
首里崎山町にある 「 御茶屋御殿跡 」


比謝橋の袂にある吉屋チルーの歌碑

吉屋チルーの説明
首里城の裏側の脇道を入ったところにかつて栄華を誇った琉球王朝の御茶屋御殿があった。
御茶屋御殿 ( うちゃやうどぅん ) は沖縄県那覇市首里崎山町にかつてあった琉球王府の迎賓館で、
かつ文化の殿堂である。
識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも呼ばれた識名園が首里城の風水上の南(方位の西)に位置している事から
南苑 ( なんえん ) とも呼ばれたのに対し、
御茶屋御殿は首里城の風水上の東(方位の南)に位置していた事から東苑 ( とうえん ) とも呼ばれた。
建設・造園は尚貞王代の1677年 ( 康熙16年 ) ~1682年 ( 康熙21年 ) の間とされる。
1683年 ( 康煕22年 ) に琉球を訪れた冊封使一行の接待の一部が御殿で執り行われた。
正使の汪楫 ( おう しゅう ) は著書 『 使琉球雑録 』 の中でこの付近を景勝の地と讃え、
御殿を東苑 ( とうえん ) と名付けている。
第二次世界大戦で園内の建造物は全て破壊された。
現在、跡地には、カトリック教会及び付属幼稚園が建っている。
2006年12月25日、那覇市議会の12月定例会において
「御茶屋御殿の早期復元・整備を求める意見書」が議決されている。
この地に来ると、琉球歌人の吉屋チルーを思い出す。
※ 1600年代に実在した(1650年生まれが有力)と言われる女流歌人。
「吉屋チルー」は沖縄県読谷村(恩納村山田という説もある)の生まれとされ、
7.8才の時に家庭の事情で那覇の遊郭に女郎として売られる。
その時に詠んだ歌が一番。
恨む 比謝橋や
情きねん人ぬ
我身渡さと思てィ
掛きてィうちぇら
訳
恨むべし 比謝橋よ
私を渡そうと思って
情けのない人が
架けておいたのか
二番は、那覇の遊郭から故郷を偲んだ歌。
島んとゥなどとゥ
クバんソイソイとゥ
繋じある牛ぬ
鳴ちゅらとゥみば
訳
故郷の村も静まり
クバの葉がそよそよと
繋いである牛が
鳴いていると思うと、、、
三番は、病床で詠んだ歌
鳴ちゅるむぬ聞かぬ
鳴らむぬ聞ちゅし
くぬ世からあぬ世
近くなたら
訳
鳴っているはずの音が聞こえず
鳴ってないはずの音が聞こえる
この世からあの世が
近くなったのだろうか
病床で三番を詠んだあと、20才前後の若さで自殺したといわれる。
那覇の遊郭で自殺した吉屋チルーのお骨を郷里へ運ぶ途中、
新しい王家の別邸の命名の話が出たところ、
甕 ( 骨壷 ) の中から声が聞こえ詠まれた、といわれた歌で
「 詠み人知らず 」 という説もある。
読谷村と嘉手納町に架かる比謝橋に吉屋チルーの歌碑がある。
四番は、骨壷の中から詠まれた歌
拝でィ拝みぶしゃ
首里天加那志
遊んィうちゃがゆる
御茶屋御殿
訳
拝んで拝みきれぬ
首里の王様よ
遊んで遊びきれぬ
御茶屋御殿(という名がよいよ)