フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

「かのように」を読んで

2005-05-22 12:07:20 | 出会い

先日、traumeswirren さんの 「かのようにの哲学」 に触発されて浮かび上がってきた想いを書いてみた (13 mai 2005)。しかし、鴎外の「かのように」 は知らなかったので、この機会に読んでみた。読んでみて、自分の想像していたお話とかなり違っていたので、少し書いてみたい。

主人公は歴史学を専門とする秀麿。大学を出た後ドイツでの3年の留学を終え、帰ってきたところで悩みを抱えているようだ。事の根本原理とされているものが正しいのか、よく調べてみると証明できるものはほとんどないのではないか。それにも拘らず物事を進めるためには、そこの真偽のほどは置いておいて、あたかも真実のようにやっていく、それを「かのように」 (als ob = comme si) と表現しているようだ。それを前提にしなければどうしようもないと感じている。しかし、それでは本当のものにはならないのではないか。というような迷いがあるようだ。彼の場合はこの国の歴史を書こうとしている。そうすると神話をどう扱うかが問題になる。神話は歴史的真実なのか、それは確かめられないのではないか。

同様の問題は、他の研究分野でもわれわれの実生活でも起こっている。事の本質を知るということは、それこそ一生あっても足りない大仕事。生きていくためには、ほとんどの場合「かのように」として考えずに過ごしている。そうしなければ、先に進めないから。しかし、それに違和感を持つ人は、立ち止まって物事の底にあるものを探る仕事に就くのだろう。芸術家や真理を求める科学者など。さらに、芸術家や科学者においても同質のジレンマが出てくるだろう。生活者(ある世界でやっていく人)として破綻することがあるのは、「かのように」と遣り過ごすことができないことと関係があるのかもしれない。「かのように」せずに何かをやり遂げる人は本当に凄い人なのだろう。


これは主題と外れるが、登場人物が葉巻をよく吸っている。鴎外のイメージからすると意外だったのと、私もたまに吸うので嬉しくなった。35ページくらいの短編に5箇所もそのシーンが出てくる。実際に近くになければ書けないような描写もある。

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雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入った時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑み込んだ、その瞬間の事を思い浮かべていた。


室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、暖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜えて、運動椅子に身を投げ掛けた。


秀麿の銜えている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚り掛かっている秀麿のチョッキの上に、細かい鱗のような破片を留めて、絨毯の上に落ちて砕けた。


秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」
「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」
「うん、僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語のようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注ぎ込むように感じるものだから。」
「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩った。


これまで例の口の端の括弧を二重三重にして、妙な微笑を顔に湛えて、葉巻の烟を吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起こしながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、暖炉を背にして立った。

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コメント (2)
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