そして、反対派だ。
 多分、生協や組合などの関連団体も反対しているのだろう。連合は電力総連などもあるから表立っては反対運動をしにくいだろうが。

 pochiは原発賛成でも反対でもないが、反対として出てくる人たちにはいい加減アレルギーになっているのも事実だ。
 原発賛成派には事故を起こさないような原発を作ってもらいたいし、反対派にはムードだけの反対ではなく地に足をつけた反対をしてもらいたい。日進市で花火に反対したのが反対派でなければ良いと思っているが。

脱原発では放射性廃棄物の最終処分地はどうでもよいらしい

2011-09-21 14:36:30 | Weblog
 福島の花火が危険だとして中止を求めた連中がいるそうだ。
 一体、どういう連中なのだろう。推測だが、どう考えても脱原発を唱える連中の中でも過激・身勝手な連中ではないだろうか。自分の街が安全ならば他はどうなっても良いと考えるエゴイスト・正直なやつかも知れない。

 脱原発のデモをした連中を例によって、朝日新聞が社説で讃えているがいったい彼らは福島をはじめとする地域で除染した土などをどう処理するつもりなのだろうか?そういうものは放っておいて脱原発だけ唱えていればなんとかなると思っているのだろうか。

 原発を止めるのならば当然その工程表を示すべきだし、それに伴って廃棄物の最終処分地等を決めなくてはならないのだが、そういうことはどうでもいいらしい。

殿山泰司のモノマネではないか

2011-09-20 15:04:07 | Weblog
 昨日、csで「三文役者」という映画を見た。
 モデルは殿山泰司という役者で、pochiの記憶では坊さんとか工場の経営者、漁師…とにかく偉そうでない役をやると存在感が増すという人物だった。同じ題名の本が出ていて著者はこの映画の監督である新藤兼人だ。

 で、殿山泰司役は竹中直人。愛人役が荻野目洋子、正妻が吉田日出子なのだが、竹中直人がひどい。殿山泰司のモノマネをしているとしか思えない。荻野目洋子はよかった。この人は愛人とかそういう役が似合うのではないかという気がした。

 

昨日の続き、なぜ、犯人の疑いでは説得力が弱いか

2011-09-15 08:40:10 | Weblog
 「砂の器」で千代吉と秀夫が村を出ていく理由がテレビでは一家4人の殺人事件の犯人の疑いをかけられたとしていた。しかし、少し考えればわかるけど、犯人ではなく疑いをかけられただけの人の名前が公表されているだろうか?実際にpochiの周りに警察から疑いをかけられた人間がいるかも知れない。しかし、そんなことはわからないのだ。

 昭和10年代でハンセン病の特効薬もない時代に、ハンセン病になったとしたらどうなるか。それこそ、住んでいるところだけでなく、親兄弟からも夫からも妻からも子供からも見捨てられるのだ。
 だから、逃げて各地を放浪するしかなかったし、見つかって人里離れた病院に収容されたのだ。そういう背景があるから説得力が出る。

 遠藤周作に「わたしが棄てた女」という作品がある。主人公のミツという女の子もハンセン病の疑いをもたれて御殿場の病院に行く。ミツは子供の時、縁日でハンセン病患者が物乞いをしていたことを思い出す。毛の抜けた頭、指がない丸太棒のような手をしていた。「悪いことをしているとああなるぞ」と母に注意される。
 また、病院に行くと修道女から、この病気の患者は今まで自分を愛してくれた家族からも見捨てられると言われる。昭和38年の作品でもそうなのだ。そういう時代背景なのだ。
 いまでこそ、特効薬もあり、病気の知識もネットで簡単に調べられるが、そういうことをする人は現在でも決して多くなく、大多数の人は誰かから聞いたいい加減な噂等しか知らないということも多いのだ。
 
 要するに殺人事件の疑いとはまったく別次元の孤独なのだ。だからこそ、父が子を捨てる。子が父のことを隠す。空襲のどさくさにまぎれて名前を変える、ということが納得できる設定になっているのだ。

砂の器、原作と比べて脚色に不満

2011-09-14 14:41:26 | Weblog
 玉木宏主演で登場人物に有名な俳優が一瞬だけ顔を見せるという「砂の器」をテレビで見た。結構面白く見たのだが、犯人の和賀英良こと本浦秀夫と父の千代吉が遍路をするという原因を殺人事件の犯人と疑われたということにしたことに疑問を感じた。確か、原作のポイントはハンセン病という病を患ったことにある。

 当時、不治の病・業病としておそれられたハンセン病だからこそ、父と子の関係を消すことや新しい戸籍を作ることが必然性として納得されたのではないか。それこそ、父の名前を知られるなということである。それが殺人犯の疑いではハンセン病に比べて動機が弱いのではないかと思わざるを得ない。

 ハンセン病ということを扱いにくいのかもしれないが、だからと言って殺人犯の疑いでは和賀英良のようなことまでして父と子の関係や名前を消すことに必然性が弱くなると思うのはpochiだけだろうか?