作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 水尾天皇 (歴史エッセイ 85) 】

2009-03-26 18:40:38 | 05 歴史エッセイ


最近のテレビ各局は、他局のヒットしたものを
パクルことに羞恥心を持たぬものらしい。

クイズ番組が大流行で、一部のタレント連が大いに
恩恵にあずかっている。

俳優としての仕事がほとんど無くなり、クイズ回答者
が専門職みたいになった者も多い。

その中で有名大学出身者がひとつのブランド化し
京都大を出て歴史・地理にかけては他人の追随を
許さぬと評価の高い回答者の答えぶりを偶々見て
驚いた。

教科書に頻繁に出る歴代天皇のベスト10は?
という設問であったが、件の京都大はなんと
水尾天皇と答えたのであった。

言っておくが日本歴史の中に水尾天皇は存在しない。
おそらく徳川秀忠に抵抗した後水尾天皇の連想で
通常後醍醐、後村上、後白河のように、後のつく
天皇が多いからと、イージーに水尾天皇と答えた
のであろう。

後水尾天皇と贈り名された天皇に、源氏の流れを
偽証した徳川は、清和天皇の名を重ねて後清和と
したかったのであろうが、清和源氏の名こそ高いが
清和天皇自らは病弱で、早くから隠遁生活を望んだ
孤高な天皇であったから、京都嵯峨野の一区である
水尾の地を特に好まれた清和天皇に別称水尾院の
名を付けて呼ぶことがあった。

だが天皇の名はあくまで清和である。
後水尾があったからとの、薄弱な連想ゲームで
堂々と水尾天皇と答えるクイズ回答屋が、歴史の
大権威とは恐れ入った。


                                                パパゲーノ



ブログランキング・にほんブログ村へ Banner_04_3 ←クリックお願いします。

                       歴史エッセイ目次へ


 


【 二代続けて家臣に殺された家康の家系 (歴史エッセイ 84) 】

2009-03-06 12:47:23 | 05 歴史エッセイ

家康は本来徳川なんて、一見高貴に見えんこともない
家柄の子じゃなく、三河の山奥の米など全く採れない
荒地の弱小豪族、松平家の出である。

果たして豪族の名に値したか否かさえ、定かではない。
初代と称する親氏が新田義貞の支流、得川氏からの
分家と苦しい言い訳をしているが、この親氏には存在
証明が怪しく、三代信光が室町幕府の小役人の手先
として京に出たのが歴史に残る初の松平氏である。

松平元康が今川氏に人質として幼少期を送ったころ、
松平には頭首も先代も共にいなかった。
元康の父にあたる広忠も、祖父の清康も共に家臣の
手によって殺された、珍しい家系の跡継ぎなのであり、
いくら戦国の時代とはいえ、こんな恥ずかしい家もまた
滅多に存在しない。

元康はくした家の歴史を大いに恥じたのであろう。
誰の目にも、およそ徳の無い家柄に見える。

そんなヤツが厚かましくも徳川を詐称する。
そして日本を二百六十年も支配した。

                                                パパゲーノ



ブログランキング・にほんブログ村へ Banner_04_3 ←クリックお願いします。

                       歴史エッセイ目次へ


 


【 徳川不在の関ヶ原 (歴史エッセイ 83) 】

2009-03-05 19:10:06 | 05 歴史エッセイ

豊臣家で同格の大老である上杉景勝に難癖を
つける資格は家康にはなかった。また本心から
上杉領へ攻め込むだけの器量も自信もなかった。
それが家康の実の姿であった。


日本人にとって不幸なことに、徳川の天下支配は
二百六十年にも及ぶ。これだけの長い年月があ
れば、御用歴史家たちは、自由に徳川治世を
賛美する文章を残すことができる。


家康の徳川家は近衛前久に大金を積んでの、ニセ
系図によって新田義貞の支流を騙ったものに過ぎ
ない。新井白石のような典型的な御用学者によって、
徳川の子分どもも、名家の後裔を騙ることができた。
白石はついでに己の家をも新田氏の流れとなした。


バカ息子の代表としか見えない秀忠に三万八千もの
大軍を率いさせたが、関ヶ原の合戦に参加もできぬ
愚を天下に晒した。


こんな合戦の勝利者が家康であるわけがない。


それを鋭くえぐった本が『逆転 関ヶ原』である。
四月発売が待ち遠しい。

                                                パパゲーノ



ブログランキング・にほんブログ村へ Banner_04_3 ←クリックお願いします。

                       歴史エッセイ目次へ


 


【 佐々木道誉で始まる関ヶ原 (歴史エッセイ 82) 】

2009-03-05 18:38:24 | 05 歴史エッセイ

四月に創元社から発売される『逆転 関ヶ原』は
なんと冒頭に佐々木道誉が登場する意外性を含んだ本。
時間差およそ250年の道誉がなぜ冒頭にくるのか?


宇多天皇に発する近江源氏は、宇多天皇より三代の祖と
なる清和天皇系の源氏とは別の流れだが、近江を主に
武将として栄え、佐々木氏を名乗った。


道誉(高氏)は足利尊氏(高氏)と同じ名を持った偶然から
足利の天下取りに大いに貢献した。


佐々木源氏は後に六角氏と京極氏に別れ、京極は下克上
の世相の中で家臣であった浅井氏の庇護を受けるにまで
没落する。


豊臣秀吉の天下となり、京極氏も高次・高知の兄弟が大名
に列することになるが、それは姉が秀吉の妾の一人として
ハーレム入りしたことの代償と見られ、世間での評価は所詮
は姉の尻の光によるものと、蔑まれていた。


そんな京極高次が、実質的に関ヶ原の勝負を決める役割を
演じることになる。


こいつが突如大津城に東軍の旗を掲げなかったら、小早川
の裏切りもなく、史実とは逆に西軍圧勝の中で、家康の生命
はその場で消えていた。


西軍が圧勝した後が、どうなったかを考えると、興趣に尽
きない。少なくも二百六十年にわたる、日本の停滞期は無く
欧州列強がアジアで植民地獲得競争を行うこともなかった。

                                               パパゲーノ

ブログランキング・にほんブログ村へ Banner_04_3 ←クリックお願いします。

                       歴史エッセイ目次へ