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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県大神島  「 島尻港大神東防波堤灯台 」

2013-04-20 06:43:36 | 宮古の灯台








































大神島に近付くと一番に迎えてくれるのが 「 灯台 」 である。
船上から見える灯台に気持ちが高揚し、
防波堤を走って 「 早く灯台の下に行きたい 」 と思うのである。


灯台表番号 / 7168.2
ふりがな / しまじりこうおおがみひがしぼうはていとうだい
標識名称 / 島尻港大神東防波堤灯台
所在地 / 沖縄県宮古島市(島尻港大神東防波堤外端)
北緯  / 24-54-44
東経  / 125-18-24
塗色 / 赤色
灯質 / 単閃赤光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 25カンデラ
光達距離 / 3.5海里
地上~頂部の高さ / 5.5m
平均水面上~灯火の高さ / 8.4m 
地上~灯火の高さ / 5.38m
業務開始年月日 / 平成6年3月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



SL人吉3号車 「 後部展望ラウンジ 」

2013-04-20 06:38:41 | モノレール ・ 乗り物 ・ 旅客機



SL人吉3号車 「 後部展望ラウンジ 」














































この2号車のビュッフェは、鉄道デザインのスペシャリスト水戸岡鋭治が手がけたもので、
高級感あふれるローズウッドに包まれたサロン展望室である。
4種類の心地よい椅子に腰かけて贅沢なひとときが過ごせる。

過ぎて行く景色、名残り惜しい風景を置き去りにしながら汽車は走る。



4月20日 穀雨の朝

2013-04-20 06:28:17 | 朝の風景とその他の風景






今日は二十四節気のひとつ、 「 穀 雨 」 である。
穀雨だからではなかろうが、今日の午後から降水確率が80%の雨予報である。
今朝も5時過ぎに散歩に出たが、今のところは雨の気配すら感じない。

「 穀雨 」 は、清明 ( せいめい ) から15日目で、
太陽の黄経が20度に達したときをいい、新暦では4月21日ごろにあたる。
穀雨の意味は、百穀を潤し、芽を出させる雨ということ。
しかし、このころとくに雨が多いというわけではないが、
降れば菜種梅雨 ( なたねづゆ ) ということもある。
北国ではストーブをしまい、東日本では冬服を脱ぎ、
西日本ではフジの花の咲き始める季節である。




沖縄県宮古島市にある 『 大神島 』

2013-04-19 06:20:52 | 離島めぐり



宮古にある 「 大神島 」









島の中腹にある貯水タンクがシンボル的な存在である















校門の親柱に残った表札







かつての校舎があった校庭








大神小学校の想い出の品


宮古島市立大神小中学校 - 小学校は2006年度から、
中学校は2008年度からそれぞれ休校していたが、
2011年3月31日に廃校となり、校舎は解体されている。






港にある大神島の案内板












大神島( おおがみじま ) は、宮古列島の島のひとつである。
宮古島の北約4kmに位置し、行政区分としては沖縄県宮古島市に属する。
2005年の合併以前は平良市に属していた。
面積は0.24km2、人口は約50人。

集落は港がある島の南側に集中する。
集落から丘を登ると遠見台があり、宮古島、池間島を展望できる。
集落以外の島内の多くは聖域とされ、
特に御嶽 ( うたき ) は、島民以外の ( 場合によっては島民も ) 立ち入りが禁じられている。
2000年5月には島の約20%にあたる6万m²を焼失する山火事が起きている。

半農半漁の島で、カーキダコと呼ばれる干ダコが特産。
高齢化と過疎化が進んでいる。近年、観光による振興が図られ、観光客が増加している。
島の周囲にはサンゴ礁が発達しており、
海岸には浸食により根元が細く削られたノッチと呼ばれる奇岩が点在する。




SL人吉 「 2号車ビュッフェ 」

2013-04-19 06:17:06 | モノレール ・ 乗り物 ・ 旅客機



SL人吉 「 2号車ビュッフェ 」






















昨日の1号車に続いて今日は2号車の紹介である。
この2号車のビュッフェは、鉄道デザインのスペシャリスト水戸岡鋭治が手がけたもので、
軽い食事や飲み物、オリジナルグッズなどを提供している。
木に包まれたシックな空間に集まれば、素敵なカフェタイムが待っている。
デッキには列車の模型などが飾られ、まるで夢の移動車輌である。




西武の栗山が1000本安打を達成!

2013-04-19 06:15:09 | 野球





















16日の地元西武ドームで行なわれたオリックス戦で西武の栗山選手が1000本安打を達成した。
3点リードの3回1死二塁、オリックス東野のスライダーをレフト前に運んでの達成である。

「 自分の打てる球をしっかり待って、イメージ通り左方向に打つことができました。
1000本達成は、プロ1本目から見てくださっているファンの方もいると思いますし、
ホームで達成できた良かったです。これからも積み重ねていきたいと思います 」 とコメントした。

昨日も5打数4安打で打率も3割3分9厘と依然として好調である。
栗山 巧の名前の如く、バットコントロールが巧で、
これからもどんどん安打を製造して行きそうな雰囲気である。



長崎県南島原市  「 須川港灘防波堤C灯台 」

2013-04-18 05:06:19 | 長崎の灯台































所在地 / 長崎県南島原市南有馬町須川港灘防波堤外端 
塗色  / 赤色
構造  / 塔形   
構造材質 / S-5プラスチック造
灯質  / 単閃赤光 毎3秒に1閃光
光度  / 実効光度 61カンデラ  
光達距離 / 4.5海里 
頂部までの高さ / 5.78m
平均水面から灯火までの高さ / 8.23m
現用灯器 / LD管制器Ⅰ型
電球 / LED小型灯器 ( LD )
設置、点灯および業務開始年月日 / H.2.2.20




SL人吉1号車 「 先頭車両 ・ 展望ラウンジ 」

2013-04-18 05:03:20 | モノレール ・ 乗り物 ・ 旅客機



SL人吉 1号車 「 先頭車輌の展望ラウンジ 」





























この車輌は、鉄道デザインのスペシャリスト水戸岡鋭治が手がけたもので、
上品な白木、メープルウッドをふんだんに使ったガラス張りの展望室から、
目の前を機関車ハチロクが黒い煙を上げて牽引する姿が見える。
ベンチに腰かけて線路に沿って流れる球磨川を眺め、
ゆったりとした時間がお楽しめる。



沖縄県宮古島市  「 島尻港 」

2013-04-18 05:01:13 | 離島めぐり



宮古島と大神島を結ぶ島尻港








スマスかりゆす号






島尻港に接岸された連絡船













港に立つ連絡船の発着時刻表




宮古島と大神島を結ぶ島尻港。
ここから連絡船でわずか15分で大神島に到着する。
海の向うに見えている島に行くのに島尻港が頼もしく感じられた。



福岡県久留米市野中町  『 ドイツ兵俘虜慰霊碑 』

2013-04-17 04:58:59 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



久留米競輪場の入り口にある 「 ドイツ兵俘虜慰霊碑 」









慰霊碑の正面には 「 剣の上に1914下に1919 」 と刻まれている








右側面にはKOCHなどの名前が刻まれている





KOCH(コッホ),Heinrich(?-1914): 海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。
[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、
負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。
10月25日、重病になったコッホは、所長樫村弘道少佐、
所員の山本茂中尉に「故国の母親によろしく伝えて欲しい」との遺言を残し同日、同病院で死亡。
グラボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boe sler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた。
葬儀に際してはグラボウ中尉の別れの言葉、弔辞(樫村所長・通訳は山本中尉)、
久留米市代表の弔辞、仏教の僧侶が線香を焚く。
写真家達が葬儀の様子を撮影し、100人に及ぶ群衆が見つめていたという。ハンブルク出身。

EMOAN(エーモアン),Max(1887-1915): 第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。
1914年12月14日、収容されていた熊本西光寺を脱柵した科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。
1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。
バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。

SIMON(ジーモン),Robert(?-1916): 第3海兵大隊第2中隊・伍長。
1916年3月19日久留米で死亡。
ザクセンのグリューン(Gru"n)出身。

BOESLER(ベスラー),Ernst(1880-1916): 第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。
1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。
グラーボウ(Grabow)中尉等60名が俘虜となった。
10月9日、日本への俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。
1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡。
ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。

SANZ(ザンツ),Josef(?-1916): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員(オランダ・ハンガリー)
日本へ親善訪問で来る途中、開戦に巻き込まれ、ドイツ軍に合流した・2等水兵。
1916年4月21日久留米で死亡。
ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。

SCHLUND(シュルント),Alfred(?-1918): 海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。
1918年3月13日久留米で死亡。
ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。






左側面にはPALUYなどの名前が刻まれている



PALUY(パオリー)Karl(1886-1918)第3海兵大隊第2中隊・軍曹。
1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。
1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、
その折りパオリー軍曹は、部下11名とともに逃れた。
1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。

WERNER(ヴェルナー),Alfred(?-1918): 第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。
1918年5月8日久留米で死亡。
シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。

KETTGEN(ケットゲン),Johann(?-1919): 第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。
1919年3月2日、久留米で死亡。
ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。

P‘O’NITZ(ペーニッツ),Erich(?-1919): 第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。
1919年8月2日肺結核により久留米で死亡。
西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。

BAUER(バウアー),Josef(?-1919): 第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。
(1919年11月7日久留米で死亡)
ドナウ河畔のヴェルト出身。







競輪場への道沿いから見た慰霊碑






慰霊碑の横にある説明板












久留米競輪場へは100回くらい訪れている。
競輪選手としてのデビュー戦も久留米だったし、
そして何より九州地区で行なわれる競輪学校の入学試験も久留米だった。
そんな久留米競輪場の入り口に 「 ドイツ兵俘虜慰霊碑 」 がある。
競輪場内にある参加選手の宿舎管理棟の入り口にもドイツ兵の墓らしきものがあったし、
「 ドイツ兵の俘虜収容所が3コーナーの裏手にあった 」 と聞いたことがあるが、
当時は気にも止めていなかったので写真すら撮っていない。


第一次大戦に参加した日本は中国青島のドイツ要塞を攻略し、
俘虜となった5000名近くが各地の収容所に分散収容された。
「ドイツ兵俘虜」といっても親善訪問で日本に来る途中、開戦に巻き込まれ、
青島でドイツ軍に合流したオーストリア・ハンガリーの巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号の
乗組員も含まれるほか、現在のドイツ、オーストリアの他、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、
ハンガリー、ユーゴ、北イタリア出身者が含まれている。

戦闘に携わった18師団司令部もあったためか、久留米収容所はその中でも最も多く、
大正3年(1914)10月6日開始、大正9年(1920)3月12日閉鎖された。

11名の死者が久留米山川陸軍墓地に埋葬されたが、
大戦終結後の1920年1月16日、土葬されていたコッホとパウリ―以外の9名の遺骨は火葬されていて
ドイツ側委員に引渡された。


現地説明板によると、
第一次世界大戦に参戦した我が国は、中国青島のドイツの要塞を攻め落とし、
多数のドイツ兵を俘虜としました。
彼等を収容するため、大正3年(1914)10月から同9年(1920)3月まで、久留米に俘虜収容所が置かれました。
多い時には1319名を収容し、全国12ヵ所の収容所で最大でした。

5年余の収容期間に戦場での傷がもとで2名、病気などで9名、合わせて11名が亡くなりました。
これらの死者の追悼のため、俘虜達は帰国に際し、この慰霊塔を建立しました。

碑の正面には収容期間を示す西暦と剣が、両側面には死者の姓が記されます。

背面にはドイツ語で「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり黄泉の国に去った汝ら」、
台座には「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と鎮魂の詩が刻まれています。

俘虜は長い抑留生活の中でも、音楽会・作品展示会・スポーツ大会などを催し、
市民との交流を深め、近代の久留米の芸術・文化や市民生活に大きな影響を与えています。

またドイツの進んだ科学技術は後に久留米の基幹産業たるゴム産業の技術革新に大きな貢献をしています。
久留米の歴史にドイツ兵俘虜は大きな足跡を残すものです。

と書かれてある。




大分県院内の石橋 19 「 渡谷橋 」

2013-04-17 04:57:03 | 大分の石橋










新橋と平行して架かる石橋の橋脚部に降りる階段







輪石の頂部が薄いやや扁平なアーチ








さまざまな大きさの自然の栗石で積まれた壁石







橋裏の輪石部分はしっかりと組まれている







新橋が出来た今でも現役として活躍している







「 岩戸橋 」 と刻まれた親柱




所在地 /  大分県宇佐市院内町下船木 ・ 高並川
架橋  /  大正末期
石工  /  不明
長さ   /   16.7m    幅   /    3.6m
拱矢  /    2.3m    径間  /    7.4m
環厚  /    50㎝    
単一アーチ



渡谷橋は下船木集落と小稲集落の中間に位置する橋で、
県道664号線から左に100mほど入った高並川に架かっている。
橋はまだ現役として活躍しているが、横にはすでに新しい橋が架かっている。
橋は段差違いで平行しているが、まだまだ活躍しそうな造りである。
また、橋の袂には親柱が立っており、そこには 「 岩戸橋 」 と刻まれていた。
確認はしていないが、おそらく別名で 「 岩戸橋 」 と呼ばれていたに違いない。


渡谷橋へのアクセス
渡谷橋へは、県道664号線 ( 円座中津線 ) を神通橋から400mほど行って
左に100mほど入ったところに新橋と平行して架かっている。
駐車は、橋の近くの広くなった場所に駐車した。


北九州市八幡東区  近代産業遺産 ・ 官営八幡製鉄所 「 東田第1高炉 」

2013-04-16 06:09:50 | 近代化産業遺産・土木遺産



官営八幡製鉄所 「 東田第1高炉 」
















転炉







出銑口から流れ出した溶けた鉄















熱風管








溶鉱炉







高炉内部












所在地  /  福岡県北九州市八幡東区東田2
竣工   /  1901年 ( 明治34年 )
設計者  /  リュールマン ( ドイツ )
建設   /  グーテホフヌンク・ヒュッテ社 ( ドイツ )
■ 北九州市指定史跡


明治政府は当初、原料となる鉄鉱石を産とする釜石に製鉄拠点を設けようとしたが、
高炉の設計に問題があって、結局2年後には廃止して民間に払い下げてしまう。
次に計画されたのが官営八幡製鉄所であった。
欧米の製鉄所を視察した結果、ドイツ方式で建設することを決定し、
ドイツから技師を招いて明治30年から工事に取り掛かった。
そして4年の歳月を経て、明治34年に晴れて高炉が完成し、
運転を開始したのもつかの間、炉の火を落とすほどのトラブルにさいなまれる。

原因はドイツ式の炉をそのまま用いたことにあった。
燃料となるコークスの質が異なる日本にあって、すべてを外国に頼った結末であった。
やがて高炉の改良により製鉄は成功し、経営的にも軌道に乗ることになった。
その後、昭和47年の廃炉まで日本のあらゆる建設・生産現場に
この高炉の鉄が旅立って行ったのである。


東田第1高炉へのアクセス
東田第1高炉へは、JR九州・スペースワールド駅より徒歩1分。
自動車の場合は、北九州市高速道路・大谷インター下車し、
スペースワールドまで約10分。
駐車場は高炉横のスポーツショップに駐車できる。



沖縄県宮古島市 ・ 川満 『 ヌース°マー御嶽 』

2013-04-16 06:06:48 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














国道390号線をウプカー御嶽から上地方面へ約50mほど進んだ左手前方に
クワノハエノキを中心にこんもり茂った雑木林の丘が目に付く。
そこが目指す 「 ヌース°マー御嶽 」 である。
言い伝えによれば、その昔、宮古に大津波があった時、
この丘だけ波に飲まれることなく取り残され津波の被害がなかった。
そのため村人の崇めるところとなり、 「 ヌース°マー御嶽 」 と名づけられたという。
ちなみに、ヌース°とは、川満の方言で 「 上る 」 あるいは 「 乗る、登る 」 の意味を持ち、
マーはマース ( 塩 ) が訛ったものと考えると、漏れや残りの意味を持ち、
「 ヌース°マー 」 は、 「 ヌース°マース 」 ( 乗り残し ) に由来すると考えられる。


ただ、ここで単純な疑問だが、 「 スに¨ 」 は 「 ず 」になるが、
「 スに゜ 」 になると、どんな発音になるのだろうか?
なんとなく 「 プ 」 と読んでしまいそうな 「 ス゜ 」 である。



大分県院内の石橋 18 「 御仮屋橋 」

2013-04-15 06:12:34 | 大分の石橋










均等な石で組まれている輪石部分







切り立った谷の土手から直接橋脚が出ている







草に覆われた御仮屋橋







橋の横は急斜面になっており下は深い淵になっている





所在地 /  大分県宇佐市院内町下船木 ・ 高並川 
架橋  /  大正初期
石工  /  不明
長さ   /   21.8m     幅   /  3.0m
拱矢  /    3.3m     径間  /  8.2m
環厚  /    40㎝    
単一アーチ



御仮屋橋は県道664号線を挟んで神通橋の反対側に位置し、
神通橋の架かる船木川と御仮屋橋の架かる高並川の合流地点付近になる。
橋は切り立った谷の土手から橋脚が築かれており、橋の下は深い淵になっているため、
わずかな位置からの撮影になったが、危険をともなうためこれだけの写真が一杯であった。
草に覆われていなければ上からもその石組みが見れたであろうが、
柄の長い鎌か何かで刈り取らなければ困難だと思われる。


御仮屋橋へのアクセス
御仮屋橋へは、神通橋と県道664号線を挟んだ反対側になるため、
神通橋を参考にしてもらいたい。
駐車は、橋の手前の広くなった場所に駐車した。



長崎県南島原市南有馬町  『 わかめ麺 ・ ひょっつる 』

2013-04-15 06:10:10 | グルメ



“ ひょっつる ” を製造販売している 「 なかむら屋 」







買って帰った 「 ひょっつる 」








まるで “ ざるそば ” である





南有馬港島堤灯台の写真を撮りに南有馬中学校から南有馬港に向って行くと、
左側に「ひょっつる」と書かれた車が停まっていた。
「 “ ひょっつる ” ちゃ何やろ? 」 って思いながら店の前を通り過ぎたが、
やはり気になって灯台の写真を撮った帰りに店を覗いてみる事にした。

「 おいちゃん、何で “ ひょっつる ” ね? 」 って訊くと、
「 ひょっと口に入れたらつるっと入ったけん、 “ ひょっつる ” ち付けたったい! 」って言うた。
早速買って帰って食べたが、見た目は “ ざるそば ”、 味は “ わかめ ” 。
まぁ、 「 海草のざるそば 」 ば、食べよると思うてもらうとよかかも知れん。
「 もずく 」 に比べたら麺が太いので食感が味わえて、
ひょっと口に含んだらつるっと入って、喉越しのようして旨かった。
これから暑うなる季節には持って来いの一品やろうね。