作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 税理士の真似ごと 】

2006-10-31 18:29:46 | 12 幼き日々のこと


大学も3年となり、ゼミに入ることとなりました。
ボクは会計学のゼミに入った。

このコトがボクの経済状態を一変させます。

大学には大学院もあり、経済研究所という付属設備も
あった。そこに、将来は教授を目指す人たちがたむろ
していました。

折りしも「青色申告制度」が導入されて、各企業は
それに備えた帳簿を調えなきゃいけなくなった。

税理士の数がまだ少なく、依頼すれば費用もかさむ。
大阪商人としては、少しでも安く、それで実を取れば
よい。

そんなわけで、経済研究所の会計学部門に仕事が大量に
舞い込んだ。

ゼミの先輩に呼ばれ、この仕事キミ等もやらんか。

毎日拘束される必要もなく、週に1~2度か顔を出して、
経理担当の女の子に伝票の仕分けを指導し、月間会計を
行う。
簿記の経験も無かったが、そんなに難しい仕事じゃない。

1社受け持ったら、月額3千円呉れました。
3社で9千円、4社なら1万2千円で、当時の大卒
初任給を上回る。

これでいっぺんに楽になって、3年生の一年間に、
数だけは皆がビックリするほどの単位を獲得しました。

あれが無かったら、果たして4年で卒業できただろうか。

誠に有難い仕事にありついたものです。

受け持った1社は、大阪観光ホテルといって、もっぱら
修学旅行生の宿だったが、道頓堀に面したこのホテルに
出向くと、昼ご飯を塗りのお盆で、宿屋らしきお菜を
添えて、おひつでご飯を供され、思わぬ余得にありついた。




                                       パパゲーノ


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【 社会部記者 】

2006-10-31 18:28:37 | 12 幼き日々のこと


大学2年から3年になる春休みに、統一地方選挙が
ありました。
その前年ぐらいに、読売新聞が大阪に進出し、
大阪読売新聞が出来ていました。

統一地方選挙というのは、知事・市町村長・府議・県議・
市町村議員など、数多くの選挙が同じ時期に重なる。

朝日・毎日・サンケイなど、既存の新聞社には、現職は
もとより、主な立候補者についての情報が備えられて
いるが、新たに進出した悲しさ、大阪読売にはデータが
揃っていない。

そのために、アルバイト学生が百名ほども集められ、
それぞれ担当地域を指定されて、立候補予定者の、
略歴や顔写真を集めさせられました。

ボクには大阪市西淀川区が割り当てられた。

アンカーを務めたのは、社会部の奈良さんという、女性
記者でした。

3~4日は、他のアルバイトと同じように、担当地区を
周り、指示された資料を集めたり、コメントがあれば、
それをまとめたりして、奈良記者に渡せば、それで一日の
業務終了だった。

このアルバイトは、他より待遇が良く、日給350円
だったと記憶しています。

たしか4日目に仕事を終えて帰ろうとすると、奈良さん
から声がかかり、「部長があなたに話があるから、少し
待って欲しい」

当時の社会部長は森さんといい、大阪読売の紙面に
連載小説を書いているような人でした。

新聞社内にある、上等な方のレストランに連れて行かれ、
ナイフとフォークを使う食事が出た。
(別に一般社員が普段利用する食堂があった)

「キミ、背広持ってるか」 と森部長。

大丸の紳士服売り場に一年ほども居たことがあるから、
安物だけどスーツ一着はある。

「一応持っています」
「じゃあ、明日からそれを来て出社してくれ」
「?????」
「いま奈良さんがやってる、アンカーの仕事を、明日
からはキミに頼みたいんだ。なに、皆が集めてくる資料
を集計して、抜けてるところが無いようにチェックして
くれれば仕事は勤まる」

「それと現職の市長と議会の長とか、威張ってる手合い
には、アルバイトって訳にはいかんので、社のクルマ
でカメラマンと同道し、簡単なインタビューぐらい
やらんと、先生方機嫌が悪いんで、そっちも頼む」

大阪読売新聞・社会部・記者の肩書きつきの名刺が2箱
すでに用意されていました。

仕事は森部長がいうほど簡単ではなく、毎晩遅くまで
残業させられた。
社旗を翻して、インタビューに大物の所に出向くのは、
ちょっといい気分でした。

選挙が終って、これでオシマイと思っていたら、
「よかったら、しばらく社会部を手伝え」となり、
もっぱら、記者連中が電話で記事を送ってくるのを
原稿に書き取ったり、一般市民からの速報を記事に
したり、留守番役をやらされました。

バイト料が他所より良かったのと、部長だけじゃなく、
他の記者たちからも、ひんぱんに食事をご馳走になり、
あれは良い仕事だった。




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【 大書店の傲慢 】

2006-10-31 18:27:34 | 12 幼き日々のこと


大阪駅前の今はホテルが建っている辺りに、
大型書店があり、そこで売れ残った書籍を
返本する仕事に行った。

売り場は整然としている書店のウラとなると、
雑然なんて簡単な言葉では表現できない、
そこはまさに足の踏み場もないトコロで、
何よりも驚いたのが、売り物である大切な本が、
返本するとなると、よくもここまでと気の毒に
なるほど、手荒い扱いを受けていることだった。

売れなかった本を、出版社ごとに集めて荷造りし、
返すのである。
この仕事は、かなりの重労働で、アルバイトに
指示命令を下す若い社員の態度も、横柄を通り
越すほどの乱暴な口利きだった。

中にまったく開梱した跡の見られない包みが、
それも幾つもあって、それらの包みは今から
開けられて店頭にならぶのだと思っていたら、
なんと、それらも返本の対象品だった。

全然開けることもしないで、そのまま突っ返す
のかと尋ねたら、「そうだ」と答える。

「そんな売れもせんモン、送りつけられたって
迷惑なだけなんだ。しばらく置いておいて、
もう良かろうって時がきたら、そのまま返本する」

それを聞いて、ボクは大型書店の傲慢を感じ、
これはなにも書籍に限ったことではないのじゃと
思った。

出版社が零細企業で、著者が大家でないとなれば、
こんな扱いを受けるのか。

書籍流通のウラを知ったボクは、このころから
日本の流通のあり方に不信感を持ち出した。




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【 有名旅館のお坊ちゃまの家庭教師 】

2006-10-31 18:26:26 | 12 幼き日々のこと


新聞に「家庭教師募集」の案内が。
それも英語・数学・国語・化学など教科ごとに一人。

面接場所が大阪商工会議所の会議室。

こわごわ出かけて行きました。

行ってみたら、ビックリするような、
それは大勢の応募者が。

ほとんどが今なら塾の先生にでもなるんだろう。
完全なオトナの世界でした。

国語には自信があったから、ペーパーテストを受け、
面接に望んだが、「まだ学生さん?」
採用してはもらえなかった。

ず~っと後になって、その時の坊や。
水商売関係を手広くやる社長に成長したとか、
出入りの銀行マンに聞きました。

かつて有名だった旅館、今は存在していない。




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【 某宗教団体の聖歌隊 】

2006-10-31 18:25:25 | 12 幼き日々のこと


大阪府南東部に本拠を置く有名宗教団体。

キリスト教に見習ってか、聖歌隊を作るという。

応募したら、歌唱力のテストを受けろと。

出かけて行って驚いた。

音楽を本チャンにする連中が大勢いて、
相当に本格的な声楽の世界。

こりゃ無理だと退散しました。

その後、高校野球や夏の花火で有名になったが、
聖歌隊のハナシは聞いたことがない。

全員不合格だったのか、教祖さまのご意向が
変わったのか




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【 ミナミの親分さんにご挨拶 】

2006-10-31 18:24:24 | 12 幼き日々のこと


大阪ミナミの繁華街。

心斎橋筋をず~っと南に下がって行って、
通称「引っ掛け橋」、ナンバのメッカを渡ると、
通りの名が、戎橋筋に変わります。

そのまま南下して道が無くなるところに、
東にそれる道があって、千日前に通じています。

これを逆に高島屋方面から、信号を渡って来ると、
直進して戎橋に進むか、右折して千日前に出るかに
分かれる次第。

千日前に至る通りに面した商店主たちが、人の
流れの実態を知ろうと、交通量調査に乗り出し、
その要員として十数名のアルバイトが雇われた。

その初日、辺りを仕切る親分さんに、先ずは挨拶
となり、アルバイト学生からも代表を出してくれ。

なぜだかボクが推されて、商店街の幹部に混じり
組の事務所に。

「しばらくお騒がせをいたしますが」とアタマを
下げる幹部たちに混じって叩頭し、何か一言述べよ。

「アルバイトの身に過ぎませんが、商店街の発展の
ために、ささやかなりとお役にたつよう頑張ります」

和服にステッキをついた親分さんが、うなずいて
セレモニーが終わりました。




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【 時給制のアルバイトがあったらなぁ~ 】

2006-10-31 18:23:26 | 12 幼き日々のこと


大丸百貨店で、紳士服の売り子を一年もやったが、
店員食堂の充実かつ廉価という、大きなメリットが
あった反面、仕事が終わるのが7時ごろになるので、
昼間大学に行けないボクが、これだけはという、
幾つかの重要講座を、同じ先生が行う夜学の時間で
学んでいたのが、それすら行けなくなってしまった。

これじゃ、アルバイトじゃなく、学生のカケラも残らない。

このバイト、本当は年末大売出しの臨時雇いだった。
20名ほども採用されて、その中の一人に過ぎなかった
のが、なまじ売り上げが良いものだから、重宝されて、
長期で来てくれとなり、一年ほども続いてしまった。

今でも、下手な百貨店員より、ボクの方がサイズが
よく分かります。

スーパーもコンビにもまだ無かったし、外食産業も
無かった時代。アルバイトといえば8時間拘束の
日給制しかなかった。

大学1~2年で取れた単位はごく僅か。
早く卒業して、目指す総合商社に入り、安定した
サラリーを取る身分にならなきゃいけないのに。

とりあえず長期勤務のバイトをやめようと、そして
短期アルバイトを繰り返しながら、少しでも大学に
通うようにしようと、そう気持ちが固まったのが
2年の夏前のことだった。

それから、実にさまざまなアルバイトを経験することに
なっていきました。




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【 門限が午後8時 】

2006-10-31 18:20:53 | 12 幼き日々のこと


大阪市の中心部から、少し東に寄って「上町台地」と
呼ぶ高台があり、北は大阪城から南は四天王寺へと続く。

この高台の上に、大阪府庁もNHKも、赤十字病院から
府警本部もあります。

近鉄電車が今はミナミの中心地なんばまで伸びているが
元々は上本町六丁目が起点。何でも省略する大阪人は
ここも「上六」。

この伝で言えば「上八」を東に入った一角が北山町。
知事公邸も市長公邸もある、市内きっての「良いところ」。

ある大企業が、ちょっと小ぶりの和風旅館を買取り、
取締役大阪工場長社宅とした。
家族構成が、夫妻の母親と子供三人がみな女の子で、
ご主人が出張がちだから、用心のために誰かマジメな
学生さんを置きたい。

そのハナシがボクのところに回ってきました。
部屋代は確か千五百円だったと思う。

結局卒業までの三年半をここで過ごしました。
門限8時半は異例と思われるけど、どうせカネがなく、
マジメに過ごすしかないボクには丁度良かった。

心斎橋大丸から北山町までとなると、相当な距離になる
けど、この距離をずいぶん歩いた。市電代を浮かすため。

この頃のボクは、一日の予算が百円ポッキリ。
交通費に使う分だけ、食費に食い込んでくるのです。

大丸百貨店に初めて売り子として働いたのは、初夏の
ころ。なんと婦人下着の特売場でした。あの時代まだ
女性とは言わず婦人と言っていた。

まだ戦後色の濃い時代だったから、婦人下着たって
色っぽいものじゃない。色も白と肌色だけ。
もちろん「勝負下着」なんてありません。

見たこともないペチコートなんて売らされて、とにかく
一日立ちっぱなしってことが、どれだけ足に来るかが
分かりました。
三日もすれば馴れたけれど、立ち仕事の辛さをあの時
知りました。

心斎橋大丸の店員食堂は、品数が多くて安くて旨い。

やがて、ある紳士服メーカーからの派遣店員として、
この大丸に一年ほども長期勤務をすることになります。

安くて旨い店員食堂に、ずいぶんお世話になりました。




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【 1円くれ 】

2006-10-31 18:19:57 | 12 幼き日々のこと


淡路島では家の周りがみんな田んぼだったのに、
我が家には米が廻って来ず、芋入りの麦飯ばかり
だったので、大阪に出て来て、純米の白いご飯が
食べられるのに狂喜しました。

米屋に行けば、配給手帳無しに、自由に米が買える。
この頃1升の米が270円ぐらいだったような気が。

バイトのカネで米1升を買って、大学の食堂に
持参すると、「一合」と書いた券を10枚綴った
ものをくれる。

その券1枚に炊き賃3円を添えて、どんぶり一杯
のご飯と沢庵2切れを貰う。
余裕があったら味噌汁10円。

いよいよピンチの時、これだけは最優先で購入する
定期券で大学食堂に行き、バイト仲間の顔を探し
「1円くれ」。
3人から1円もらって、なんてこともありました。

同じ食堂で50円のカレーライスや、焼きそばを
食べている連中が、心底羨ましかった。

当時の大阪市内の下宿代が一畳千円といわれた。
朝晩二食の賄いつきで、六畳なら六千円という
次第。これが四畳半だったら四千五百円になる。

日本育英会の奨学金が月額二千円。

ボクには賄いつき下宿は高嶺の花でした。




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【 日給250円と300円の差 】

2006-10-31 18:16:37 | 12 幼き日々のこと


日給50円の差は大きいけれど、重労働で余計に腹は減るし、
服は汚れるしで、やはり事務職の方が良いと悟りました。

市役所関係は、民間より安いので敬遠し、専ら会社関係が
発信する、もろもろの封筒宛名書きをやりました。

広報誌を送るケースもあれば、株式関係もあり、会社によって
交通費を支給してくれるところもあれば、源泉徴収で税金分を
差し引くところもありました。

四天王寺界隈のお寺の一軒に、大阪で「愛染さん」と親しま
れているのがあり、大阪の夏祭りは「愛染さん」でスタート
します。その祭りの案内をハガキで発信する仕事もありました。

ボクの入学した大学は「アルバイト大学」という異称があり、
学生部の中に「アルバイト係」があった。
吉川さんという有名係長がいて、他大学の学生の面倒も
みていました。

やがて、市役所関係も日給250円と民間並みになり、今度は
大阪市役所そのものに行きました。仕事は宛名書きではなく、
何だったか詳細は忘れたけど、書類の整理でした。

市役所の中に場所が無く、係員に案内されて市立の幼稚園に
連れて行かれた。その時のアルバイトはボクの他2名。

川端康成の作品に「女であること」があり、同じ題名の歌謡曲
も出たが、その作品に出てくる「愛珠幼稚園」が作業場に
なりました。
お昼になったら、幼稚園の先生たちが、キツネウドンを出前で
とって「どうぞ」と差し入れてくれ、貧しい身として、誠に
有難かった。

あれは彼女達の好意による、ポケットマネーからの差し入れ
だったと思います。
お返しが出来なかった。先立つモノが無かったから。

この当時、キツネウドン、ラーメン(中華そばと言った)が、
共に30円。カレーライスとなると50円。
交通費は地下鉄が15円で市電が13円。往復券なら25円
でした。
市内のいたるところに「めし」の看板をかかげた飯屋があり、
ご飯の小が20円、中30円、大40円。
味噌汁が10円、卵10円、お菜の廉いのは、おひたし、
冷奴が10~15円だった。

ある飯屋で、中と卵を取り、醤油をかけてのタマゴ飯を三日
続けたら、「もう来るな」と出入り禁止になりました 。




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【 さまざまなアルバイト 】

2006-10-31 18:13:11 | 12 幼き日々のこと


大阪は商人の町。

クスリの町は道修町。

人形・玩具は松屋町。

装飾品だったら南久宝寺。

日本橋3丁目を東に入ると、そこは履物類の問屋が
軒を並べ、一番奥の通りがふさがれる南端に、
一軒の下駄・草履に使う「鼻緒」専門の店があった。

その名を「西川福三郎商店」といって、
ボクは淡路島の高校を出ると、その店に住み込みの
丁稚奉公をやらされる手はずが出来ていました。

内心では、誰がそんなトコロへ行くモンかと思っていた。

夜学(二部)受験と親をだましての受験勉強。
願書提出の段階で、堂々と一部(昼間)と記入して
入学試験に臨んだ。

当時の風習として、親はボクの布団一式を誂え、
西川商店に送った。

ボクはというと、合格通知と共に「蛍雪時代」で
知ったアルバイト係を訪れ、日給230円の
大阪市北区役所を紹介されて、早速その日から、
市税滞納者への督促状を出す仕事についた。

寝るのは、先輩・友人の下宿を転々。

ともかく、その日の食い扶持が無いのです。

だから大学の入学式にも出席していません。

日給230円は、昭和28年当時でも安かった。
市電往復が25円。これで収入の1割以上が飛ぶ。

再度アルバイト係を訪ねたが、300円くれる
仕事の多くは肉体労働。

鉄工所で重い鉄管を運んだり、溶接工場で、工員
に火花が当らぬよう、横から防御具を支えたり。

栄養失調で道端に倒れ、見知らぬ人に助けられて、
牛乳を一本恵まれるのは、時間の問題でした 。




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【 父親こそ刑務所に行け 】

2006-10-31 18:10:00 | 12 幼き日々のこと


少し前のニュースになりますが、奈良県田原本の
名門高校一年生が、自宅に放火して継母と幼い弟妹を
死に到らしめた事件。

カレ(以下Aクン)の父親が、面会状況を手記にして
発表した。

この事件が報じられた当初から、こんなことだろうと
想像していたことが、そこには記されていた。

6才の時から、「医者になれ、勉強しろ」と、怖い顔で
怒鳴られ、髪をつかんで引きずり回し、十数発も殴ったと。

Aクンは、たまったものじゃなかったろう。
その膝にすがりたい実母は、父が離婚したから居ない。

唯一の優しさを求めたい父が、もっとも遠い存在、いや
怖い存在になっていて、暴力で接する。

継母がどんな人かは知らない。しかし子供にとって、母は
唯一人だけ、実母しかいない。
心の底から、自分のことを分かってくれるのは実母だけ。
それを、父の勝手で引き離された。
Aクンは、どれほど孤独だったか。

事件報道直後から、ボクはAクンを引き取って、暖かく
育ててやろうかとまで思った。なんなら本当に実行しても
よい。

あまり言いたくないが、このAクン。ボクの過去に酷似
している。

「医師になれ、勉強しろ」とは言われなかったことと、
坊主頭だったから、髪をつかんで引きずり回されなかった
ことだけが違っている。

男の子は、家庭でどんなに悲しいことがあっても、それを
友だちには知られたくない。だから何事もなかったように、
明るく振舞う。

先生方も分からないほど、Aクンは必死になって、明るい
生徒を演じていたんだ。
それも小学校・中学校を通じて、高校生になるまでずっと。

ヒドイという言葉では言い表しようがない、極悪の父親。
それでも、殴られながらも、Aクンは父親の愛を求めて
いたに違いない。

実母を失ったのが11才のボク。
理由もなく殴られ蹴られはじめたのは、まだ実母が生きて
いた小3からだから、8才から。

実母を亡くしたその年に、早くも再婚した父。
継母には継婆がついていて、この二人組みには、徹底的に
イジメぬかれた。

Aクンの父親が、何を意図して手記を公開したのか。

Aクンの刑の軽減を願う、嘆願書が3000通という。
二人の親友が、雨の中、警察に戻るAクンを待っていた
とも言う。

Aクンは、本当に、友だちに愛される良い子だったんだ。
それが救いだ。

今後のAクンを支えていくのは、あんな父親なんかじゃない。
雨中で待ってた二人をはじめとする友人たちだ。

放火し、3名の生命が失われることをやってしまった。

そこまでAクンを追い詰めた、愚かな自己中の父親。

お前こそが真犯人だ。医者の資格なんかない。
刑務所に行け!

                 パパゲーノ




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【 後天的性格 】

2006-10-31 18:08:00 | 12 幼き日々のこと


高校進学に当って決意した。

進む高校には14の中学から生徒が集まる。
これを機会に、暗~い、気弱な、イジメられっ子を
脱して、新しいキャラを作ってやろうと。

特に何かをやったわけじゃないが、他の中学から
来た連中に積極的に話しかけ、明るく活発な行動を
意識した。

4クラスに分けられ、担任はそれから今日にいたる
ボクの人生に、闘争心を叩き込んで下さった、
泣く子も黙る坂本敏雄先生。体育の主任教諭でした。

クラス分けが行われてすぐ、選挙があった。
クラスから2名の代議員を選び、かつ2名の学級委員
も選出する。

得票数1~2位が代議員となり、3~4位は学級委員。

なんとなんと、このボクが1位で代議員に選ばれて
しまった。

坂本先生は、何かというと「真一!」とボクを呼びつけ、
本来なら学級委員の仕事まで、お前がやれと言われる。

アイツには坂本サンがついとると、上級生のワルたちも
ボクには手を出さなかった。

夏休みに入る頃には、ボクは高校の有名生徒になって
いて、その変貌振りには、同じ中学から進学した連中を
唖然とさせました。

先生は今も健在で、今も「真一!」としか呼んでくれない。
ひょっとするとボクの苗字をご存知ないのかも。

この後、ボクのキャラクター改造は、順調に進んで、
遂には「はみ出しサラリーマン」にと成長?してしまった。

もう後戻りは出来ない。オトナの分別なんて目じゃない。
いつまでもガキの部分を大切に、バカは死ななきゃ~
治らねぇ~。

                 パパゲーノ




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【 友だちがいない (6) 】

2006-10-31 18:00:25 | 12 幼き日々のこと


昭和20年はボクにとって一番長~い年になった。

父が兵隊に取られ、広い家に病気がちの弟の面倒を
見ながらよりは、いっそ病院がと、家族ぐるみで
満州日赤病院に入院したのです。

入院したついでにと、母は首に出来たぐりぐりを摘出する
手術を受け、その手術が失敗であっけなく死んでしまった。

その瞬間、水を欲しがって苦しむ母の傍に居たのはボク
ひとり。
医師もナースも居ないまま、母は敢えて受ける必要もない
手術の失敗で、ボク等兄弟を残しあの世に行ってしまった。

葬儀一式は、父の会社の人たちと、隣組の人たちの手で
済まされた。

何がなんだか分からぬまま、二人だけで家に居た時、満州
までは来ない筈の空襲があり、それがソ連参戦の8月9日の
ことだった。

この後、北朝鮮に疎開する列車に乗せられたのを、奉天で
強行下車して、知らぬ学校の講堂での難民生活となって
行くのです。

学校はソ連参戦で、自動的になくなってしまった。
だからボクは小学校5年は1学期しか行っていないし、
6年生も2学期の半ばからしか行っていません。

当然その間、友だちはいなかった。



                 パパゲーノ




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【 友だちがいない (5) 】

2006-10-31 17:58:46 | 12 幼き日々のこと


結核を疑われ、何時の頃からか足の関節に水がたまった。

だから体操の時間はいつも見学。

イジメは耐えることがなかった。
無抵抗と決めてかかってるから、イジメはエスカレートする。

山本という新京市鉄西区の区長の息子が、当然のように
暴力を振るう。それも先生の目につかぬよう、机の下で
蹴ったり、針でつついたりする。

ある日、カレの自宅(官舎)に出かけて行った。
母親が居て、カレの行為をやめさせて欲しいと頼んだ。

彼女はビックリして在宅だった父親を呼んで来た。
区長を務める父親は、戦前の立派な日本男児だったから、
息子の卑怯な振る舞いを知って、ボクに頭を下げ申し訳ないと
謝ってくれた。
後でどんな折檻があったかは知らん。

青ざめて登校してきた山本は、両親に言われたのだろう。
ボクの前に土下座して謝った。

香山というのもいた。陰湿なヤツだった。校舎内では内履きの
靴に履き替える。外履きの靴は靴箱にしまう。その靴を
持ちだし隠すのである。そんなことが何度もあった。

ある日どんなに探しても見つからない。

香山の父は満鉄の社員だから、満鉄の社宅に住んでいる。

夕食時を見計らって訪ねていった。
玄関を開けると、すぐそこが食堂で、一家揃って夕食を
摂っていた。

いぶかう母親に、というより奥にいる父親に聞こえるように、
「香山君がいつもボクの靴を隠すので、ボクは困っています。
今日も隠されて、今まで探し回ったけれど見つかりません。
香山君、どこに隠したのか教えて欲しい。そしてこんな迷惑な
こと、もうやめて欲しい」と大声で訴えました。

香山の父も日本男児。いきなり香山のほっぺたに激しいビンタ
が飛んだ。

「すぐに靴を隠したところに小林君を案内しろ、そしてもう
絶対にしないと土下座して謝れ」

こうして徐々にイジメがなくなっていきました。



                  パパゲーノ


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