作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 身体中の細胞が(多機能障害からの生還1) 】

2011-10-06 14:42:00 | 07 多機能障害からの生還

関西ローカルの番組ながら、関西テレビの「アンカー」に
水曜日のレギュラー
を勤めて居られる青山繁春氏の政治・
国際問題の評論を欠かすことなく拝見している。

氏は今年の初めに大腸癌を切除。その直後にも大阪まで
出てきて熱弁を揮われた。
気力の人であると尊敬している。

氏のブログを拝見すると、手術に際しての全身麻酔で、
未だに身体中の細胞という細胞が疲れきっていると書いて
居られる。

ボクには氏の描写が良く分かる。ボクも一昨年五月に
積年の腰痛の原因であった
脊柱管狭窄症を、インターネット
で知った名医によって除去していただいた経験がある。

麻酔の先生がMRIやCTの映像をご覧になって、その病状
の複雑さに驚かれ6時間分の
麻酔薬を注入された。
名医
の腕は確かで僅か一時間で手術は終ったのだが、
麻酔が
効きに効き、延々18時間もボクは昏睡状態に陥った。

青山氏の描写をお借りすれば、ボクの身体中の全細胞は
すべて仮死状況になった。
ありとあらゆる障害が次々と発生した。
言語障害・食欲障害・起立障害・思考障害など、
全ての
脳障害が起きたのだった。
二年半が経過した今も、まだ歩行や起立に障害が
残って
いる。
古事記や日本書記を読み直すことで、天つ神や国つ神の
御名
を再暗記することで、幸い記憶障害は早く直ったが、
週三度の透析に通うタクシーに乗車しよう
として何度転倒
したことだろう。
腰の手術後もっとも気を配らないといけないのが転倒
なの
である。それなのにボクは転倒に次ぐ転倒を繰り返し、
遂には硬膜下血腫まで
出来てしまい、その手術も行う破目
となった。

食欲障害には驚いた。何を見ても食べたくないのだ。
何よりボケが怖い。脳と神経の細胞を守ろうとの意識で
毎朝コーヒーにスプーン一杯の砂糖を忘れなかった。
砂糖は直ちに
吸収されてブドウ糖になり、脳と神経の栄養
になる。

この療法は二年半経った今でも
毎日朝と夕方の二度の
コーヒー・タイムで続けている。なに肥満なんかしない。
する道理もない。
砂糖が変じたブドウ糖が直ちに燃料となって、脳と神経を
守りつつ燃えてなくなるからだ。

他には努めてビタミンEとビタミンB群を摂った。体内の
脂肪燃焼は一種の酸化である。
身体のすみずみまで
酸素を送り込む機能はビタミンEにしかない。
またビタミンB群が欠乏すると、ブドウ糖や脂肪・アミノ酸
などの燃焼時に必要な酵素の活動に支障をきたす。
だから特にEとB群を多く含むドイツ製のボノラートを
シェイカーで
溶かして飲むようにして、食欲障害を乗り
切った。冷たいものを飲むことには、シューアイスの愛用で
抵抗が
無かったのが有難かった。

憚りながら肥満に絡む栄養学についてはボクは日本一の
大権威と自認している。
サラリーマンを44歳で辞めた後のボクは、栄養学を自習
して
肥満の科学とも言うべき講演を全国で行い、その仕事
で今の会社を45歳で起した。

手術後障害が次々と発生したボクの症状を知った、ドイツ人
の親友が心配して大量に
届けてくれたのが、グラノザイム
という酵素食品だった。

あらゆる消化分解酵素に富む、小麦胚芽を発酵させて、
それに特にタンパク分解に
定評があるパパイアや
パイナップルなどのトロピカルフルーツの酵素を加えてある。

その酵素の力がボクを再びテニスコートに立たせてもくれた。
体重はもう少しは欲しい。
未だに48キロと49キロの間を
うろうろしているのだから、男として情けない。
せめて53キロ
ぐらいには成りたいが、脂肪は要らない。
筋肉で体重を増やしたいのだが、なかなか一度落ちた筋肉
はつかない。



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【 ダイエットに「甘いもの」は禁物か?(多機能障害からの生還2) 】

2011-10-06 10:55:00 | 07 多機能障害からの生還


あれはまだ23歳の頃のこと。
会社で面白くないことがあり、独身寮に帰ったら同期の
二人
が山登りの話に夢中になっていた。
そこへ割り込んで「ボクも連れて行け」と頼んだ。

西宮寮から毎朝見る六甲山系の最東端にあるのが甲山。
その甲山は標高僅かの309メーター
なのだが、その甲山
にもボクは登った経験がなかった。

二人の話では行く先が槍ヶ岳だという。
標高3180メーターの北アルプスの名峰である。
知らぬ者は強い。「え~い、槍がナンボのもんじゃ」。

行くと決めた。
登山道具は全部寮の先輩連から借りた。
リュックもピッケルも靴も靴下までも。
「おい、靴下までオレのを使うのか」と、呆れた先輩が言っ
たが、厚手の靴下なんて
ボクの持ち物の中にはないから
平然と借りた。

当時の会社は土曜日が半ドンだった。午前中が勤務という
わけだ。
当時大阪の難波の近くにあった「湊町」という駅から
出る名古屋行きの関西線というの
があった。
半ドンだから正午を知らせるサイレンと共に飛び出して湊町
駅までタクシー
を飛ばす。
名古屋で中央線に乗り換えて木曽福島まで行くと、深夜に
発車する上高地行きのバスが
あるのだ。
木曽福島には深夜バスで山に向う人たちのための宿屋が
多くあったが、
新入社員に毛が生えたボク等の月給が
13530円の頃だから、宿屋を利用する余裕
なんかあるわけ
もない。バス会社の待合室で仮寝するが、横たわるわけには
いかない。
椅子に座って船を漕ぐだけのこと。

上高地なんて洒落たところに行くのも初めてだ。深夜の三時
にバスが発車した。
そのバスが、上高地までまだ二時間は
歩かねばならぬ場所で止まってしまった。
「あかん、崖くずれや」と運転手が言った。
で、そこから登山が始まった。想定外はいつでも起きる。

上高地を通り過ぎたけど、歩みを止める余裕もない。
梓川の上流を渡り、穂高の山麓のゴロタ道を
延々と歩き続け
る。はて昼飯の弁当をどこで何を食べただろうか。
覚えていない。

当時のボクは今よりもまだ体重がなく、45キロぐらいしか
なかった。小学六年で満州から引揚げて以来、常に飢えて
いたからだ。入社が叶って独身寮の飯にありついた時に
ボクは「就職」よりも「就食」の想いが強かった。

そんな細い身体でテニスにはのめり込んでいた。
ボクの人生で初めて出会ったスポーツだ。だから脚の筋肉
は人並み以上にあったはず。

この日の宿舎は、槍の根元ともいえそうな場所に建つ
「殺生小屋」だ。
山の夕闇は早い。午後三時になると辺りは
霧が立ち込める。霧で視界が狭くなる。

そんな時に、ボクの血糖もグリコーゲンも、全てのエネルギー
源が尽きてしまった。
救ってくれたのが、名古屋大学の山岳
部。そこの副部長がボクを目聡く見つけ声をかけて
くれた。
「ガス欠でやられましたね。リュックの中に何か甘いものが
あるでしょう。チョコレートがあれば一番良いのですが」。

「お~い、みんな先に行ってくれ」。親切な副部長はボクに
付き合ってくれる気になったようで
あった。
チョコレートの効果は抜群だった。二十分もするかしないか、
ボクの筋肉に燃料源
が溜まったらしい。
もう一歩どころか半歩も歩けなくなっていたボクの両足が、
歩行力を
持ち直した。
おかげでボクは「殺生小屋」の主が振る懐中電灯の明かりに
導かれて霧の
立ち込める中を小屋に辿りついたのだった。

ダイエットに甘いものは禁物とはウソだ。
糖分こそが直ちに吸収されて人間を動かすエネルギー源と
なる。
いくら肥満していても、体内脂肪が肝臓で分解されて
グルコースに変化するのには時間が
かかる。
そんな過程を待っていたんじゃ、身体は持たない。
霧が立ち込めた山では、
僅かの三歩でも道を踏み外したら、
崖の下に転落するだろう。

ボクが23歳の若者時代に、無茶な素人登山で身をもって
得た「身体の科学」だった。



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【 断食は絶対にダメ(多機能障害からの生還3) 】

2011-10-05 08:54:00 | 07 多機能障害からの生還

ボクが「身体の科学」をベースに会社を起したのが1980年。
昭和55年のことだった。

当時から世に「痩せたい」願望の持ち主は多く、とにかく
カロリー摂取を目の仇にする傾向が
あった。

具体的にはコンニャク芋の粉を「マンナン」と英語読みして
販売する業者が
何十社も林立していたし、アメリカからの
輸入品で「スプーン一杯飲むだけで痩せられる」と
称した商品
にも人気が集まっていた。これも当然のようにノンカロリーを
謳っていた。

ボクはノンカロリー商品が、どんなに人体に危険なものか、
いずれ栄養失調による犠牲者が出るに違いないと
確信し、
準備が整った「ボノラート」発売の期を待っていた。
予期していた通りに、各地でマンナンだけに頼った結果、
栄養失調で死亡する女子大生の報道がなされるように
なった。

ダイエットといっても、人体は毎日摂らないと身体が駄目に
なる栄養素が何種類も
あるのだという話が、やっと聞いて
もらえる時期がやってきたのだ。

「スプーン一杯で」のアメリカからの輸入品も、当のアメリカ
で事故が起き、日本でも
発売が禁止された。

待ちに待った「ボノラート」発売の出番だった。

丁度その時、化粧品最大手のX社も「ダイエット食品」の販売
計画を立てつつあり、ボクの
「ボノラート」発売と同じ週の、
三日前に記者会見をやって発売発表を大々的にやって
くれた。
ボクの「ボノラート」は出ばなをくじかれた形になった。

だが勝負はやってみないと分からない。天下のX化粧品の
「痩せる」はずの商品が、
実は「痩せる」効果どころか、その
気配もないと返品が相次いでいるとの情報が入り、
間もなく
してX社の製品は、部分手直しを余儀なくされた末に、
なんと「ボノラート」と同じ
スープタイプの商品に姿を変えて
市場に再出動してきた。

時期を少しずらして、大手の製菓会社からも、「ボノラート」に
酷似した商品が発売された。

X化粧品は宣伝費をたっぷり持っていることで著名な会社
だし、製菓の大手だって
誰でも知っている有名な会社だ。

発売して一年が経った頃、意外な展開が始まった。
ライバル二社の売れ行きが芳しくない
のに、マスコミを通じて
多くの著名人による「ボノラート体験談」が語られるようになり
テレビでの著名歌手の談話から、某百貨店の地下売り場に
は長い行列が出来た。

名前が出た歌手や女優を追って、週刊誌各社が記事を書く。
百貨店の業界紙も単位面積
当たりの新記録と大きく報じた
から、ボクが起した会社には多くの百貨店の食品部長が
訪れて
来るようになり、電話による注文も殺到する有様に
なった。日本中の有名百貨店の地下には「ボノラート」の
山積みが出来るようになっていた。

出版社系の週刊誌の記者が突然やって来てインタビューも
受けた。「ボノラート旋風」という
語句が紙面を舞った。
ボクの顔写真まで週刊誌に出た。

後日多くの化粧品メーカーから、「宣伝費にいくら掛けた」
かと聞かれたが、ボクは一円も宣伝広告費を使ったことが
ない。
「ボノラート」の素晴らしさを
語ってくれたタレントたちは、
皆さんが自身の感想をありのままに述べてくれただけのこと
で、
宣伝費に釣られて発言をする人たちではなかった。

あれからもう三十年が経つ。
当時の発言者の殆どが、今も現役でテレビ画面を通じて
お目にかかる機会も多い。
ああ、この女子アナも当時の体験者だったなと感慨に
ふけっている。

ウソだろうと言われるが、ボクの机の引出しには、何人かの
有名人からの逆ファンレターまで存在する。「ボノラート」は
そこまで彼女たちを喜ばせてくれたのだ。



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【 断食して酵素を飲む? 不思議な国ニッポン(多機能障害からの生還4) 】

2011-10-04 18:21:00 | 07 多機能障害からの生還

グーグルで検索していたら、有るわ有るわ酵素食品なる物
の多いこと。

プチ断食とはどんな断食か知らぬが、とにかく栄養摂取を
少なくするのだろう。
そして酵素を摂ったら体内で何かが
始まるのだろうか。不思議でならない。

ボクは95年に起きた阪神大震災の影響をモロに受けて
身体を壊した。
それから十六年の歳月が流れた。
順調に成長していたボクの会社は社長であるボクの身体の
破壊に時を合せて壊れていった。
何人もの社員が会社を去った。

「ボノラート旋風」とまで、はやされた主力商品の売上げも
どんどん減っていった。

ボクの身体中の細胞が仮死状態になって、食べる気力まで
失ったボクが、ドイツ人の
親友の厚意で贈られた酵素食品
「グラノザイム」のチカラで快方に向かいはじめ、
漸く自力で
歩くことも可能になってきて、酵素の持つチカラの不思議さを
追求しようと
グーグル検索を行なった時に、目に飛び込んで
きたのが、まさに不思議の国ニッポン
ならではのプチ断食を
伴う酵素食品の羅列であった。

「おい、おい。またも日本人は栄養遮断の道へと歩み始めた
のか」。
だいたい酵素って何者か分かっているのだろうか。

人間はモノを食べる。食べないと餓死する。餓死とまでは
いかずとも栄養失調になる。
まず脳が働きを止める。神経も同様だ。

食べたモノは、分子量が大きすぎて吸収が出来ない。
そこでより小さな分子へと分解が
始まる。
それが消化であり、消化酵素の出番なのだ。

人間の食べ物は、三大栄養素と呼ばれるカロリー源が
先ず大切なもの。
それにカロリーにはならぬが、必要な物としてビタミン、
ミネラル、食物繊維ときて、
最後に酵素が加わった。
全部で七栄養素である。

七大ではなく七で良い。なぜなら人間のエネルギー源となる
のは、あくまで三大栄養素に
限られているからだ。

先に述べた消化酵素は三大栄養素に向ってだけ活躍する。
ビタミン以下の四つの栄養素
は消化を行なう必要がない
栄養素だから、酵素の働く余地がない。

ここらを詳しく述べていこう。




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【 酵素は何種類必要か?(多機能障害からの生還5) 】

2011-10-04 16:15:00 | 07 多機能障害からの生還

この簡単な質問に答えれる学者は殆どいないと思われます。
人体を化学コンビナートに例えれば、日本の各地にある
広大な化学コンビナートの
いずれと比べても、更に広大な
ものになると、学者なら皆が知っているからです。

化学工場で行なわれる化学反応とは、例えばA液とB液と
を反応させてC液を作る。
その時の温度や気圧、酸・アルカリの濃度などの諸条件が
調整され、それに加えて
A液でもB液でもない第三者の存在
が必要になります。
それを「触媒」と呼んでいます。

人体の中で行なわれる栄養素の分解や組み立てなどは、
まさに化学コンビナートの
仕事に似ています。
ただ違うのは「触媒」を使わず、その役目をする「酵素」を
多種多様に
使うことだけだと言ってよいでしょう。

つまり「酵素」とは体内だけで使用される「触媒」
と考えれば、
「なんだ、そうか」と皆さんの気が楽になると思います。
ところがここからが意外に
難しいから、説明する方も少々
手こずるわけです。

普通の体重の人が食べる糖質や脂質の分解や吸収から
燃焼に至る代謝活動は
比較的に単純だといえます。
糖質と脂質はともに酸素・炭素・水素の組み合わせに過ぎ
ない
からで、三つの元素での分離も組み立ても、それ程複雑
にはなりません。

ところがタンパク質となれば、話は断然違ってきます。
タンパク質の構造はより複雑に
なっているからです。
先ず酸素・炭素・水素の他に窒素が加わっています。
三つの元素よりも四つに増えた元素の構造の方がより複雑
だとは、誰でも理解できると
思われるでしょう。

しかもタンパク質の仲間には窒素に加えて硫黄やリンを含む
ものも
多いから、構造がもっと複雑になっています。

古代人にとってタンパク質は簡単に摂れる栄養ではありま
せんでした。
今でも貧しい国ほど糖質主力の食事が行なわれ、次いで
植物性の油や魚油。またはラードなどの比較的に入手が
楽な脂質が食事に
加わってきています。

どうでしょう、まだお話が難解だとお感じですか。
では少し話の向きを変えてみましょうか。

ご承知の通り、ボクは腎臓の機能を神戸を襲った大震災
で完全に失い、身体障害者一級
の手帳を持ち、週に三度
の透析に通う身体になりました。
週に三度といっても、毎回
四時間はベッド上に居るのです
から、決して楽な治療ではありません。

しかも人工透析は、あくまでも壊れた腎臓の代わりの役目
を一部に担ってくれるだけで、
いくら長い間人工透析に
通ったところで、腎臓の機能が快復することはありません。

よく「早く良くなってください」と励ましていただきますが、生き
ている限りは透析を続けなきゃ
ならないのが、腎臓を壊して
しまった人々の宿命なのです。

腎臓病患者にとって、身体の自己管理はきわめて重要な
ことですが、もしタンパク質を
食べることなく身体の維持が
出来るなら、自己管理はずいぶんと楽になることでしょう。

その代わり、タンパク質のない食事に、いわゆるご馳走は
無くなってしまいます。透析患者だって、たまにはご馳走も
食べたい。だから自己管理に苦労しているのです。




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【 タンパク質こそが人体を作る最重要栄養素(多機能障害からの生還6) 】

2011-10-04 12:14:00 | 07 多機能障害からの生還

前の稿で、透析患者もたまにはご馳走も食べたいと書いた。
だから自己管理に苦労するのだとも。

だが、タンパク質は基本的に人間以外の他の生き物が
自己の生命維持のために
身体を作っている物を、美味しい
からと人間が奪っているのも事実だ。
人間はなぜ他の生き物の生命を奪ってまで、その身体を
煮たり焼いたりして食べるのだろう。
最も手に入りやすいタンパク質が、鳥であったり、
魚であったり、牛や豚といった家畜で
あるから、手の届き
やすいそれらの生き物の生命を奪うのである。

これは何も人間だけが行なう残虐行為ではない。
鳥の仲間も弱い小鳥が狙われるし、魚の仲間でも弱肉強食
が普通に行なわれている。
獣の世界でも同じことだ。

先にタンパク質・糖質・脂の三者だけが、カロリー源となり、
だから三大栄養素と呼ばれると書いた。
だが改めて考えると「三大」という言葉は正しくないような
気がする。
なぜなら、タンパク質だけは、カロリーこそ出すが、
主たる目的はエネルギー源としてでは
なく、身体を構成する、
細胞を作るというより重要な役割を担っているからだ。

ボクはタンパク質を「最重要栄養素」と呼び、
糖質と脂質を「二大栄養素」と呼ぶのが
より正しいと思うよう
になった。

誰が数えたのか知らぬが、人体はおよそ50兆から60兆
もの細胞が集まって出来て
いるらしい。そんな膨大な数の
細胞のすべてが、タンパク質によって出来ている。

先述したようにボクは腰を痛めて長い間苦しみ、整形外科
に通って「神経ブロック」という痛いことで有名な注射を、
三年ほど週に一回打ち続けた末に、
どうにも堪らなくなり、
最終的にインターネットで「黄金の腕をもつ外科医」の存在
知って、その先生の手術を受けて治していただいた。

その手術が成功し、今は殆ど痛みも違和感も感じなくなって
いる。六本も入ったチタンの人工骨もうまく収まっている。

だけど三年にわたった「神経ブロック」の中味は麻酔薬で
あったし、手術に際して麻酔科
の先生が施してくれた麻酔薬
の量も大量に過ぎた。
名医の手術に要した時間はたったの
一時間。だがボクが昏睡から目覚めたのは、なんと
二十時間
後のことだった。たまたま夜勤のナースがボクの様子を見に
来て、覗き込んで
いた目と、目覚めたボクの目とが会った
から、両者とも仰天した。

なにしろボクは、昏睡の中で夢を見ていたのだ。
不思議なことにボクは大嫌いなはずの
豊臣秀吉になり、
近江の国に出陣していた。多くの家臣や腰元などを引き
連れていたのに、
ふと気付くと誰も居ない。
目の前に霧が立ち込め、ボクは家臣たちとはぐれたらしい。

一陣の風が吹いて目の前の霧が飛ばされ、そこに川が
流れているのを見た。姉川にしたら川幅が狭い。
夢の中でボクは「はは~ん、これが例の三途の川か」と
つぶやいていた。
さて川を渡ろうかとした、まさにその時、
対岸に一人の武将が現れて口上を述べた。

「あいや、お待ちくだされ。この辺り一帯はすでに我が前田
の手のものによって平定して
ございます。御自らこちらに
お渡りになるには及びません」。
それで渡りかけた川を渡るのをやめた時に、夜勤のナース
と目が会ったのだった。前田家の武将が丁寧な言葉で語る
相手といえば、信長・秀吉・家康ぐらいのものだろう。




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【 全身の細胞が仮死状態に(多機能障害からの生還7) 】

2011-10-04 10:03:00 | 07 多機能障害からの生還

またも話が冗長に流れすぎたかも知れぬ。だがそうでもない。

三年以上の「神経ブロック」と手術時の多量に過ぎた麻酔薬
注入で、ボクの全身の細胞は
仮死状態になっていた。

術後入院となった病院の婦長さんから「転倒が一番危ないか
ら、絶対に転倒しないように気をつけて」と言い渡されて
いた
のに、ボクは目覚めたその日のうちに二回も転倒した。
その翌日は三回だ。
誰も転ぼうとして転んだわけじゃない。
筋肉量は相当に減ってはいたが、全く歩けなくなって
いた
わけじゃない。なのに立てないのだ。両手だって自由に
ならない。

身体中の細胞たちが、みんな仮死状態で眠ってしまったの
だから、いや仮死じゃなく多くは
本当に死滅したのだと思う。

そこからの立ち直りに、ボクは丸二年を費やし、今年五月に
なって、やっとある程度身体が
自由に動くようになった。
頭脳の方も「認知症」の入り口から二番目の部屋ぐらいで
止まってくれて助かった。

同時多発の傷害の中に、食欲障害も歩行障害もあったから、
ボクの細胞たちは、いつまでも
支援部隊が来ずに苦しんだ。

助かったのは、ドイツ人の親友が贈ってくれた「酵素食品」の
おかげだと思う。
最初に障害が軽くなったのは食欲障害だっ
たから。
食欲障害の最中にも、冷たくて甘いものは受け入れられた。
それが「シューアイス」だった。
トロピカルフルーツ味の「酵素食品グラノザイム」も美味しい
と思った。
味覚障害が治りはじめ、炊き立ての白いご飯が、
あつい味噌汁が、少ずつ食べられる
ようになっていった。
甘いか辛いか、ハッキリしたものが美味しいと思われた。

塩こぶ、バームクーヘン、ようかん等だ。
そして劇的な食欲快復の時が来る。
「認知症」を疑われたボクは神戸中央市民病院
で精神科の
医師によるテストを受け、簡単な計算が出来なかったのに、
二ヶ月後の
二回目の診察では、同じ医師からのテストに
すらすら答えて、医師をビックリさせたのだ。

その秘密は一度目の精神科の後に行った神戸空港にある。
最上階の鮨屋に入ったのは良いが、ボクは何にも食べたく
ない。
ボクの奥さんが注文したにぎり鮨を一個だけ貰って
口に運んだ。美味い!
ボクは再びメニューを取り寄せ、いろいろと注文し、その多く
を平らげた。
タンパク質をたくさん摂ったことになる。

さんざん悩まされた言語障害が快方に向かい、ボクは漸く
主治医との意志の疎通に
成功した。
230もあった血圧が150ぐらいに下がってきた。
思考障害もヒドイもので、朝目覚めてもベッドから起き上がる
ことが出来ずに苦しんだ。

「タイヘンだ、身体の中を流れる電流の電源がなくなった」
「えらいことになった。二次元の世界にとじこめられた」
当人以外には何のことか分からないだろう。
身体がベッド上でタテ・ヨコには動くのに、上半身を起すか
足を下ろすかの動作が自由に
出来なくなっていたのだ。

転倒は頻繁に起きた。透析に通うタクシーの乗り降りに
特に頻繁に転んだ。当然頭も打った。一度は硬膜血腫が
出来て手術で血液を抜いた。

そんな状態から脱したボクが、新聞社の懸賞募集に応じて
小説を一編まとめたり、テニスレッスンを再開したり出きる
ようになったのは奇跡としか言いようがない。

体内で酵素が働き、特に複雑なタンパク質をアミノ酸に
分解して、分子の組み換えが順調に運んだからだろう。

手術の前は55キロ前後の体重で、それなりに脂肪量も
あったのに、代謝が進んで今は48キロしかない。




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目次 ~【連載】多機能障害からの生還 (2011年)~

2011-10-04 10:00:00 | 07 多機能障害からの生還


目次 ~【連載】多機能障害からの生還 (2011年)~

   【 (1)身体中の細胞が】

   【 (2)ダイエットに「甘いもの」は禁物か?】

   【 (3)断食は絶対にダメ】

   【 (4)断食して酵素を飲む? 不思議な国ニッポン】

   【 (5) 酵素は何種類必要か? 】

   【 (6)タンパク質こそが人体を作る最重要栄養素 】

   【 (7)全身の細胞が仮死状態に 】



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