フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

誰がパンテオンへ QUI EST PENTHEONISE, DREYFUS OU BLOCH ?

2006-07-01 16:35:53 | 海外の作家

最近の Le Point に IdéesPolémique というセクションがあり、今年パンテオン Panthéon に誰が入ることになるのか (panthéonisation, panthéoniser)、という問題を扱っている。数ヶ月前から名前が挙がっている二人のどちらが適格なのか、論争が起こっているようだ。一人はドレフュス事件で有名な Alfred Dreyfus、もう一人は知名度は落ちるが歴史学者でアナル派の開祖 Marc Bloch。いずれも愛国者ではあるが、国家・歴史の犠牲になった人。しかも二人ともユダヤ人である。

アルフレド・ドレフュス
Alfred Dreyfus (9 octobre 1859 - 12 juillet 1935)
マルク・ブロック Marc Bloch (6 juillet 1886 – 16 juin 1944) [ブロックについての詳細はこちらへ。]

ドレフュスについてはエミール・ゾラの J'accuse のこともあり、何となく知っている程度だったが、フランス語を始めてから聞いた Les Misérables の簡易版CDの中で、ヴォルテールが死後名誉回復に乗り出したカラス事件とともに紹介されているのを不思議だが鮮明に覚えている。

マルク・ブロックについてはほとんど知らなかったので、ネットをサーチしていたらこのブログの記事が引っ掛かってきた。以前に、中世学者のル・ゴフさんの語った言葉として彼の名前を引いていたのだ。今回ウィキペディアで読んでみると、人間として (en tant qu'homme) 歴史に関わった人物として感銘を受ける。熱いものを心のうちに秘め、何かのために燃えるエネルギーを備えていた人物ではなかったのか。1939年、家族を抱えた53歳が関節炎の身をおして志願兵となったという。1943年には南部が侵攻されたのを見てレジスタンスに加わるが、翌年3月8日にリヨンでゲシュタポに捕らえられ、拷問を受け、6月16日に銃殺された。

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誰をパンテオンに葬るのか、結局のところ大統領の意思による。そこには両陣営のいろいろな思惑や運動もあるようだ。ただ誰が入るかという論争や長続きしないその場限りのお祭り騒ぎより、ドレフュス事件の歴史を教え、マルク・ブロックの作品に触れさせることの方が、共和国の価値観が蔑ろにされている現状を考えると、もっと重要で緊急を要するのではないか、というのが結論のようであった。

« Peut-être est-il plus urgent d'enseigner l'histoire de l'Affaire Dreyfus et de faire connaître l'œuvre de Marc Bloch que de les célébrer au cours de cérémonies qui risquent d'être sans lendemain. »

« Marc Bloch au programme, c'est plus important que son corps au Panthéon. »

今回、彼の著書に、「パパ、歴史って何んになるの、教えて」 « Papa, explique-moi donc à quoi sert l'histoire. » という子供の問いかけに答えるために書かれたという晩年の "Apologie pour l'histoire ou métier d'historien" (歴史のための弁明あるいは歴史家の務め) があることを知る。ネットで読めるのでいずれトライしてみたい。

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この記事には以下のような本が紹介されている。

Alfred Dreyfus : L'honneur d'un patriote de Vincent Duclert (Éditeur: Fayard; 19 avril 2006; 1259 pages)

L'Histoire, la Guerre, la Résistance de Marc Bloch, Annette Becker (Préface), Etienne Bloch (Préface) (Éditeur: Gallimard, Quarto; 19 janvier 2006; 1094 pages)

L'Etrange Défaite de Marc Bloch (Éditeur: Gallimard, Folio; 1 janvier 1990; 326 pages)

Les Lieux de mémoire, tome 1 par Charles-Robert Ageron et Pierre Nora (Éditeur: Gallimard, Quarto; 23 mai 1997; 1642 pages), tome 2 (23 mai 1997; 3014 pages), tome 3 (23 mai 1997; 4751 pages)

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ところで、「マーク・ブロッホ」 の日本語情報をリンクしようとして再度探してみたが、驚くべきことに見つからない。翻訳もされていないようだが、ひょっとすると日本では知られていないのか、研究している方もいないのだろうか。あるいは私の探し方に問題があるのだろうか。この分野に詳しい方のご教示をいただければありがたい。

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(3 juillet 2006)
Marc Bloch の日本語訳が 「マーク・ブロッホ」 ではなく 「マルク・ブロック」 であることを Lys 様から教えていただきましたので、そのように全文訂正いたしました。ありがとうございました。

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ブルース・チャトウィン BRUCE CHATWIN

2006-06-27 00:29:31 | 海外の作家

Bruce Charles Chatwin (13 mai 1940 - 18 janvier 1989)

ブルース・チャトウィンの本をサーチしていたところ、興味ある言葉を見つけた。ニューヨークタイムズのブック・レビューにあなたの職業は、と問われて次のように答えたという。

"Raconter des histoires est la seule occupation concevable pour un être aussi inutile que moi"
(嘘をつくことは、私のように役に立たない人間に考えられる唯一の仕事だ)

そして死ぬまでボードレールの言うところの 「家 (一ヶ所に留まること) の恐怖という大病」 を治すことができなかった。
"Jusqu'à son décès, il n'a pas guéri de ce que Baudelaire appelle "la grande maladie de l'horreur du domicile"."

同じような意味合いで次のような言葉も見つかった。

ブルース・チャトウィンは、アンチ・パスカルである。「人間のすべての悲しみは一部屋に静かにしていることができないことから生まれる」 というパスカルの考えを受け入れない。
"Bruce Chatwin est l'anti-Pascal qui affirme que toute la tristesse de l'homme découle de son incapatcité à rester calmement dans une pièce."

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梅雨の読書 LECTURE POUR LA SAISON DES PLUIES

2006-06-13 20:10:06 | 海外の作家

秋を感じた時と同じように、梅雨に入ると本を読みたくなるようだ。先日注文したばかりの本が届いた。キーボードを押したのは相当前のことのようで、忘れかかっていたが。今、注文した時のことを思い出している。

私のブックマークしている allzabesuto さんのブログで紹介されていた作家、アリナ・レイエスに触れてみたくなり2冊注文した。
Sept nuits (Alina Reyes)
Nue (Alina Reyes; photographie, Bernard Matussière)

最近の Le Point の広告で見つけたリョサの本。彼がフランスで本を出してから今年で30年になるのを記念して出版されたらしい。彼の人生を振り返る対談と彼についてのエッセイが出ている。写真もよい。
La vie en mouvement : Entretiens avec Alonso Cueto (Mario Vargas Llosa, et al)

先日、少しだけ触れたワシリー・カンディンスキーの声を直に聞いてみたくなり、比較的短い次の一冊を注文していた。彼を知り、楽しむために生れてきたと言われたことも大きく影響しているようだ。
Du Spirituel dans l'art et dans la peinture en particulier
(Wassily Kandinsky)

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(version française)

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サン・テグジュぺリと空を飛びながら REGARDANT LA TERRE AVEC SAINT-EX

2006-06-12 22:31:48 | 海外の作家

サン・テグジュペリAntoine de Saint-Exupéry; 29 juin 1900, Lyon - 31 juillet 1944 disparu en vol) の目でフランス、スペインの空を飛ぶという衛星放送の番組に行き当たった。その顔立ちのはっきりした景色を見ているうちに、心の奥に焼きついている風景が浮かび上がってきた。すべて北アメリカの大陸を車で移動している間に溜まっていたものだ。移動が長くなると、いつも自分がどこにいるのかわからなくなる。その風景の中に完全に溶け込んでしまうかのようだ。今思い返せば、アメリカにいたこともこの地球と一体になっていたような不思議な感覚が襲う。

この番組の素晴らしい映像をただただ見て楽しむ。見ているうちに、いずれこの目でこれらの土地を見て歩きたいという衝動が芽生えてくるのを感じる。この地球を見ているとなぜか切ない思いが込み上げる。この押し寄せる揺らぎは何んなのだろうか。

« On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux. »
「本当のことは目に見えない、心で見なければ見えないのだよ」

と、「星の王子さま」 の中で言っているという。彼の作品は何一つ読んだことはない。しかし、やっと彼の境地を少し分かりかけているかのようである。

以前から興味があった北アフリカのマグレブ Maghreb が見える。その中に入って匂いを嗅ぎ、空気を感じ、土地の人と触れてみたいという願望を確認した。そこは彼が 「星の王子さま」 の着想を得たところだということを知る。

« On n'est jamais content là où on est. »
「自分のいるところには決して満足しない。」

« C'est l'esprit qui mène le monde et non l'intelligence. »
「世界を動かすのは知性ではなく心だ。」

« Ce qui importe, ce n'est pas d'arriver, mais d'aller vers. »
「重要なことは目的地に着くことではなく、そこに向かうことだ。」

« Dans la vie il n'y a pas de solutions ; il y a des forces en marche : il faut les créer et les solutions suivent. »
「人生に答はない。あるのは前に進む力だけだ。その力を生み出すのだ。そうすれば答は後からついてくる。」

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「O嬢の物語」の著者 "HISTOIRE D'O" ET SON AUTEUR

2006-04-18 23:32:11 | 海外の作家

今週の Le Point から。1954年の名作 「O嬢の物語」 (Histoire d'O) について話を聞いたことはあるが、残念ながら本を読んだことも映画を見たことはない。この著者についての本 "Dominique Aury" が出たのを機会にその紹介記事が文学欄に出ていた。

この著者は3つの名前を持っていたようだ。Dominique Aury、O嬢を出した時の名前は Pauline Réage、そして生まれた時の名前が Anne Desclos。どうしてこれだけの名前を持っていたのか。この記事のタイトルが La clandestine となっているところから予想されるように、自らの正体を明らかにしたくなかったのだろうか。少なくとも名前を2つ持つ身としては、その複雑な人となりが想像される 「O嬢・・」 の著者に興味が湧く。

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ヴァレリーの本届く DES LIVRES DE VALERY M'ONT ETE ENVOYES

2006-01-20 23:54:17 | 海外の作家

またやってしまったという感じである。先日 Paul Valéry (1871-1945) の本が三冊も届いた。そこで注文していたことを思い出した。去年の DALF-C1 の試験以来、頭の片隅にあったのだろう。

Variété I et II
Variété III, IV et V
Tel que

折角なので、このところ通勤時間はヴァレリーさんとご一緒している。« Variété I et II » から始めているが、文章の密度が濃く、参考にしたい表現に溢れている。言葉がおもしろいように紡ぎ出されるという印象だ。内容も興味深いものが多く、目を見開かされる。気に入ったものがあれば、これからちょくちょく書いていきたい。

今日は、この本の最初のエッセイ "La crise de l'esprit" (精神の危機) 。過去に栄えた文明や帝国が、その学問も文法も辞書も、科学も文学も批評も、すべてが跡形もなく灰燼に帰すことがあった。文明は生命と同じように危ういものなのだ。この話を聞いて、アレキサンドリアのことを思い出した。先日の 「書の至宝」 展も、漢字文化がよくここまで残ったなという感慨を持って見ていた。

このエッセイでは、ヨーロッパ精神なるものの危機について考えようとしているようだ。そのためには "Mais qui donc est Européen ?" (ヨーロッパ人とはそもそも何者なのか?) という問に答を出さざるを得なくなる。その答えを読みながら、これはどこかで聞いたことがあるという思いでいた。

ヨーロッパの優越性を決めているのは人間の質である。積極的に事に向う気持ちや強いが偏らない好奇心、想像力と論理力とのバランスの良さ、懐疑的だが悲観的ではなく、神秘主義だがそれに身を委ねてしまうことはなく、、というようなことがヨーロッパ精神に特徴的に見られるという。

あくまでも一つの見方として、このようなことを言っている。ヨーロッパ人に共通するのは、歴史の過程で次の三つの影響を受けたことである。一つはローマの影響。第二に、キリスト教。第三には、ギリシャに負うところが大であるという。例えば、人が人としてあるための精神のあり方、考え方。それから、ある判断を批判的に詳細に解析すること、それにより、夢想やあやふやなもの、完全に想像の産物であるものから回避すること。ここからしか科学は生まれなかっただろう、ということになる。これこそヨーロッパ精神の最も確かで、最も個人的な栄光である。他の国にも芸術はあるが、真の科学はヨーロッパにしかなかった。ヨーロッパが科学の生みの親なのだ、と強調している。

どこで聞いたのかを思い出した。以前に紹介した 「美しきもの見し人は」 (堀田善衛著) の中で、ヴァレリーがヨーロッパ精神を特徴付けるものとして 「ギリシャ」、「キリスト教」、「科学精神」 の三つをあげていると書かれていたのを。その原典を今読んでいるという喜びがある。

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バルガス・リョサとの対話 ENTRETIEN AVEC MARIO VARGAS LLOSA

2005-11-08 23:07:41 | 海外の作家

マリオ・バルガス・リョサについては最近数回触れている(10月20日26日27日)。その勢いで彼の本を数冊注文してしまった。今日の本はその中の一冊。

« Entretien avec Mario Vargas Llosa » (Terre de Brume 2003)

1994年10月にブルターニュで開かれた会と関連した内容が出ている。いくつか響いてきたものがあったので書いてみたい。

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« Éloge de la marâtre » (「継母礼賛」の訳で出ている) についての話題。

「この小説の主人公はエキセントリックで狂っている。しかし私が賞賛することをやろうとしている。それは理想主義者 utopiste であろうとすること。社会の中にユートピアを求めること、完全なるものを求めること。しかし、それは不可能であり、破滅に結びつくことに気付く。ただ、人はユートピアなしには生きられない、完全なる世界という考えを抱かずして生きることはできない、絶対的なものを実現しようとする意志なくして生きられないことも理解する。
 そう考えて、個人的な視点から完全を求めようとする。家庭の中で、個人的な関係において満足を求める。完全なるユートピアを求める。 
 つまり、自分自身を、自分の人生を、運命を自分で完全にコントロールしようとする。」

この小説を読んだわけではないので、作者が言いたいことは違うかもしれないが、自分自身をコントロールできる自由を持ちたい、自分の中にユートピアを求めたいという考えがかなり昔から心の奥底にあるためか、この発言に反応したようだ。この本は届いているので、いずれ彼の考えに触れてみたい。

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この他、いくつかの作品の背景について語っている。この手の本は小説を読んでから軽く流すのがよいのだろう。対談の最後に、政治との関係について聞かれて次のように答えている。

「今後は、実際に政治に専門的に関わることはないだろう。将来もう一度大統領を目指すというような。あれは事故のようなものだった。ただ作家として、インテリとして、今起こっていることには興味を持っている。サルトルの時代に育っているので、参加する義務があると感じている。書いて、考えて、批判を加えながら。それは知的生活の一部を成しているものだろう。」

フランスには「水を得た魚のように」に当たる « heureux comme un poisson dans l'eau » という表現があるが、政治をやっていてそう感じたのかと聞かれて、彼はこのような話をしている。

「余り楽しい経験ではなかったが、私を豊かにしてくれる (enrichissant) ものだった。その3年間で多くのことを学んだ。知っていると思っていたペルーとは全く違う国を発見した。キャンペーンをするということは、作家が政治的な議論をすることとは全く違う。政治のこともよくわかるようになった。さらに自分自身のこともよくわかるようになった。もう一度やりたいとは思わないが、振り返ってみると非常に学ぶことの多い経験だった。」

「ペルーは全く異なる三つの地域から構成されている。海岸線、都市が一方にあり、他方にアマゾン流域の森林地域、そしてアンデスの山岳地帯。3年間で今まで知らなかったアンデスをよく訪れた。そこは歴史の発祥の地であるが、現在は多くの難題を抱えた地域でもある。選挙後に « Lituma dans les Andes » という小説を書いている。それは野蛮で原始的な社会と精神状態について語った小説だが、それはアンデスに限らず、どこにでもあるものだと思う。

伝統的で、儀式に満ち、魔術的、『前理性的 pré-rationnelle』、先祖伝来 atavique といってもよいかもしれない。それは西洋の理性的な文明では地中に埋められているかに見えるが、消し去ることのできないものでそこ(底)にある。その野蛮な暴力的側面が何かのきっかけで蘇る。現代至るところで見られる説明できない暴力の背景にはこの問題があるのではないか。

そのため、私はギリシャ神話のディオニソス Dionysos を小説では使ったのです。暴力は人間の条件ではないか、われわれの中に埋め込まれているものではないのか。ギリシャ人はそのことを知っていて、理性の拒否、暴力、非理性の神話を作ったのではないだろうか。」

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彼はコロンビアの芸術家フェルナンド・ボテロ Fernando Botero (1932-) の本に 「ある有り余る豊かさ « Une somptueuse abondance »」 という序文を書いている。ボテロと言えば、去年の夏だろうか、« Quelqu'un m'a dit» の Carla Bruni のコンサートを聞きに恵比寿ガーデンプレースに行った時の感動を思い出した。最初に例の異常に太い、豊かな、黒い彫刻が目の前に現れた時、「これは何だ!?」という叫びと不思議な喜びが襲ってきたのだ。近寄ってみるとボテロという人であることがわかり、近くの本屋を探したが満足の行くものはなかった。その後執着することもなく忘れていた。

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「 たのしみはそぞろ読みゆく書の中に 我とひとしき人を見し時 」 (橘曙覧 たちばなのあけみ)


(version française)

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アルベール・メンミ ALBERT MEMMI - ECRIVAIN NOMADE IMMOBILE

2005-11-05 00:05:10 | 海外の作家

文化の日に久しぶりにTV5を見る。丁度、作家のドキュメンタリーが流れていた。話を聞いていると、作家なのだが人文科学をも研究している全人的なインテリ intellectuel total が紹介されている。彼はすべてが説明可能だ tout est explicable という立場に立っていて、文化を跨ぎ、自らの属するところを越え、考えている。社会的には laïque で、思想においては raisonnable、(もうひとつの原則は残念ながら聞き逃した) を基本に置いて生活している。チュニジア生まれのユダヤ人でフランコフォン。そのせいもあるのだろう、少数派 minoritaire の立場を理解する。植民地を支配する方 colonialiste とされる方 colonisé の立場についても考察を深めているようだ。その過程で、マグレバンの文学、フランコフォンの文学に大きな可能性をもたらした。

Albert Memmi (1920-)

今年で85歳になる。画面で見るところ、まだまだ意気軒昂であった。彼の思想のキーワードには私にも訴えかけるものがあるので、いずれ触れてみたい。

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バルガス・リョサ再び LA PENSEE LITTERAIRE DE VARGAS LLOSA

2005-10-27 23:22:50 | 海外の作家

マリオ・バルガス・リョサの 「若い小説家に宛てた手紙」 から再び。

第三章以降は技法から小説を眺めるという構成。例えば、「文体」、語り手を変えることにより醸し出される異なる「空間」、「時間」、メインの流れの中に別の話を組み込む「入れ子箱」(マトリョーシュカのように)の手法などなど。その上で、偉大な小説がなぜ偉大なのか、偉大でない小説がなぜそうなのかが、具体的に書かれている。取り上げられている小説はほとんど読んでいないので、理解するところまではいかないのだが。しかしこれから読んでいく時には参考になるのだろう。それ以上にこの本を頼りに、ここで取り上げられている小説を読んでみたいという気にさせられた。偉大な小説家ばかりではなく、彼の出身でもあるラテン・アメリカ文学なども。

読んでいて、はっとしたのは D.M. トマスというイギリスの作家が書いた 「ホワイト・ホテル」 が取り上げられているところ。時間的視点では、過去、現在、未来と三つの 「転移」 を持っており、さらに時間的な転移だけではなく現実から幻想的な世界にまで移行するという構造を持っているという。その時、この本を20年ほど前に買ってそのままにしていたことを思い出したのだ。探してみると見覚えのある表紙 (The Viking Press の 1981年版) が出てきた。その昔が蘇るようで少し嬉しくなる。近いうちに中身に触れてみたい。

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バルガス・リョサによる小説家 ROMANCIER: QUEL TYPE DE PERSONNE ?

2005-10-26 23:46:55 | 海外の作家

今週のお昼の読書は、先週話題にしたマリオ・バルガス・リョサの 『若い小説家に宛てた手紙』(原題: Cartas a un joven novelista)。

若き小説家志望の人に書いた手紙の形式を取っている。最初の方で、小説家というのがどういう人種なのか、どういう職業なのか、ということについて書かれてあり、目を開かせてくれた。予想はついていたが、なかなか大変な仕事である。

いやしくも文学を志す人はそもそも報われることなど考えてはいない人種だ。結果ではなく、書くこと自体がいいものだと感じていてそこに歓びを見出すことのできる人。そこから生まれるであろう社会的、経済的、政治的なものなど全く期待していない人。もしそうだとすると、発禁処分にあっていた先日のミハエル・ブルガーコフは、そういう状況にあってもひょっとすると満足していた人なのかもしれない。

作家というのは、ごく少数の例外 (ランボーなど) を除いては、長い気の遠くなるような研鑽を積んだ結果はじめて生まれるもの。そういう人の心のどこかに現実に対する違和感・不信があるはず。現実に満足している人が空想の世界を構築しようとするだろうかというわけである。

フローベールは、「ものを書くのはひとつの生き方である」 と言っているという。書くことが人生と考えていた人としては当然だろう。その結果、自分の人生のすべてを書くことに捧げることになる。自分の中にあるものを漁りまわすのだ。プルーストが記憶の襞の中まで分け入り、壮大なドラマを紡ぎ出したように。その姿は、生きるために自分の足から食い始める神話の動物を想起させる。その結果、作家がテーマを選ぶのではなく、テーマが作家を選ぶことになる。自分の奥深くから出てくるものを拾い上げ、これだけは書かなければならないと考え、それ以外を排除する人こそ真の小説家ということになる。

まだ読んでいる途中だが、とにかくいろいろな小説と小説家が出てくる。これから小説に対する彼の考えが披瀝されることになる。

(à suivre)

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* リョサに関連して *
先日、リョサが現状を見るためにガザへ出かけたということを書いたが、その報告が Le Monde に出ていることをウニさんからのTBで知る。このようなタイムリーなTBは本当にありがたい。

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マリオ・バルガス・リョサ VARGAS LLOSA - ECRIVAIN VOYAGEUR

2005-10-20 23:57:18 | 海外の作家

今週の Le Point に興味深いインタビューが出ていた。今回も初めての人で、ペルー生まれの行動する作家、マリオ・バルガス・リョサ。最近、ラテンアメリカについての本を出したのを機にインタビューを試みたらしい。彼の話を読んでみて、その生き方には大いに魅かれるものを感じた。

Mario Vargas Llosa (1936 Arquipa, Péru -)
Dictionnaire amoureux de l'Amérique latine (Plon, le 17 octobre 2005)

ほぼ70年に及ぶこれまでの人生を外から簡単に見てみると、1936年南米はペルーの生まれだが、法学と文学をマドリッドの大学で修める。20代前半に小説を発表し、パリに移り住む。20代後半には小説 「都会と犬ども」 (La ville et les chiens) を発表。イギリスで数年過ごした後、ガブリエル・ガルシア・マルケス Gabriel Garcia Marquez (1928 Aracataca, Colombia -) についての仕事で30代前半に哲学と文学の博士号をスペインで得る。1990年 (50代半ば) にはペルーの大統領選に出て、アルベルト・フジモリに敗れる。その後、次のような本を出す。
1993年 Le poisson dans l'eau
2002年 La fête au bouc 
2003年 Le paradis - un peu plus loin

彼は一箇所に留まることなく、リマからマドリッド、ロンドン、パリと生活の場を変えている。どこが住まいなのかの問いに、「ポイントは、今いるところに住んでいるということ」 と答えている。「リマは若き日の思い出のため、パリとマドリッドはヨーロッパの鼓動を感じるため、そしてロンドンは仕事をするため」 とのこと。

Pour l'essentiel, j'habite où je suis.....Lima, c'est pour les souvenirs de ma jeunesse. Paris ou Madrid, c'est pour sentir le pouls de l'Europe qui bouge. Mais Londres, c'est l'idéal pour travailler.

非常に規則正しい日常のようで、朝起きて、散歩してから新聞を読んでシャワーを浴び、執筆後は図書館かカフェ、それからまた執筆。毎日がこの繰り返し。ただ時として閉所恐怖症になるので、そんな時には特派員として飛ぶようだ。長い間自分に閉じこもるのは不健康と考えている。

Je suis très organisé : réveil, promenade, lecture des journaux, douche, écriture, bibliothèque publique ou café, puis encore écriture. Toujours la même chose, le même rythme....De temps à autre, je deviens claustrophobe, et, alors, je me transforme en envoyé spécial ici ou là....Un écrivain ne doit pas s'enfermer trop longtemps avec ses fantômes. Ce serait malsain....

彼はフローベールの賛美者であるが、フローベールのように修道者、引きこもり、文学的なばか騒ぎの信奉者として生活する (空想の世界に閉じこもる) ことは好きになれないらしい。精神の健康を維持するためにはフローベール的な要素とジャーナリストの (現実を見る) 側面を持つ必要があるのではないかと考えている。

そういう生き方をしているので、世界中のすべてのことに興味があるという。イスラエルがガザから撤退した直後に様子を見に行っている。ラテンアメリカのスラムよりもひどかったらしい。イラクについても、独裁者がいなくなるのはよいが、それが戦争に値するものだったのかと考えている。フランスについてもなかなか厳しい。伝統的な反アメリカ主義 antiaméricanisme が今でも根強く残っていて、さらに反自由主義 antilibéralisme (と anti-globalisation の感情) が加わり、それだけが今日のフランス人の唯一のコンセンサスになっていないか。フランスの反アメリカ主義はラテンアメリカよりも強いのでは。フランスはいつまでこの状態を続けるのだろうか。ナショナリズムに対してフランスをこれまで偉大にしてきたユニバーサリズムを蘇らせるようにしなければならないのでは、、。

左の知識人として生きているように見えるが、との問いには、次のように答えている。
「インテリは一般的に理想的な世界を求める。それは現実よりはユートピアで出会うもの。民主主義はより悪くならないようなシステムなので本来的に不完全なもの、理想的なものではない。私は今でも utopiste。政治の世界以外では。」

フランスでは、フローベール/マラルメの系統 (lignage Flaubert-Mallarmé) とシャトーブリアン/バレス/マルローの系統 (lignage Chateaubriand-Barrès-Malraux) があるそうだ。前者は 「象牙の塔の中で書き、人生を忘れる (j'écris dans ma tour d'ivoire et j'oublie ma vie) 」 というもので、後者は 「作品を書くために冒険に満ちた人生を送る (la vie aventureuse comme prétexte de l'œuvre) 」 と考える。日本でも 「小説を書くことが人生」 に対して 「人生の中で小説を書く」 という分け方で小説家を見る話を聞いたことがあるが、人間の生き方にも通じるだろう。その中で彼はどこにいるかというと、片足をフローベールに、もう一方をマルローに置いているという。ジャーナリストが本を書くというのではなく、あくまでも作家が旅をしているという感じなのだろうが、。

精神のダイナミズムを適度にバランスをとりながら、あらゆるものに興味を示し、動き、観察し、そして発する。素晴らしい人生を送ってきたように思えるのだが。作品にも近いうちに触れてみたい。

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小さな出会い - ブノワ・デュトゥールトゥル BENOIT DUTEURTRE

2005-06-22 22:31:59 | 海外の作家

仕事が終わってこの暑さの中、冷房のない部屋に帰っても大変である。今日はこの界隈の散策に出た。8時少し前、モンパルナス駅の近くの小さい librairie-papetrie を見つけて、中に入ってみる。先日、Le Point で読んだプルーストの幼馴染が書いた本(« Une saison avec Marcel Proust » par René Peter)があるかどうか、店の人に聞いてみた。女主人はウインドウに展示してあった本を取ってくれた。その時、店の中央に置かれた、本が載ったテーブルの前に座っていた男が、プルーストの専門家ですか、と聞いてきた。全くの趣味でいろいろ読んでいるんですと答え、それから話が始まった。彼は、ブノワ・デュトゥールトゥル (Benoît Duteurtre; 1960-) という作家で、自著にサインをして売っているところだったのだ。本のタイトルは、La petite fille et la cigarette という小説である。すぐに買おうとしたが、荷物の重量オーバーのことを思い出し、私の問題は荷物が重いことで恐らく買えないだろうと言うと、100キロもあるんですか、と返してきた。彼は結構本を出していて、その店で目に付いただけでも次のものがある。

Tout doit disparaître
Le voyage en France (この作品で 2001年の Médicis 賞を受賞している)
Gaieté parisienne
Service clientèle
La Rebelle

彼の作品を読んだことがないので何とも言えないが、タイトルを見るだけだと結構面白そうである。日本に帰ってからネット注文で読んでみたい。彼は、非常に気さくで芸術家を気取るところもなく、笑顔を絶やさず親しみやすい。どこから来たのかと聞くので日本と答えると、自分の作品はすでに10カ国ぐらいで訳されているのだが、まだ日本との取引はないと言っていた。一瞬、自分にそれだけの力があれば訳してみるのも面白いかも、との不遜な思いも過ぎった。もし翻訳関係の方がこのブログを読まれていたら、今がチャンスかもしれない。(上の写真はその時に撮ったもの)

帰りにあたりを歩いていて、モンパルナスに劇場がいくつかあるのを見つける。その中のひとつ、Théâtre de la gaîté Monparnasse (何と訳すのだろうか)で私にとっては見覚えのある作曲家エリク・サティー Erik Satie (1866-1925)の眼鏡が描かれているポスターを見つける。受付の人に聞くと、サティーの手記などをもとに語りやピアノ演奏などがある面白い出し物だ、と言って親指を上に上げた。つられて入ろうとしたが、私のカードがここではうまく機能せず、明日以降の楽しみに取って置くことになった。

ちょっと歩くと、何かに当たるというパリの夜であった。

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この2日後、サティーの芝居を観る機会が巡ってきた。
エリク・サティー ERIK SATIE (2005-6-25)

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アレクサンドル・デュマ - ゴーストライター

2005-06-08 22:45:04 | 海外の作家

今週の Le Point を開いて面白そうな記事を探す。文化欄に行くとアレクサンドル・デュマ (デュマ・ペール Alexandre Duma Père  :1802 - 1870) についてのお話が出ていた。その中の

LES NÈGRES DE DUMAS

の見出しが目に飛び込む。Nègres とあるので、彼の出自に関するお話かと思いきや、この言葉には « personne qui prépare ou rédige un ouvrage signé par un autre écrivain (célèbre) » という意味があることを知る。代作者、ゴーストライターである。デュマのことを語るとき、常に付き纏う問題のようだ (le serpent de mer = 大海蛇;<ニュースのない時に>繰り返し取り上げられる俗受けのする話題 = sujet à sensation)。

そもそもの始まりは、デュマの協力を得られなかったジャーナリストによって1845年に発表された悪意に満ちた、人を貶める小冊子(la brochure haineuse et diffamatoire)。「アレクサンドル・デュマ小説工場」 とでも言うべき、« Fabrique de romans. Maison Alexandre Dumas et Cie » のタイトルで。相当に言葉遣いは荒いのだろう。上品に言えば (il est de bon ton de dire que ...)と断った上で、「三銃士」の作者は他の名作を書いてはいない、実際に書いたのは小説家志望の歴史の先生、オーギュスト・マケ(Auguste Maquet)だ、という内容らしい。

まず、戯曲。当時は協力者がいるというのは普通であったようだ。最も有名な協力者は、Gérard de Nerval で、共著があるという。ただ、旅行記、回想録は彼自身が書いている。

いくつかの小説は協力者が構想 (un canevas) を提供して、それを元に彼が書いていた。協力者はシナリオライターのようなもので、「誰がジョン・フォードやヒッチコックがシナリオのすべてを書かないからといって非難するだろう」と言っている。彼はそれから想像力を働かせて、元のものとは全く別物を仕上げていける(Le résultat final n'a plus grand-chose à voir avec la copie qui lui a été fournie.)天才であったとしている。

最も有名な協力者はオーギュスト・マケで、多くの作品に参加している。彼との不和の後には、ガスパール・ド・シェルヴィーユ (Gaspard de Cherville) と共同作業をしている。

名前を貸しただけのものは、「末っ子 (Un cadet de famille)」、「アイバンホー (Ivanhoé)」、「ロビン・フッド (Robin des bois)」などの翻訳もので、彼の愛人が訳していたようだ。特に Victor Perceval と名乗っていたマリー・ド・フェルナン (Marie de Fernand)が有名。しかし、そこでも彼が手を入れていたのだろう、デュマらしさが見て取れる (La griffe de Dumas crève les yeux.)という。

この記事の著者はデュマに非常に好意的で、もうそろそろこの伝説を忘れる時ではないか、と結んでいる (Les nègres de Dumas? Il serait temps d'oublier cette légende.)。

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雨の日

2005-05-30 21:41:18 | 海外の作家

昼、小雨降る中、敢えて外に出る。どんなことがあっても出ることが気分転換にいいということに気づき始めているようだ。カフェの深いソファに腰をおろして、この春フランスから訪ねてきた友人の贈り物 La première gorgée de bière et autres plaisirs minuscules を開く。そのページは、「アガサ・クリスティーの小説」 (Un roman d'Agatha Christie) だった。

雨の日に読んでいると、静かに落ち着く。雨に絡む表現が目に入る。

la pluie sur la pelouse au-delà des bow-windows
(出窓の向こうの芝生に降る雨)

Il y a des meutres, et cependant tout est si calme. Les parapluies s'égouttent dans l'entrée, une servante au teint laiteux s'éloigne sur le parquet blond frotté à la cire d'abeille.
(殺人がある。しかしすべてが静まりかえっている。玄関では雨傘から水が滴り落ちている。蜜蝋で磨かれた床を乳白色の顔色をした召使の女が遠ざかっていく。)

目を街路に向けると、緑が一段と深くなっている。今頃から夏にかけての外国出張から帰るといつも最初に気づくのが、街の緑が濃くなっていることだ。鬱蒼とも言えるくらいに。どこか違ったところに辿り着いたような錯覚に陥る。今年の夏はどうだろうか。

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花粉明け -マザリン・パンジョ (II)

2005-05-09 23:46:01 | 海外の作家

花粉が去ったせいか、久しぶりに集中力を持って仕事ができるようになった。晴れた日、風が吹いている、という状況でもその中を歩きたくなる。今日はお昼の散歩をするも気持よかった。なんともいえない解放感である。花粉症にやられていたこの3ヶ月を振り返ってみると、いろいろな考えが頭を巡っていたが、なぜか現実感がない。どこか遠くの出来事のように感じられる。徐々に日常が戻ってきて、これまでの出来事はまた記憶の彼方に沈んでいくのだろうか。


昨日取り上げたマザリン・パンジョの « Bouche cousue » から気になった表現をいくつか。

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J'ai longtemps souhaité être différente, c'est-à-dire normale.

Le plaisir n'est pas dans le résultat. C'est le contact du stylo et la douceur du papier qui me plaisent.

Bien avant mois, papa fut qualifié d'« illégitime ». Illégitime parce qu'à gauche alors qu'il venait de la droite ; illégitime à gauche parce qu'il a crée un nouveau parti qui n'était ni la SFIO ni le PSU, illégitime parce qu'il n'était pas en Angleterre quand il était prisonnier, et parce qu'il est passé par Vichy, illégitime parce que n'étant pas affilié....Il a su trouver une légitimité en lui-même, cela en revanche ne se transmet pas. Mais pour ça aussi, bien sûr, il était illégitime.
(自分の illégitimité を認めた上で、父親に対しても冷静で厳しい見方をしている。Vichyで何をやっていたのか、ということも最近マスコミ取り上げられている。これはもう少し読んでみたい。)

Je suis coupable. Coupable d'exister – illégitime –, coupable parce que cachée – trop moche ? trop bête ? trop ressemblante ? –, coupable parce que honteuse, coupable parce que traître – j'ai choisi de vivre plutôt que de me souvenir –, coupable d'appparaître – prétentieuse –, de publier – profiteuse –, coupable d'être l'aimée – désolée pour les autres –, coupable socialement, affectivement, coupablement. Tout le monde est d'accord.

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