作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 新・腰痛治療日記(3) 】

2009-12-29 15:51:57 | 08 腰痛治療日記


個人経営ながら、良い先生が居られる整形外科を紹介
された。そこでの治療は神経ブロック注射といって、
もっとも痛む患部に麻酔薬を注入することだった。
病名は脊椎管狭窄症だといい、腰椎の四番と五番の間に
あるべき椎間板が激しく損傷し、脊椎の背中側に沿う
神経の管(これを脊柱管と呼ぶ)を圧迫し、その影響を
受けた神経が痛みを発するのだとのことだった。

特注のコルセット(皮製)も用意された。これで腰部を安定
させて、週に一回のブロック注射を打つ。手術を避けての
治療としては、それ以外に考えられないとのことであった。

先生は六名の整形外科仲間と研究グループを作っておられ、
ボクの症状はその会の研究課題となったらしい。
その結果としての治療が開始されたわけだった。

06年3月に始めて体験した神経ブロック注射の痛みと
いったらなかった。ボクは毎回のように涙をこぼし、注射後の
一時間をベッドにうっぷして過ごしていた。

人間の身体はたいていの刺激に耐え慣れてくる。
やがてその痛みにも耐性ができて、苦痛を感じなくなった。
当初はブロック注射後の二日ほどは効いていたのが、
だんだん駄目になっていった。

治療開始から丸三年が経過した09年3月に、ボクは
最後の手段として手術を受ける決意をかためた。
すでに歩行も困難になっており、嫌も応もなかった。

問題があった。ボクは腎機能障害で毎週3回(毎回4時間)
の人工透析を受ける一級障害者であった。
透析を続けながらの手術となれば病院も限られてくる。




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【 新・腰痛治療日記(2) 】

2009-12-28 11:38:26 | 08 腰痛治療日記


それが地獄の日々のスタートを告げる出来事であった。

いくつもの整形外科を訪れた。ひとりじゃ歩けないから
社員の肩を借りてよろけながら行った。世の中にいかに
同病の患者がいるのかを知った。大半が老人であった。

誰でも名前を知っているはずの大病院の扱いが最も
ヒドかった。
さんざ待たされたあげく、ようやく名前が呼ばれたが、
まだ学校を出たばかりと見える若い女医は、カルテに
最低必要事項を書き込むだけで、あとはレントゲンの
撮影を指示するだけであった。
昼食の時間を妨げられた技師はそのイラダチをボクに
ぶつけてきた。
立つこともままならぬ状態のボクに「真っ直ぐに立てよ」
と命令形で怒鳴り、角度を変えて十数枚もの写真を撮った。

その翌週に部長先生の診断があるからと言われて
帰された。若い女医は単なる受付の役を果たすだけの
役割の模様であった。
約束の日時に別の医療機関で撮ったMRIのフイルムを
持参して行ったが、そのMRIは無視され「改めてウチで
撮り直す」と厳かにのたまわれた。

驚いたことに、先週十数枚も撮ったレントゲン写真が
一枚も無かった。あれは一体何のための撮影だったのか、
単なる点数稼ぎを超有名病院がやるのか。
ボクは遠慮なく部長先生にその点を質した。
持参のMRIを見ようともしない点も併せて、この事実を
天下に公表するぞと居直った。部長先生は態度を豹変し
深々と頭を下げて謝罪した。この病院では全くラチがあかなかった。


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【 不毛地帯(1) 】

2009-12-25 11:26:33 | 02 華麗な生活


フジテレビで毎週木曜日の夜に放映されている「不毛地帯」
というドラマを楽しみにしている。このドラマはいうまでもなく
山崎豊子さん原作の、同名の著作を映像化したもので
今回のは二度目となり、主だった俳優たちが全部
入れ替わっている。

中心人物の壱岐正は実在した元大本営参謀将校で、
昭和三十年代に入ってからソ連抑留を解かれ舞鶴港に帰国、
二年間の浪人生活を経て、当時の伊藤忠商事に勧誘されて
商社マンとなる。
こともあろうに、最も近代化が遅れていた繊維部門に配属されて、
社内で飛び交う用語も理解できず大いに苦しむ姿が、
昭和三十二年に同業の商社に入社したボクの当時の戸惑いと
ダブって見える。

ドラマで壱岐のライバル役・鮫島が登場するが、彼は旧日商で
勇名を馳せていた海部氏がモデルである。他社の人ながら
商社マンの鑑のように聞かされ、いずれは彼のようにと意気込んだ
覚えがある。ボクの商社マン生活は二十年あまりでピリオドを
打ったが、壱岐・鮫島とまではいかずとも、他の業界なら許される
はずもなかった筈の破天荒の数々をやらかし、そうした日々を
描くべく『炎の商社マン』を上梓した。続けて出した七冊の著作で
2008年の世界最多ノベル作家のタイトルをギネスブックから
頂戴する幸運に浴すことになった。

ドラマで壱岐を演じる唐沢が、終始元軍人を意識しての固い
人物像に徹しすぎ、らしくないと嘆いていたのだが、17日放映の
場面から一転して唐沢ならではの本領が発揮されはじめた。
小雪という女優には、いかなる男であろうとトリコにされざるを
えなくなりそうな、魔女的な妖艶さがあって、壱岐の陥落も
やむをえないと同情する。小雪の演技特に眼の力には脱帽。

ひとつ注文がある。唐沢演じる壱岐は滅多なことで笑顔を
見せないが、日本人社会ならまだしも、ニューヨークの社長の
地位についたからには、スマイルはもとより、ユーモアを巧みに
取り入れた会話をこなさないと、欧米人は決して心を許してはくれない。
フォードのことかと思わせるフォーク自動車の会長が初対面の
壱岐(それもニコリともしない)に委任状を渡すはずもなかろう。

ライバル鮫島は前述の通り同業他社の独身寮生の間でも
評価抜群であった旧日商(岩井と合併する前の)の海部氏が
モデルだが、後に国会に証人として呼ばれ尋問を受ける立場
になって、署名をする段に及び持った万年筆をぶるぶる
震わしたのは失態であったし、後輩の憧憬を一身に受ける
立場が失墜してしまった。それが76年のことで、ボクは二度目の
ヨーロッパ勤務を命じられてウィーンに赴いた。

商社マンに限ったことじゃなく、男がひしめくところ、常にジェラシーの
渦が巻き、派閥つくりに狂奔する連中が現れる。
このドラマでも里井・一丸といった、副社長クラスがそれぞれ
画策を行なう場面が描かれ、岸部一徳の好演技が光っている。
それに対し大門社長の存在感がいささか弱い。
伊藤忠の越後正一社長はもっと目立った人であった。


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【 新・腰痛治療日記 】

2009-12-24 15:40:26 | 08 腰痛治療日記


ボクの腰痛は左足の神経痛から始まった。
キャリアは長く、60年代後半にはすでに痛んでいた。足首と
ふくらはぎの双方に出てくる痛みを、壁に向かって手をつき
足を伸ばすストレッチで伸ばしながら、テニスコーチレッスン
に参加していた。
「今日は足の痛みはどうですか?」
「今日も立派に痛いです」
「レッスン大丈夫ですか」
「やってもやらんでも痛いんだから、やらんと損です」
連日そんな会話をコーチと交わしながら、ボクはテニスコートを
前後左右に振り廻されていた。神経痛が治まらぬ左足を
ひきずりながら。それが五年前までのボクの日常であった。

左足の神経痛の原因が、腰椎の第四番と第五番の間にある
椎間板の損傷とスベリにあると複数の整形外科医の診断で
分かっていた。いわゆるヘルニアである。
その悪化が進行していた。

06年の2月のある夜だった。圧倒的に女子が多い社員たちに
声をかけ、最寄のちょっとはイケるイタリアーノで一騒ぎして
帰途につこうとした。
皆とは六甲ライナーの駅に向かう地点で別れ、ひとりマイカー
を止めてある場所へと足を向けた。
2月のそれも特別に冷え込んだ夜だった。ボクの左足がついに
反乱を起した。簡単に説明がつかない異常な激痛に襲われて、
人通りの無い場所でボクはのたうちまわっていた。


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