作家デビュー1年間で6冊、
それでギネスの世界記録を認証された。
ボクにとっての第7冊目は大好きな歴史もの。
内容が多岐にわたり過ぎて、
目下校正というか、編集作業に追われている。
これこそ内容で勝負!
パパゲーノ
作家デビュー1年間で6冊、
それでギネスの世界記録を認証された。
ボクにとっての第7冊目は大好きな歴史もの。
内容が多岐にわたり過ぎて、
目下校正というか、編集作業に追われている。
これこそ内容で勝負!
パパゲーノ
ロンドンのギネス本部から、承認の通知を受けて
一週間。まだ半信半疑で、ボクのこととは思えない。
でも、本当にボクはギネスブックに登録されたんだ。
「一年間に最多のノベル6冊を上梓した著者」として
世界記録を樹立したんだ。
これって、ヤッパリ凄いことなんだろう。
あまりにも意外な展開で、本気で喜び、大騒ぎが
出来ないのはナゼだろう。
著作の数が評価されただけで
中身が賞賛を浴びた訳じゃないからだ。
これからは、中身で勝負といきたい。
パパゲーノ
二年間に及ぶ通院があったのに、いざ透析となって、入院してから、
初めて一日の水分摂取量が800ミリだと宣告された。
入院食の朝食を洋風にしたから、牛乳がワンパックついてくる。
それを飲むと、もう600ミリしか飲めない。
朝食後のクスリを飲むのに水を100ミリ。
もはや残るは500ミリだ。
ビールの中缶である。
「スープもおつゆも全部水ですからね」と、生意気なナースが
上からモノをいう。
これで殆どの患者が滅入ってしまうのだった。
あんなマイナス思考への導きもない。
今のボクはかなり勝手に水分を摂っている。
十二年目の貫録である。
パパゲーノ
昨夜のことである。なにげにテレビを見ていたら
グレイとか関ジャニ・エイトなんてグループが、
歌いかつ踊る番組に変わった。
「負けとるじゃないか」と、ボクは叫んだ。
鶴野・野久保・上地という男優三名で結成した
「羞恥心」というグループ。
紳助のイタズラ心からの、冗談みたいな出発
だったが、歌といい、ダンスといい、断然こっちが
優っている。
ヘキサゴンという、芸能界のおバカを集めて、
紳助がイビル番組から、素晴らしい歌が次々と
ヒットして、紳助のプロヂュース能力の凄さに
ただただ脱帽である。
紳助は歌詞も書いているが、これまた素晴らしい。
パパゲーノ
思わぬ作家活動で、執筆や校正で
やたら視神経が疲れる。
それで今年は夏バテを食らった。
血液検査で、血中タンパクが減少し、
それに連れて、赤血球の数も減った。
お手の物の「ボノラート」を、
一日に一・二杯飲みだして、著しく回復
しつつある。
さすがにドイツの作りたてだけに、
栄養価が高く、脂肪年燃焼のパワーアップ
が分かる。
紅茶で溶いたのも美味いが、コーヒーブラック
で割ると、無糖ながら「ボノラート」の甘さが
調和して、これはホントに「めっちゃウマイ」
透析以来、尾籠なハナシで失礼ながら、
大腸からも水分を強制的に吸い取られ、
出るべきがカラカラに固まって困っていた。
それがなんと、す~っと昔に味わった?
「快便」なるものに再会ができた。
ウソじゃない。およそダイエット食品なるものに、
こんな「腹もち」が良いものも他には無い。
「痩せる効果」については、今更語ることも・・・
パパゲーノ
ボクは子供の頃から、メロンをさして尊ばない。
それよりも西瓜である。西瓜党だった。
九七年六月に、ドイツから大事な客が来たとき、
ボクは笑顔が出なかったらしい。
お互い親戚付き合いのカレは、遠慮なしにいった。
「なんで、そんなに不機嫌なんだ?」
言われてボクは愕然とした。
それなりに必死に応対していたつもりだったから。
尿毒症がそこまで進んだとは、その時に自覚した。
七月に北海道への家族旅行を行った。
新富良野プリンスホテルに五連泊旅でのあった。
ドラマ「北の国から」の撮影中で、ホテルで倉本聡も
純を演じる吉岡クンも見た。
ボクの尿毒症はますます悪化していたらしい。
美味しいはずの、そばも、ジャガバタも、ホテルの
名物カレーライスも、臭いが受け付けられなかった。
ホテルが宿泊客のために、用意してくれたバスで
美瑛や麓郷にも行ったが、足に鉛が詰まった感じで、
ほんの少し高いラベンダー畑にも、昇る気がしなかった。
そこに置いてあった長椅子に座りこんだ。
目の前のガラスの箱の中に西瓜がよく冷えていた。
ボクはそれを頼み、ゆっくり味わった。
生涯で、こんな美味いものは、初めてだと思った。
その西瓜こそが、今のボクの幻の食べ物になっている。
四十台から五十台にかけて、ボクの朝食には
必ず半分に切ったグレープフルーツがついていた。
グレープフルーツを輪切りにしたやつを、ドイツ製の
片側にギザがある専用のスプーンを使って、
実をえぐり出して食べるのが、朝の決まりの儀式で
あった。
一巡しても、まだ実は残っており、二順目でもまだ
残っていて、三順目ですべての実を食べつくす。
十一年前の九月末をもって、ボクが十年以上続けた
このセレモニーが中断となった。
ボクはついに腎臓の機能がなくなり、透析が始まった
のであった。
入院病棟に看護学校を、その年卒業したばかりの
新米のナースがやってきて、「べからず集」を述べた。
その中に「生野菜と生果物の厳禁があった。
理由はカリウムだった。
健常者には、必要栄養素のカリウムだが、
透析患者には厳しいコントローリが課せられた。
「聞いてないよぅ~」
透析患者は、病院にもよるだろうが、血液検査がある。
ボクのクリニックでは、月に二回行われる。
カリウムとリンの値に、多くの患者が悩む。
基準値を超えると、心停止の恐れがあるからだ。
そんな事情で、臆病なボクは大好きだったグレープ
フルーツと、泣いて別れた。大好きなのに・・・・・
「今度生まれかわって、めぐり逢ったら、必ず・・・」
まさか、そこまでは言わない。
グレープフルーツだけじゃない。
西瓜なんて、とんでもない。
大型の梨とも、交際を禁じられた。
みかんの季節がきたって、週に一度か二度、
それも一個だけ。
ボクの血液検査の数値は、カリウムもリンも、
ともに4前後で、これは健常者のストライクゾーン。
だから偶には良いだろう。
今年は今朝のが3個目だと思う。
仮釈放のときだけ会える、恋人のように、
ボクはグレープフルーツを愛しつくした。
空気が急速に冷たくなって、その分神経痛の痛み方が
キツクなっている。
もっともよく効く「暖め」のためのホットカーペットを、今年は、
あの暑いさなかにも出しっぱなしであった。
普段の日よりも、かなり早い6時台に目を覚まし、鎮痛用の
テープを腰から脚にかけて張りまくり、やおらホットカーペット
上に身をまかす。
今日は「整形外科」に行く日なのである。
昨日が雨だったから、外来患者が多い。
いつもはトップなのに、今日はなんと5番目の診察。
神経ブロック注射の後も、神経痛の痛みが消えない。
誰かボクの痛覚を取り去ってくれないか。
パパゲーノ
「週刊文春」の社員記者が来社取材して、
「飲めば痩せるボノラート・スープ大旋風」という特集記事を
書いてくれたのが、八五年夏のころでした。
時を同じくして、テレビ朝日の長寿番組「徹子の部屋」で、
スープの溶き方から、体験談まで放映されたり、FM放送で、
超大物歌手の体験談が語られたり、マスコミ関係で、十数回も
取上げられ、大ブームになりました。
当時は全国の百貨店の輸入食品売り場の花形商品でも
ありました。
ブログの場で、あまり宣伝はしたくないのですが、世界中で
臨床データがある、ダイエット食品はボノラートしかないはずです。
かつてはソニープラザなどのバラエテイの花形でもありましたが、
諸事情が重なって、いまはネットだけの、直輸入直販の形に
まとめています。
ドイツでの製造品をそのまま、一切の手を加えないことで、
脂肪燃焼のパワーがおよそ150%アップしたと思います。
「栄養所用量」のすべてを充たすどころか、美容面でも最重要な
ビタミンEにいたっては、少量の11倍、しかも本当の天然物が
含有されています。お肌の蘇りには保証付と自負します。
パパゲーノ
以前ブログで書いた【 飲めば痩せる不思議なスープ 】に
「タンパク質摂取制限」についてご質問をいただきました。
皆さんにもご関心あることと思い、ここにまとめてお答えします。
タンパク質は、身体を構成する60兆個もの細胞の主材料となる
きわめて重要な栄養素です。
人体は常に新陳代謝が行われ、細胞の入れ替わりが進んでいます。
壊れて身体から離れていく細胞の重量が、体重1キロ当たり、
1グラム、すなわち体重が60キロだと、壊れる細胞重量は
60グラムになります。
その60グラムが、補充される必要があり、厚生省は「栄養所要量」
として、他の栄養素とともに発表しています。
つまり、健常者にあっては、タンパク質は、体重1キロに1グラム
摂取することが、必須の条件となります。
ところが、ある種の病人は、タンパク質の分解力、吸収力が
衰えているため、摂取制限があるわけです。
三大栄養素の中で、糖質と脂質は、炭素・酸素・水素だけの
比較的に単純な分子構造ですが、タンパク質だけは、この三つに
加えて窒素が入ります。
その分だけ、分子構造が大きく、かつ複雑になり、消化器の
負担が増えるからです。
腎臓病の後期が、タンパク質制限の病気の代表です。
ボノラートの場合、もっとも燃焼力の強い乳タンパクが使われ、
それだけ、体内脂肪の燃焼にパワーを持ちます。
必ずしもボノラート150グラム摂取の必要はありません。
因みに腎機能不全のボクは、50グラム程度のボノラートを愛用しております。
パパゲーノ
有難いお言葉をたくさんの方々から頂戴しました。
このところ、体調特に腰からくる坐骨神経痛が大暴れしており、
身体全部のオーナーの身分なのに、左大腿部からふくらはぎに
走る、神経に振舞わされる情けない状況にあります。
そんなわけで、ブログ登場の機会も減っております。
小説を書き始めたのは、神経痛が激化して、テニスが無理な
身体になって、そこで空いた時間を潰すためでした。
それがなんと、なんと、ただいま、東京を代表する超著名書店の、
八重洲ブックセンター、丸善本店を含む、全国約30店で
「小林真一フェアー」が開かれる幸運と光栄にあづかっております。
どうか、これからも宜しくお願い申し上げます。
パパゲーノ
実は本日もう一つの記念を作った。
昨年十月一日付で、ボクの作家デビューとなる
『炎の商社マン』上下二巻が出版された。
昨日ボクの第七冊目となる『逆転・関ヶ原』を
書きあげた。
ただいま、全国主要都市の、超著名書店のあちこちで、
「小林真一フェア」が開催されている。既刊の六冊が
すらりと並べられ、大変な光栄を感じている。
パパゲーノ
今日はボクにとって記念日である。
あまり名誉な記念日ではない。
丸十一年前になる、九七年十月一日に、
ボクは生まれて初めての人工透析を受けた。
荒っぽい獣医みたいな医師の乱暴な扱いと、
決して親切とは言えない、ナースたちだった。
ボクは見たこともない、太い鍼を二本左腕に刺され、
その痛さに半ば失神した。
四時間の予定が、三時間ぐらいで中断となった。
透析を行う腕の、手首の辺りに動脈と静脈とをつなぐ
手術を行い(それをシャントと呼ぶ)、あらかじめシャントを
作っておいて、静脈が太く育つのを待ってから、透析穿刺を
行うのが、普通だとは後で知った。
ボクの場合は、前日の九月三十日にシャント手術を受け、
その翌日午前中に、早くも初の穿刺が行われた。
透析は健常者の「排尿」の代わりであるから、透析の時間経過
とともに、総血液量の中の水分がどんどん減っていく。
当然血圧が下がっていき、貧血となる。
ボクが三時間足らずで、半ば失神したのは、血圧急降下、
貧血、痛みに耐えかねるの三者一体攻撃に負けたわけであった。
到底こんな治療が週に三回のペースで続行されるのに、
生命が持つわけがないと思われた。
心底から、早く楽に死にたいと願ったものだった。
あの日から丸十一年が経ち、今日無事に十二年目の初日を
おえたことが、我ながら奇跡と思える。
パパゲーノ