司馬遼太郎さんの『街道を行く』シリーズの中で、
佐賀県について、「佐賀はな~んもなか」と自虐的な
土地の人の言葉が出てくる。
徳川末期の佐賀鍋島藩は、嘉永年間に製鉄所も、
蒸気機関も開発し、慶応2年にはアームストロング砲
を自力開発して、4門も備えていた、日本で最も工業の
発達した藩であった。
アームストロング砲の威力があったからこそ、上野の山に
立て篭もった彰義隊は、雲散霧消となるのである。
この佐賀が、倒幕の功労藩、薩長土肥の肥に当たる。
明治の元勲の中にも、佐賀藩士が異様なほどに多い。
中で初代枢密院議長で、日本赤十字社を起こした
佐野常民と副島種臣の二人が、天保の前の文政に
生まれた人だが、大木喬任、江藤新平、大隈重信が
それぞれ天保3年、5年、9年生まれである。
新政府の樹立に功があった薩長土肥の、それぞれが
大久保利通による、強権政府が出来るや、反政府の
運動を起こすのだから、人の和は難しい。
特に江藤新平は、自らが制定した法律によって、処刑
される憂き目にあった。
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