ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

堂々巡り?

2015年08月12日 | 日記

 冗談とも本音ともつかぬが 「心から妻を愛している」と、やけにきっぱりと言う彼に聊か鼻白まされる。
 どうしてそんな会話になったのか? 多分、連れ合いを 「くれぐれも大切に」と、それも聊かお説教がましい口調で言ったからだと思う。

 翌日のこと、酷い暑さに脳水が沸騰したのか酔狂、愛してるとはなんぞや? と暇に飽かせて阿呆なことを考える。

 子育てや家事諸々の分担は言うに及ばず、春秋の温泉行に加えてたまには海外へ、誕生日や結婚記念日には花を贈りレストランで食事、勿論、他の女性には目もくれず。
 価値観を尊び行動には干渉せず、この辺りになって漸くこれを口にする資格もできる?

 そんなあれやら、結婚前には使った覚えもないではないが、今更、そこまでまめにねえと歯切れが悪い。
 強いて解を探せば、“ 人にして貰いたいと思うことを、人にもしなさい ” (ルカ/6:31-36)になるのだろうけど。

 定年離婚や同じ墓に入りたくないなど、お父さん受難の時代と言われて久しく、“ 愛している ” がなんとも心細げにも、頼りなげにも聞こえる。

 ところで、“ カタリナデー ” と勝手に呼ぶ月命日、久し振りに朝七時からのミサに与った。

 受難と言えば、この日(8/6)は、イエスが高い山にペトロとヤコブとヨハネを連れて登り、眠りこくる彼らの前で眩いばかりの姿に変容、弟子にイエスの受難を暗示させたとされる “ 主の変容 ” の祝日だった。

 ミサに与り乍ら、バロックの奇才カラヴァッジョ(1573-1610)の傑作 「キリストの埋葬」(上/ヴァチカン博物館絵画館蔵)、盛期ルネサンスの巨人ラファエロ(1483-1520)の遺作となった 「キリストの変容」(下/同蔵)を思い出していた。

 ミサの後、<聖カタリナの表徴>ともされる薔薇を持って墓参、掌を合わせ乍ら、「そんな、家事諸々のことなども、今になれば簡単なことなのにね」と話しかけたら 「ふゝゝ」と、小さく笑われたような。

 今時、亭主関白もない、お父さんも変わらねば、だが過ぎた時間は戻らない、で、できる間に大切に・・・。
 こういうの堂々巡りって言うんだっけ、自省しきりに、お盆の前の早朝のこととて人影見えぬ墓園と別れた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1015

コメント (2)
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