この本は、先日(10 mai 2005)お昼の遊歩時に目に付いて買ったもの。リービ英雄の9・11体験に基づく小説とされている。彼の語り口は、いつも(と言うほど読んではいないが)そんな印象を受けるのだが、意識的にものを外から見ようとするところがある。そこから生まれる aloof な雰囲気、微かな sarcastic な響きは嫌いではないが。
この小説を9・11に絡めて読むことも可能だろし、おそらく多くの人がその周りで論じているのだろう。ここでは、9・11のためにニューヨーク・ワシントンへ向かうところが、カナダの町に足止めされたことから始まるこの小説から呼び起こされたものについて書いてみたい。
これまでにトラップされているということを意識したことが1-2度ある。本来いるべきではないと思われるところに閉じ込められているという、どうしようもない状況に陥ったと感じたことが。始めはアタフタと、もがいたりしたものだが、そのうち、そういう状況にいること自体に意味があるのではないかと、その意味を探るようになった。そうしているうちに、自分というものが少しずつわかってきたような気になったものである。
これは著者の生き様とも関係があるのだろうが、自分がいたところ、あるいは本来いるべきところから抜け出た人の漂わす何か、さらに言葉・文化の上でも育ちから抜け出てしまった(ファーストネームで呼び合い話していることに違和感を感じるところまで)ところからくる不思議な浮遊感のようなものを至るところに感じることができる。ある時期アメリカで暮らした経験から、すべてではないにしても理解できる。その名状しがたい何かに共鳴してしまう。それにしても肉親との関係が遠く、やや機械的に感じてしまうのは私だけだろうか。
この小説では、たばこがアクセントとして頻繁に、しかも印象的に使われている。ニコチン中毒ではないかと思われるくらい強烈な黄に染まった彼の歯をテレビで見たことがあるが、主人公はほとんど彼の分身ではないか。
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ワインに関するプチ情報も。
「S大学で日本語を学んでいた頃、エドワードはよく地元のカペルネ・ソービニヨンの赤ワインを飲んでいた。同じ西海岸だから買えると思ったが、カベルネ・ソービニヨンは合衆国のワシントン州までしかとれなくて、ここまで北になると赤のしぶいものといってもカベルネより甘口のメルローしか作れない、とフランス系なのかわずかななまりで話す白人中年の店員に言われた。」
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『千々にくだけて』の続編として書かれた『コネチカット・アベニュー』の最後の方に自分の育ったワシントンを出てカリフォルニア、東京へと移り住んでいった主人公が以下のように述懐するところがある。
「ぼくは二十年前にここを出た、かれらはそのまま、ここにいた。エドワードは日本語でそう考えた。
ぼくは出てよかった、という傲りもなく、ただ、かれらは、ここを出ないで、ここにいた、という思いだった。」
この一節を読んでいて、こんなエピソードを思い出していた。
その昔、札幌のホテルでピアノの弾き語りをしていたジャズシンガーが語ってくれた。まだ30を越えたばかりにしか見えない彼女はサンフランシスコから来ていたのだが、ジャズドラマーの大御所で若手のプレーヤーを育成したアート・ブレーキー(Art Blakey)がその町に来た時に彼女に聞いたという。「ここで一体何をやっているの?」と。
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エドワードは9・11の半年後に血の繋がらない妹アニータにワシントンで久しぶりに会い、近くのカフェで話をする。
「ピクチュア・ウインドーには、三月のやわらかな光が流れ込んでいた。
若い黒人のウェイトレスにアニータは、ハイ、ベロニカ、と声をかけながらピクチュア・ウインドーの近くの席にエドワードをさそった。 ...
ピクチュア・ウインドーのすぐ外を、どちらもグレイのビジネス・スーツの男と女が通り過ぎて行った。男も女も二十代だった。」
数年前、ワシントンを訪ね、抜けるような、乾燥した青い空の下、人影のほとんどないダウンタウンの広い通りを歩いている自分の姿が目の前に浮かんでいた。