著者も著作もあまりに有名だから、つい身近な人と思いがちだが
実は前漢時代の人だから、西暦のBC年間の人である。
この人が後世に残した名言が多くあり、それがまた司馬遷を身近か
な人と思わせているのかも知れない。
こんな名言を残している。
断じて行えば 鬼神もこれを避く
千軍は得易きも 一将は求め難し
士は己を知る者のために死す
先ず塊より始めよ
寧ろ鶏口となるとも 牛後となるなかれ
桃李言わざれど 下自ら蹊を成す
少なくも昭和ヒトケタ生まれのボクの世代なら親しんだ言葉である。
元々が高氏である。後醍醐という、どう見ても身勝手な天皇が
楠木正成を中心とする、北条幕府に歯向かった悪党扱いの武士の
武装蜂起で、成功した「建武の中興」による天皇親政が、類なき悪政
と判明して赤松氏を筆頭に後醍醐を見捨てる武士続出。
北条高時の信頼も厚く、京都の北条家探題の応援軍を率いた筈の
足利高氏が、天下の形勢を見て裏切り、馬鹿な後醍醐が高氏の功を
評価し過ぎて、自分の名である尊治から一字を高氏に授け、以後を
足利尊氏と呼ぶのが正しい。
尊氏自身は後醍醐の霊を祀るなど、尊王の志厚い男と歴史は書くが、
そんな歴史書ぐらい、天下を取ればどうとも好きに書ける。
徳川時代の三大改革はすべて単なるデフレ政策だ。何が改革だ。
芦屋の山打出に建つ、昭和8年建立の石碑には、明確に「逆賊高氏」と
ある。戦前の国史の教科書は「逆賊高氏」の意思で書かれていた。
この男も家康と変わることなき、徳の無い男だった。だから子孫に恵まれず
名ばかりの将軍が、流浪の末に死んでいる。
徳を失ったと天が判断したら易姓革命で政権が代わるとの教えは
最初から徳など持たぬ、徳川幕府には禁じるしかなかった。
ここで江戸川柳をひとつ。
家康の家にあるのは文字ひとつ
そもそも松平が、変じて徳川とは、姓からして詐欺である。
徳がなかったことは、家康の父も祖父も家来に殺された事実で明らかだ。
その上に家康は、長男をも見殺しにしている。
徳があった筈が有るか。
もう三十年にも成ろうか。
東京は道玄坂を上りきった辺りの旅館で御馳走になっていた。
順調に来ていたボクの会社に陰りが生じていた。
気の置けない人だから、正直にそのことを語っていた。
暫くすると、旅館の女主人が顔を出し、困った時はサムカワさんに
行けと言う。サムカワって何だったかな。
とにかくご利益は請け合いだと言われて、帰途に平塚辺りで降りて
タクシーに乗り、寒川神社に行った。
行って驚いた。参詣する人々の多さに驚いたのだ。
長い列に続いて、お祈りを受けた。そして十二支の紙束を受け取った。
なんでも、これを部屋の各方角に張れば良いことが続くそうだ。
お祈りを受けて、ふと見ると「北条三代」だったか、「北条四代」だったか、
崇拝されていたのだと言う、文章が書いてあった。
「北条氏は秀吉に滅ぼされた筈だが、霊験の方はどうしたんだろう」と
呟いてその場を去った。
次の年にも、またサムカワさんに行った。
その翌年は、通信販売で札を送ると言って来た。
そしてその翌年1月17日に、淡路島を震源とする大地震が神戸を襲い、
十二支のお札が無効だと気が付いた。
なお例の「北条三代」の木札は、二回目に行った時には無かった。
どうやらボクの呟きが聞こえたらしい。
松平春獄(越前)
伊達宗城(宇和島)
島津斉昭(鹿児島)
山内容堂(土佐)
以上の四大名を指して言うが、上の三名には異存は無いが、
最後の土佐の山内容堂だけは、賢侯に列する資格も能力も
持ち合わせていないと断言する。
初代の山内一豊が、どだい土佐一国を領する器量が欠けていた。
織豊時代の山内容堂には、何の功績もない。
よくも秀吉が一国の大名に取り立てたと不思議に思う。
土佐入国以後の山内容堂は、前任者長曽我部の家臣たちを
敵視する器量の無い馬鹿モンで、長曽我部侍を集めての相撲大会
に出場した者を、鉄砲隊で撃ち殺したり悪逆の限りを尽くした。
容堂も暗愚な大名で、山内侍を上士に、長曽我部侍を郷士にと
身分差を付けた阿呆だ。
幕末に最も多くの犠牲者を出したのも、土佐藩を脱して浪人に成った
者たちである。坂本竜馬は司馬さんが書いた程の人物であったか
否かは疑問が残るが、武智半平太は容堂によって死を与えられた。
こんな馬鹿で阿呆なヤツが、賢侯である筈が無いじゃないか。
明治政府に登用された後藤象二郎あたりの捏造だと思う。
ボクはあと一カ月強で八十歳になるが、特に還暦以降の
年月の速さに驚いている。
話を幕末に一気に戻すが、彦根藩主井伊直弼が大老として、
吉田松陰、梅田雲浜、渡辺崋山などを処刑した安政大獄から
僅か七年後には、将軍徳川慶喜が大政を奉還している。
七年の年月はかくも短い。
シナで権威を振るっているかに見える、「共」の国防相は米国の
ヘーゲル国防長官に対して、尖閣問題に触れ「いざとなれば武力に」
と豪語した。
おそらく七年後には「共」の国運は尽き、シナは五胡十ヶ国の時代に
戻っている可能性が高い。
田舎の寒村出身の、自民解放軍の元兵士が、およそ一億人。
全国各地に散らばっていて、彼らが武器を持って地方の暴動に参加
すれば「共」なんか、一気に潰え去る。
その日が来るのを見届けてやろうと思っている。
ソ連も呆気なく崩壊し、ベルリンの壁も両側から壊された。
歴史は繰り返される事を見て来た。次は「共」の崩壊だ。
消費増税の初日に当たる今日のホテル客の動向を知りたいと
今日も昼食を摂りに、芝英人さんの握る鮨を食べに行った。
そこで出たのが、幕末の歌人として、また烈女としても名高い
大田垣蓮月尼についての話題だった。
芝英人さんは、鮨こそ握っているが、その本質は学究の徒であり、
その深みは底が知れない。
さて大田垣蓮月尼だが、西郷隆盛とも親交があり、征討軍が京を
立つとき、次の和歌をしたためて、出陣する西郷に渡したとの逸話が
残っている。
伊賀の藤堂家の庶子として生まれ、二度結婚したが二度とも夫に
先立たれて、また子供も夭折して孤独な生涯を遂げたとされる。
相当な美人であったようで、言い寄る男も多かったらしいが、自ら
歯を釘抜きで抜いて、美貌を傷つけたとの逸話もある。
西郷隆盛出陣に当たり託した短冊に書かれてあった和歌一首。
あだみかた 勝つもまけるも 哀れなり 同じ御国の人と思えば
歴史は史実だけを学んでも面白くはない。
よく歴史に「たら・れば」は無いと耳にしますが、冗談じゃない。
「イフ」が入ってこそ、歴史は後世の人々に役に立つのだと信じています。
真田幸村は、安居神社の境内まで逃げる家康を追い詰めて、そこで
船場で待機していた明石全登の新手300名と合流、家康の首を取る。
幸村と大坂城内の人気を二分していた、後藤又兵衛にも軍功を与えたい。
又兵衛は、親とも慕ってくる木村重成と共に、和江方面に出撃し徳川の
先陣藤堂高虎を撃破、二番手の井伊直孝の陣に襲いかかる。
木村長門守重成は井伊の家中に戦死するが、又兵衛は密かに徳川勢の
死者の中から、雑兵の衣装をはぎ取って身を隠し、単騎秀忠の姿を追う。
城方の意外な健闘で乱れた戦陣の中、秀忠を鉄砲で討ちとって、大和国
大宇陀に逃れ、この地で桜を愛でながら後半生を送った。
今に残る「又兵衛桜」は、若木の時に又兵衛が愛でた桜だと地元では特に
又兵衛の名を付けて、今も訪れる人が多い。
なお又兵衛桜がある大宇陀は、万葉集の歌人、柿本人麻呂の「ひむがしの
野にかぎろいの立つ見えて、返り見すれば月かたぶきぬ」の地にあり、別名
を「かぎろい桜」としても知られている。ただし桜の寿命はそんなに長くはない。
高校生の頃から「家康と共産党と豚肉が嫌いだ」で通してきた
ボクですが、実は家康に家を滅ぼされた秀吉もまた嫌い。
特に大の恩人である、黒田官兵衛に対する無礼な振る舞いが
許せない。
上に書いた家康は、時として巨人に置き換わる。
「巨人・豚肉・共産党」と成るわけです。
これは今もそうで、もっと若い頃に、東京に行って酒場に入るには
乱闘になる覚悟がいった。
さて家康に戻りましょう。
家康の人間としての汚さを如実にあらわした、大阪城夏の陣。
騙されて内堀まで埋められて、裸城にされた大阪城を上杉や佐竹まで
動員して攻めた家康が、真田幸村の攻撃に逃げに逃げて、もう駄目だと
追い詰められた、四天王寺界隈にある一心寺と安居神社が並ぶ地域で
腹を切る覚悟をする。
実は真田幸村も疲れに疲れていて、すんでのところで家康に逃げられた。
ボクはここで「イフ」を入れて歴史を変えます。
大坂城内に居た宇喜多秀家の家臣、明石全登の隊が予備軍として船場
に移動、そこで待機していた。その隊に幸村子飼いの霧隠才蔵が、猿飛
佐助との連絡要員として参加していた。
安居神社まで家康を追い詰めた段階で、予定通りに佐助が才蔵に忍者
特有の忍びの術を使って、明石隊に安居神社まで急行せよと連絡。
働き場所が無いと嘆いていた明石全登隊が、今こそと勇みたち安居神社に
急行し、家康の首を刎ねるというお話。
明石全登は、関ヶ原に於いて西軍の最前線で宇喜多の前線司令官として、
東軍に参加した福島正則の部隊の前線司令官、可児才蔵を押しに押して
いた勇武の人です。
松尾山から裏切って東軍側に寝返った小早川秀秋が、大谷吉継に襲い
かかり、大谷隊がつぶれたことで、優勢だった宇喜多の形勢も一変する。
誰よりも悔しかったのが、今少しの所で、可児才蔵を討ち漏らした明石全登。
当然大坂城に参陣していました。
ボクは徳川家康も、その子孫の連中も全部嫌いだと自任している。
家康に次いで嫌な男が足利尊氏。
なんたって皇国史観の世に育った病弱児の歴児です。
ついでに言えば、後醍醐天皇が大嫌い。こんな男に殉じた楠木一族、
新田一族、菊池一族、名和一族が気の毒でならぬ。
天皇にまだ嫌な連中が居る。白河法王も後白河法王も勝手な奴との
思いが消えない。木曽義仲も九郎義経も犠牲者だ。
家康の徳川家に戻って、関ヶ原で大勢の側近が居る中で、どうして死んだ
のか「影武者 徳川家康」という本に詳しい描写がある。
大勢の子どもたちの、後から生まれた三人が御三家となり徳川を名乗った
のが証拠にもなる。先に生まれた子供たちは松平の姓しか貰えなかった。
御三家の中でも、順序があって、本家が絶えた時は先ず尾張大納言が。
まさか尾張の後に来る紀伊大納言家の三男坊が八代将軍に成るとは
想像もしなかったであろう。
吉宗が中興の祖で、名将軍とは徳川召抱えの御用学者の作り話でしょう。
事実は吉宗が企てた、尾張の全員と紀伊の兄貴たち、みんな奇妙な若死に
している。毒殺意外に考えられない。
吉宗は八代を継いだだけではなく、十四代家茂までの将軍の地位を横取り
してしまった。農地開発には失敗。金貨の価値は大きく下落。改革とは名
ばかりの実はデフレ政策で、米に頼る武士階級を苦しめた阿呆です。
締めくくりに、将軍には絶対に成るなと言われた水戸中納言家から慶喜が
十五代に就き、最後は政権を放り出した。メデタシメデタシですな。
少なくも源氏の流れである筈はない。新田義貞の一族に得川と
いう名の男が居り、近衛前久という藤原北家の流れを継ぐ五家の
筆頭に頼んで、その得川の子孫だという出鱈目な家系図をでっち
上げて作ってもらった。
公家は位こそ高くても貧乏である。だから近衛前久に限らず、歴史書
を引っ張りだして家系図を作ってもらうことが、いわば流行りであった。
家康の家は、三河の山奥の田んぼなど全くない辺りに、他所から
流れてきた勧進坊主である。その流れ着いた場所の地名を用いて、
松平という姓を名乗っていた。
家康が信長に引き立ててもらう好運に恵まれて、四天王と呼ばれた家来
も持った。
その中の酒井家が、流れ者の勧進坊主の面倒を見てやったらしい。
勧進坊主とは、田舎の村で寺も無い場所で、村に葬式が出る場合、
死者を浄めて弔う仕事を引き受けることで、村に住むことを許された階層
を指していう言葉だ。
晩年の家康は、側近たちに自らの幼かった時代の話を聴かせたが、その中
で勧進坊主の出だと言ったと、幕臣の大久保彦左衛門が書き残した「三河
物語」にある。年老いてボケた家康が、正直に本当のことを言ったものと思う。
ともかく家康は源氏の流れの名門とは縁遠く、だから征夷大将軍となって
幕府を開く資格なぞ無かった男である。
思えば徳川幕府15代に、まともな者は一人として居ない。日本にとって不幸
な260年であった。
![014](http://livedoor.blogimg.jp/papageno_/imgs/2/1/21a99b1a.jpg)
ネームで呼び合う中に、エリチンと日本の橋本龍太郎は仲間の会話に参加が
出来ず、二人で「ニキタ」「リュウ」と呼び合っては杯を上げていたと、これは橋本
元首相から直接聞いたことがある。
プーチンの登場を待っていたかの、石油や天然ガスの発掘で潤ったロシアだが、
エリチン時代はルーブルの貨幣価値が暴落し、年金生活者が生活出来ないこと
がニュースになっていた。
当時ボクは社員たちに、王侯貴族の身分を味わいたちと思うのなら、5千円札を
一枚持って、新潟港からナホトカ辺りに行けば良い」と語った想い出がある。
それはヒドイ超インフレで、しかもロシア経済はマフイアに握られているとも言われて
いた。
あのままエリチンが生き続けていたら、本当に北方領土はカネで解決出来た可能性
が大であった。
ロシアには領土をカネで売り渡した歴史がある。アラスカがそうだ。
日本で徳川慶喜が大政を奉還した頃だから、アメリカも南北戦争が終わったばかり
の1869年に、アメリカが720万ドルでロシアからアラスカを購入している。
この720万ドルを、金価格で換算すれば、およそ486億円になる。
ロシアは得た資金で、クリミヤ戦争の戦費に充てた、またシベリヤ鉄道の延長路線の
建築費に充てたとの噂がある。
エリチンは外国語にも弱く、だから橋本(龍)元首相とは仲が良かった。
北方領土は300億円ぐらいで、買い戻すことが可能であった。
![013](http://livedoor.blogimg.jp/papageno_/imgs/0/a/0ab79f6c.jpg)
日本とシナは十五年にわたって戦争をしていた。
だがシナで政権を奪った「共」がソ連との路線対立で、戦火も交えて睨みあって
いたのは、33年間にも及ぶ。
ボクがソ連の影響下にあった、旧東欧圏を支配人として管轄していた間、
東欧諸国には、立派なシナ料理の店の跡はあっても、コックが居なくなって
開業している店は何処にも無かった。
中ソ対立が、そんな形で日本人駐在員の食に影響していた。
日本が外貨準備高が一兆ドルを上回り、世界の何処にも日本人が進出した
現代と異なり、外貨準備高が20億ドルを目指していた時代には、日本食は
あっても値段が馬鹿高く、特にパリなどでは簡単には行けなかった。
そんな時に、日本食に代わっての「シナ料理」の存在が、駐在員を慰めていた。
東欧には、そのシナ飯がなかったのだ。店跡だけは豪華だったが。
日支は十五年を戦ったが、相手は蒋介石の国府軍で、毛沢東のパーロでは
なかった。だから国連の戦勝五ヶ国に、蒋介石の国府は有っても、「共」には
戦勝国の資格は無い。
島津義弘は、当初徳川に味方すべく伏見城に援軍として入場すべく
それを鳥居元忠が拒否したため、心無くも西軍に参陣したとの話を
信じる筋が多い。
そんな馬鹿なことが有った訳がない。徳川期は260年。御用学者が、
徳川のやる事なす事のすべてを、神君家康の御威光と都合よく粉飾
した作り話の一話に過ぎない。
島津義弘は最初から、西軍に義ありとして少数の兵力ながらも美濃に
陣を敷いた。宇喜多秀家が伊勢路から美濃に到着した当夜、東軍に
夜討をと提案。宇喜多もそれを良しとしたのを、戦の機微を知らぬ三成
に反対されて絶好期を逸したなど、寡兵を侮る石田への反感が、合戦
を通じての中立となって、大勢が決した後の敵中突破劇を生む。
西軍には大垣城に留め置かれた将兵をはじめ、九州の勢力が多かった。
島津義弘は、朝鮮の役でシーマンズと怖れられた事も耳に新しい。
宇喜多も島津を大将に仰ぐことに反対は無かった筈。
何も家康の仕掛けた策に乗せられて、大垣城を後に雨中の行進をしての
関ヶ原への移動は必要が無かった。島津が大将で指揮を取っていたなら
大垣城を中心点にした布陣を敷いた筈だ。
家康の城攻めが無能であることも、周知の事であったし、西軍がなぜ城を
出て関ヶ原まで、のこのこと出て行ったかが不可解だ。
更に決定的なことがある。合戦がもう一日遅れていたら、西軍きっての猛将
立花宗茂が、義兄弟の盟を約した毛利秀包と共に、西軍への参陣が叶った。
東西激突の場所が、大垣城を巡っての睨みあいとなり、問題の松尾山の軍
も、本来の殿様であった秀包を目にして、山を下り後を追ったであろう。
徳川に通じて毛利の現場の将、秀元の出陣を阻んでいた吉川広家も、毛利家
を危うくあせる愚を通すことも出来ずに終わった。
立花宗茂も毛利秀元・秀包も、島津義弘の西軍大将に異議はなかった。
東西睨み合いは、木曽山中に滅ぶ徳川秀忠軍と同じく、数次の合戦を重ねるに
連れて、徳川からの脱走者が続出。赤坂での家康切腹で幕を閉じる。
号して如水と名乗った官兵衛だが、その心は「淡きこと水の如し」。
一橋大学の同窓会がいみじくも「如水会」を名乗っている。
信長にサルと呼ばれた秀吉の性格は、あくまでサルはサルで終わった。
黒田官兵衛は、真に秀吉の良き補佐役であったが、秀吉は官兵衛程の
人の上司には相応しくない奴だったと言ってよい。
天下人に登り詰めた秀吉が、五大老の制度を定めたが、本来ならその中
に黒田官兵衛の名があって当然だった。男のジェラシーが、官兵衛をして
九州中津に隠遁生活を送らしめたとも言える。
黒田官兵衛が五大老の筆頭だったら、徳川家康如きが幕府を開くこともなく
また石田三成は、単に有能な官吏として生涯を終えたと思う。