フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

「かのようにの哲学」に触発されて

2005-05-13 20:22:34 | ブログの効用

最近、密度の濃い素晴らしいサイトを創られている方からのコメントやトラックバックをいただき、自分の世界が広がる喜びを味わっている。これこそが bloggeur の醍醐味というものなのでしょう。有難いと思う反面、恐縮し、身に余ると感じている自分がいるというのも正直なところです。昨日 traumeswirren さんの「夢のもつれ」を少し読ませていただいた。その中に森鴎外の小説「かのように」をもとにした 「かのようにの哲学」 を読んでいるうちに自分のことに想いが及んだので、そのことについて書いてみたい。

その小説は読んだことはない。しかし、そのテーマを自分なりに想像してみると、それはいつも自分の中にあったことと関係がありそうに思えた (いずれ読んでみて間違いがあれば訂正したいが)。大学を出たあたりから、社会における自分の姿はあくまでも仮の姿、割り振られた役割にしか過ぎない、なりきらない方がよいのではないか、というようなことを薄々と感じていたようだ。それから30年ほど経ってみて、その直感に従って生きてきたように思う。

「夢のもつれ」でも指摘されているように、鴎外はいくつもの社会的役割を与えられていた。それをどのように受け止めていくのか、という点は非常に大きいだろう。彼が最後は生まれた時の森林太郎として死んだということは、やはり彼は芸術家的(!)精神で生きたということを意味しているのではないだろうか。社会的に相応な役割を本気では演じていなかったのではないか。もしそうだとすると、深い共感を覚える。自分もそうありたいという欲求を持ってやってきたのではないか、と感じるからだ。結局のところ、この世のこと(現実のもの)だけを真実 la vérité として捉えるのか、それ以外のもの、例えば、目に見えないもの、記憶の中にあるもの、夢の中で経験したことなども真実として受け入れられるのかによって人生は大きく変わってくるのではないだろうか。真実を自分の中に起こるすべてのものとして捉えると、より重層的に生きられるのではないか。

昨日は、久しぶりにジャズを聞きに出た。体格のよい、声量のある、リズム感のよい女性ヴォーカルだった。彼女の歌を聞きながら、音楽に感動を覚えるのは、何かと繋がっているという感覚が呼び起こされるかどうかにかかっているのではないか、というようなことをワインとともに考えていた。外との繋がりもあるが、自分の中に澱のように溜まっている過去の出来事、過去に呼び起こされた感情などが再び浮かび上がるということもありうる。そうでなければ、自分の中に化学反応など起こらないだろう。同じことは、文学や美術など芸術一般に言えるのだろう。一方、発信する芸術家の方は、何を考えて演じ、創造しているのだろうか。

似たようなことは以前にも触れています(13 avril 200518 avril 2005)。 

「かのように」 を読んで (22 mai 2005)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする