昨日はゴッホ展とルオー展を目指して出かけた。最近知った
Ana Vidovic を聞きながら。ゴッホ展会場の近くまで行って驚いたが、サーカス cirque 状態。あっさり諦めてルオー展へ。ゴッホ展に足を運んでよかったのは、駅で貰ったチラシで
The Phillips Collection 展(印象派が中心らしい)が来ることを知ったことか。
ジョルジュ・ルオー展は、ゆったりとした空間で充分に楽しめる雰囲気であった。作品が多いことにも好印象を持った。絵を買い占めて、自分だけで見ようとした人もいるようだが、そこまで行かなくとも作者と自分とが1対1で対峙しているということが意識できないと、感動などは得られないのではないか。展覧会場で見る実物より画集で多くの楽しみを得られるという状況の一端は、そういうところからきているのかもしれない、などと考えていた。
会場の中にあったROUAULTという文字を見て、しばらくピンと来なかった。初めて彼の名前を知ったという瞬間であった。
彼の絵は深い精神性を描いているようなので、形で理解しようとする今の私にはいずれも同じように見えてきて、訴えかけてくるものは少なかった。その中では、版画の「回想録」 « Souvenirs intimes »、「ユビュおやじの再生」 « Réincarnations du Père Ubu» や「グロテスクな人物たち」 « Grotesques » と題する連作は自分の中に入ってきた。また、全作品のタイトルを読みながら見ていると、彼の考えていることが少しずつわかってくるように感じた。フランス語を勉強するようになって、作者が以前よりも近くに感じられるようになるのは理解できるが、タイトルの音の美しさを感じていると、不思議なことに絵の方も気に入ってくるという変化も起きていた。嬉しいことである。例えば、
« Crépuscule ou Île de France » 「たそがれ あるいは イル・ド・フランス」
« Paysage biblique » 「聖書の風景」
« Fin d'automne II » 「秋の終わり II」
また « Passion » 「受難」シリーズではタイトルが文章になっているものが多く、美しく感じられた。
« ...Sans poids, sans volume, il s'avance » 「…影まぼろしのように彼は進む」
« Est-ce que vous savez les douleurs du monde ? » 「お前たちは世の苦しみを知っているか?」
« ...nous mourrons le même soir... » 「…私たちは同じ晩に死ぬだろう…」
« Ces yeux, ces tristes yeux » 「この眼、この悲しそうな眼」
« Je revois le démon et son air de docteur ... » 「私は再び悪魔を見る、学者ぶるそのさまを…」
« Je cours tout le long de votre ombre » 「私はあなたの影に寄り添って走ります」
«...il sera professeur au Collège de France... » 「…彼はコレージュ・ド・フランスの教授になるだろう…」
« Elle est sortie de son trou, à l'heure chaude du soir ... » 「彼女は自分の穴から外へ出た、夕暮の暑い時刻に…」
« Celui-là qui ricane sans jamais rire ... » 「決して笑わないで嘲る人…」
« Le silence des nuits est fait d'une innombrable plainte » (chemineau) 「夜のしじまはおびただしい嘆きによってつくられている」(渡り者)
« Le rêve me repousse et je ne peux plus être » 「夢は私を拒み、私はもういらない」
などなど。いずれにせよ、彼の絵を理解するには人生経験がもっと必要なのかもしれない。あと10年、20年後に見てみたい画家になった。
会場を出た後、彼の画集やショップで見つけた「
アジェのパリ」という写真集を、館内の人影のないカフェで眺めながら、展覧会を振り返っていた。さらに、この前 (
27 avril 2005) 話に出たシェフのHHさん (岡本太郎の若い時に少し似ている) のお店に久しぶりに顔を出し、手の込んだ料理と Corse の Rosé をいただきながら余韻を楽しんで帰ってきた。