フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

ラ・トゥール展にて

2005-05-07 23:10:48 | 展覧会

昨日あたりから、外を普通に歩いても鼻も眼も全く感じなくなった。花粉症からやっと解放 (!) されたようだ。この機会に、以前に (20 mars 2005) 見に行く予定にしていたジョルジュ・ド・ラ・トゥール (Georges de La Tour) の展覧会に上野まで出かけた。

会場に入ると始まったばかりという講演会があることを知る。塩川徹也氏による「見えないものを描く: 17世紀フランス思想とジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品世界」と題するお話。いくつか参考になる点があった。

まず、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (1593-1652) とパスカル (1623-1662) の関係である。ミシェル・セールという人の "La Tour traduit Pascal" (ラ・トゥールはパスカルを翻訳する) という論文から説き起こしていた。すべて理解したとは言いがたいが、これから注意して見ていきたいと思う。途中、"Paris vaut bien une messe" の アンリ4世 (Henri IV) の名前などが出てきて、当時の背景が少しだけ開けた感じ。

もうひとつ面白いと思ったのは、以前に出かけた2つの展覧会 (17 avril 200524 avril 2005) で感じたことと関係がある。クールベの展覧会で、原物よりは写真集の方が気持ちよく見られたのはなぜかと考えていて、その後に見たフランス絵画展ではそういうことがなかったので、絵を見たときの自分の体調のせいにしていた。しかし、ことはそれほど単純ではないのかもしれないと今日思った。

講演会の資料の中に、パスカルの「パンセ」から以下の引用があり、さらに塩川氏が註を加えている。

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「絵とはなんと空しいものだろう。原物には感心しないのに、それを写し取り、似ているといって感心されるのだから。」

 註:模倣すなわち再現は、伝統的に造形芸術の本質と考えられていた。それが、「原物」の与える効果を逆転させる力を秘めていることは、すでにアリストテレスが指摘している。「わたしたちは、もっとも下等な動物や人間の死体の形状のように、その実物を見るのは苦痛であっても、それをきわめて正確に描いた絵であれば、これを見るのを喜ぶからである」(「詩学」第四章)。
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ということは、コピーを好むというのは、それほど不思議なことではなかったのかもしれない。今日いろいろな作品(といっても期待したほど多くはなかった。むしろ、贋作が目に付いた。)を見ても、感動するというような作品はなかったように思う。すでに画集で見ていて自分の中にイメージが出来上がっていて、それを覆すような、上回るような驚きは得られなかった。強いてあげるとすれば、私の画集では小さな白黒写真でしか見られなかった 「書物のあるマグダラのマリア」 という作品が印象に残った。全体としてはほとんど動きがないのだが、よく見ると唇の僅かな動きと小鼻の緊張が感情の昂ぶりを確かに表現していた。それと"Sainte Jean-Baptiste dans le désert" (「荒野の巡礼者聖ヨハネ」) にも見られた色使いが気に入った。

見終わった後、カフェでゆっくりする。それから会場の方を遠くから眺めていると、なかなかよい景色であった。展覧会を知らせる案内に使われている "Le Tricheur" (「ダイヤのエースを持ついかさま師」) の絵が、後ろの芝生やロダンの "La Porte de l'Enfer" (「地獄門」)などと、やや傾きかけた穏やかな陽の光の中に響き合っているように見えた。会場の中では得られなかった感動であった。コピーが充分に私を楽しませてくれていることを実感。ラ・トゥールとの出会いからを振り返ってみると、一番惹かれたのは東京都美術館で初めて見た展覧会のポスターにあった 「蚤をとる女」 "La Femme à la puce" (ここで取り上げてある絵) であったということは、なんと皮肉なことだろう。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (20 mars 2005)

コメント (2)
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