先日、モーツアルトとアファナシエフのピアノを仕入れて店を出たところでSのマスターにばったり会う。お誘いを受け、ボサノバを聞く。
聞いていると、この世界も広く深いことを思い知らされる。ポルトガル語の歌を聴いていると、なぜかその底に深い悲しみのようなものを感じてしまう。ポルトガルという国の辺境性、辺縁性なのか、大学を出てまもなく訪れたポルトガルの人里離れた寺院や寂寥感漂う海辺の印象がその言葉を聞いた時に重なるためなのか。前途に無限とも思える可能性を見ていた20代中ごろ、その青年の思い描いていた世界と余りにもかけ離れたものを前にした時の戸惑いなのか。
そんなこんなで、ポルトガルの言葉や音楽を聞くと人生 (人間) の哀愁を感じてしまう。南米は自分にとっては未開の地。どんな形でもこれから触れ合う機会を作ってみたい。
そう言えば、先日の会でイベリア半島の隣組、スペインからのお客さんと話すことができた。率直なところを聞いてみたが、どうもフランスとは相性が悪いようだ。ポルトガル、イタリアとはうまくやれるのだが、とのこと。それにしてもラテン系の人とは話が弾む。以前からの知り合いのように。
美術の話になった。私がダリの町の美術館を訪ねて以来、それ以前の印象が崩れ、彼は誠実で優れた芸術家だと思うようになったと言うと、スペインにはもっと偉大な芸術家、ベラスケス、ゴヤ、、がいる、と返してきた。ダリはあまり評価していないようであった。またマドリッドにはいい美術館があるのだが、お客さんが来た時しか見に行けないとぼやいていた。巴里でも同じようなことを聞いた。どこでも忙しい人にとっての芸術は同じなのかもしれない。
その彼はマドリッドからアメリカの大学に移ることになったという。彼に声をかけた人とは7-8年前バーゼルでお会いしているGTさん。世界は広いようで狭い。