作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 暖かかった昨日に比べ今日の寒さ 】

2013-03-02 19:33:47 | 08 腰痛治療日記

天気予報で分かってはいたが、風も冷たく体感温度は
3度もあるだろうか。

そんな中を、吹田市まで行ってきた。
09年の5月に、ここで脊柱管狭窄の手術を受け、以来
半年ごとに執刀医の事後の具合を診て頂くのだ。

腰痛は腰椎5番のヘルニアが悪化して、すべり状態になり
神経が詰まった脊柱管に割れが生じていた。
はみ出した神経が、何かに当たる痛さといったら、表現が
出来ない。

週に一度の「神経ブロック」注射を、尾てい骨の辺りに射す
痛みもまた、涙を流す事なくては無理だった。
それを3年以上やり、腰には鎧の如き革製の物を付けていた。

透析の主治医が、兵庫県では手術は無理と言われ、事実
何軒かの病院で、MRIやCTを撮ったが、手術には到らず、
ネットで探し当てた、「黄金の腕を持つ外科医」の中のお一人
である金澤先生を知ったのだ。

半年ぶりにお目に掛かった金澤先生は、別人の様に痩せて
居られた。悪性のインフルエンザで、いったんは家族会議まで
開かれたと言う。

ボクの方は、レントゲン写真で診ても、全く異常はなく、きわめて
順調だとのご託宣。

患者の身分で、お医者様に「お大事に」と言って、ナースたちに
笑われた。

安倍政権に協力する心算だから、電車で行ける場所にもタクシー
を利用する。日頃お世話になっているMKタクシーの牧野さんは
勤務十年目のベテランだから、井上病院までの道も心得たもの。
6600円は、「消費は美徳」の心が強い今のボクには善行と思える。


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【 福祉で経済成長とは 】

2010-06-25 08:55:15 | 08 腰痛治療日記

名誉な話じゃないが、ボクは去年五月に、
数年来患っていた腰部の痛みを取るべく、
脊柱管狭窄症の手術を受けた。

手術はうまくいったのだが、経過が悪かった。
六月中は、、まだ筋肉が残っていたから
歩行にさしたる障害は無かった。
七月に入ると、自分で歩く能力も消えた。


どこで情報を得たのか、福祉業者を名乗る
者が現れて、次々と高価な品を運びこんできた。
トイレにも風呂にも手すりが取り付けられた。

高いじゃないかと文句を付けたら、なんと
要介護何級かに認定されたから、代金は
不要なのだと言う。

誰が支払うのかじゃなく、異常に高値の品々に
文句をつけたのに、意味が分かっていない。
どこかから支払いがあるから、高くても構わな
いという神経に耐えられなかった。

ボクの衰えた体調は、十月ごろから回復に
向かったから、福祉業者が持ちこんだ品々も
要らなくなった。
次々に不要な物を返した。

ボクは慢性腎不全で、そんな状態でも透析に
通う必要がある。
福祉業者は、介護タクシーなる、軽四輪に
車椅子ごと乗り入れる、珍妙な代物を乗り
付けてきて、送迎すると言った。

当時は最悪の状態で、モノを言うのも苦労
だったから、言いたい文句も、言語障害で
言えなかった。

それを良いことに、福祉業者はクッションが
悪くガタガタの軽四輪で、十数度ボクを運んで、
一回あたり三千円以上の代金を取った。
その代金も、要介護何級かの判定で、どこか
から支払があるようであった。

ボクは毎回ガタガタ揺れる、軽四輪に手術跡
の痛みに耐えながら、ただ我慢していた。

言語機能が回復したから、タクシー業者に
電話で交渉し、福祉業者が送迎に来るのを
断った。

ホンモノのタクシーの乗り心地が如何に良い
ものかを改めて思い知った。代金も三分の二
を下回った。

福祉の業界は、何段階もの下請け孫受け
組織で構成されている。どこが福祉のカネの
出所か知らぬが、何層かのピンハネ組織に
なっていることには間違いない。

福祉を充実することで、景気を良くすると
威張って言う首相が居るが、どこまで福祉
業界の面妖な構造を知っての発言なのか。

あれはピンハネの連中が、障害者にたかる
構造で、障害者に直接カネを渡す方が、
はるかに合法だと言えるだろう。

福祉の美名に覆われた実態は、相当に
腐っている。


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【 手術の跡は綺麗に 】

2010-06-19 18:43:00 | 08 腰痛治療日記

昨年の5月下旬に、吹田市の病院で
腰痛(脊柱管狭窄)の手術を行った箇所の
経過を診てもらうべく出かけた。

インターネットを駆使して、「金の腕を持つ」
ドクターを捜し、透析を続ける必要がある
ボクの状態を前提に、難易な箇所の手術を
執刀できる方を捜した。

本当は大阪市緑区の先生だが、透析患者
のボクのために、透析施設がある病院に
助っ人として来られ、執刀していただいた。

最低6時間は掛かると、麻酔医師が判断
したものを、わずか90分で片付いたと、
後に知らされた。名医である。

前回から三カ月ごとの、経過診断でよいと
され、今日がその日に当たっていた。

腎臓が壊れているから透析でカバーして
いるのに、まだ骨細胞を作るホルモン分泌
がなされているらしく、チタンで組んだ人工骨
の辺りに、新しく生まれた骨が固まり、経過
はすこぶる良好だと言われた。

ボクの腎臓は、赤血球を造るホルモンも出て
いるらしく、他の患者のような貧血症状はない。
ただオシッコを作る機能が失われている。

当初6カ月の入院が前提であったが、透析に
いろいろ難点があり、1か月で脱走して帰宅。
その脱走記念日が、明後日(6月21日)になる。


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【 新・腰痛治療日記(9) 】

2010-01-12 11:57:21 | 08 腰痛治療日記

同じ時期にボクの症状と同じ「脊柱管狭窄」で手術を受けた
人たちの何人かを知っている。

その誰もが全快はしていない。
痛みが残っている。
ボクは一昨日初めて2キロばかりを歩き、筋肉痛の後遺症も
なく、だから今朝も歩いて会社までやって来た。

これって、まる四年ぶり以上の画期的な出来事。
痛みはどこにも残っちゃいない。
ボクは幸せ者である。


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【 新・腰痛治療日記(8) 】

2010-01-12 11:55:11 | 08 腰痛治療日記

手術当日の麻酔の効きすぎで、昏睡状態から覚めず、
やむなく人工呼吸器を取り付けられて、深夜にいたりようやく
目覚めたとまでは、先述しました。
手術に要した時間は、たったの1時間半だった。
「神の手」ドクターの神技を物語っています。

さて「藤古川」とは何ぞや?
「これは苦しいやろ」と人工呼吸器を外してくれた麻酔科の
先生に、その翌日になってもボクは真顔で
「先生、ボクは藤古川の畔をさまよっていました」
「は~ァ、藤古川って、それ何ですか?」

これは訝しがる方が正常で、ボクがオカシイのです。
眠っている間は酸素量も少なくてすむ。
なまじ目が覚めて、当直のナースがやってきて何かと話し
かけるから、それに応答しようとすると人工呼吸器で供給
される酸素量では足りないわけ。

で、ボクは酸欠で大いに苦しんだ。
手術は大成功だったのに、酸欠で死んだんじゃ笑い話に
しても悲しい。
だけど、あの十時間足らずが、ホントのボクの危機。
そんな中での幻想が、ボクの意識では藤古川。
世間様では「三途の川」というらしい。
それを渡っていたら、あの世とやらに行ってしまい現世とは
サヨナラだった。

ハナシに聞いていた「お迎え」がなかった。
現れたのは甲冑姿の(戦闘中の)武士。
そやつが「この川を渡るに及ばず」と言ったからボクは渡ろう
としていたのをやめた次第。

「お迎え」があるとしたら誰が来てくれたろう。
小五で急逝した母であったか。
ソ連軍が満州になだれ込んできた8月9日。
その直後から始まった在満州の日本人の悲劇。
それを知らずに38歳で急逝した母は8月1日が命日。
だから平時のままで、葬儀もできたし火葬もできた。
引揚時にボクの胸に遺骨があった。

母は6人の子を産み、うち4人に幼児のまま死なれた。
気の毒な人生であったが、ソ連軍の暴虐の限りを見ることなく
死んだから、それが幸せと言えるだろう。

妻が言っていた「お迎えには当然お母さんが」は実現しなかった。
だから、こうしてまたブログを書いている。


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【 新・腰痛治療日記(7) 】

2010-01-08 12:11:04 | 08 腰痛治療日記

前作(6)の予告通り、06年3月に漸く信頼できる整形外科医
に出会えて、神経ブロック注射を初体験したときのことを、
当時ミクシィに投稿したものを見つけたので、ここに転載
することにしました。

丸三年以上も毎週一回の神経ブロックを打ったことになり、
注射の中味は麻酔薬だから、相当量の麻酔薬が身体に
注入されたことになります。
この先生も名医であられたから、麻酔が身体に長く留まる
ことがなく、それで問題は起きずに済んだのだと今になって
感謝しています。

(ミクシィより転載)
【 パパゲーノの泣き言 】

今年の冬は例年になく異常なほどの寒い冬だと感じたのは、
パパゲーノが年を取ったが故でしょうか?
彼岸が過ぎてからも「寒の戻り」が繰り返し襲ってきて、
本質的には「弱いところ」だらけのパパゲーノを、これでもかと
ばかりに痛みつけてくれます。

パパゲーノの背骨には、頚椎・胸椎・腰椎それぞれに一箇所
半分潰れた部分があり、これは30代のある時、ある事故に
巻き込まれた心当たりがあります。
中でも腰椎の4番と5番は、形がいびつになっていて、間の
椎間板はグシャッとなっていて、もはやクッションの役目を
果たしておりません。

このことに起因する坐骨神経痛が、15年程も前から持病に
なっていて、特に寒い冬にこたえていました。1月の終りに
症状がヒドクなり、MRIを撮って主治医に診てもらったけど、
以前から特に悪化した場所は無いとのご託宣。

しかし現実に痛みは増してきて、総合病院の整形外科に
行ったけど、待ち時間4時間で診察は5分。
1週間後に部長診察があったが、これも待ち時間3時間半。
で、より詳しい検査をやろう。日時は4月末でどうか。

検査ばかりの連続で、どないすんねん?痛いのは今や。
すこしでも傷みを和らげる処置取れんのか?

ウワサを聞いて、別の総合病院にある「鍼灸科」に行く気に
なったら、透析の主治医からストップがかかった。痛みは
日ごとに強くなり、もう歩くのがタイヘン。朝起きて立とうと
するだけで激痛が走ります。

個人医ながら、良い先生にめぐり会ったのが3月27日。
さっそく神経ブロック注射をやってもらった。尾骨の辺りの
骨の痛みは去ったけど、神経痛は治まらない。
30日に再度のブロック。いま一つ利きがよくない。
痛み止めを飲みながら、辛うじて生きています。
                       (2006年4月2日)


                   パパゲーノ

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【 新・腰痛治療日記(6) 】

2010-01-07 18:58:56 | 08 腰痛治療日記

時の流れは早い。ボクの中の「藤古川の戦い」はすでに
七ヶ月半も昔の出来事になっていた。
さて、それからのボクの身の上に起こったことを・・・

手術は大成功だった、と過去形で書いてももう許される
であろう。06年4月に初めて治療らしい治療を受けた
時のことを次の(7)に持ってきます。尾骨の部分に受けた
神経ブロック注射の痛かったこと。今も忘れられません。
涙を流して泣きました、ホントに。毎週一回その痛い注射を
打ちに行く心境は、まさに屠所に引かれる仔牛のようだった。
♪ドナ、ドナ、ドゥナのメロディが流れていた。

「神の手」ドクターは多忙な方だから、11月までは月一の
診察だったものが、次回は今月16日と二ヶ月を空けての
ことになっている。殆ど自力で歩けるようになったボクの
現状を早くお見せしたい。

残念なことに副作用があった。前に書いたとおり、ボクは
腎臓の機能不全で透析を受ける一級障害者。
だから透析を続けながらの手術だったのだ。その手術は
みごとに成功したのとウラハラに内科的な大問題が起きて
しまった。血圧の急上昇というとんでもない副作用だった。

透析医が変わったことで、血圧を安定させていた内服薬が
すべて変更されたことによる。
新たに処方されたクスリたちにボクの身体が激しく抵抗した。
血圧が230を越える形で、抵抗の姿勢が現れた。
血圧230ともなれば、いつ脳内出血が起きても不思議
ではない。元の処方に戻して欲しいとボクは求めたが、
この病院には独自のポリシーがあるからと拒絶された。
じゃあ230にまで駆け上がった異常血圧はこのまま
放置するのか。

整形外科の手術にはリハビリの併行が義務付けされていた。
が、230もある血圧を見て、リハビリ担当がビビった。
そりゃそうだろう、リハビリの最中に脳内出血で死亡となれば
怖くて手が出せなかろう。

六ヶ月入院のスケジュールで手術を受けたボクだったが、
異常血圧の放置のままじゃ殺される。だから一ヶ月少々で
逃げ出すことにした。
6月21日に退院は強行された。ドクターも婦長も何度も
念を押した。
「くれぐれも転倒しないように」と。

ボクは焦っていた。早く元のクリニックに戻り、内服薬処方を
元に戻してもらいたい。焦りの原因はまだあった。
有力週刊誌による取材が7月冒頭に用意されていた。
一年少しで七冊の著作を出版し有力書店の店頭を飾った
ボクは「年間世界一の多作著者」としてギネスブックの
認定をも受けていた。
焦りまくっていたから、あれだけ注意されたのに、退院後の
一ヶ月で何度も転倒して、身体中が打撲によるアザだらけ
になっていた。


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【 新・腰痛治療日記(5) 】

2010-01-05 18:41:40 | 08 腰痛治療日記


問題の5月21日はすぐに来た。
担当のナースが一人でベッドを押して手術室に向かった。
麻酔担当のドクターが先ず現れた。
ボクの記憶はそこで切れている。

ボクの病状からみて、手術にはもっと時間が掛かると
判断されたらしい。やや大目の麻酔が体内に入りボクは
昏睡した。
かなり難解な手術と見られていたのが、名医の腕によって
意外な短時間で終ったとは後で聞いたこと。1時間半で
終ったのに当の患者であるボクは何ごとが起きたかも
知らず、昏々と眠り続け深夜3時ごろになって漸く眼を
覚ます。
「小林さん、手術は無事に終りましたよ」との先生方の声は
確かに聞こえていたのだが、応答することが出来ぬままに
眠り込み、深夜に至ったのであった。

ボクは夢の世界にいた。何故か知らぬが近江の国に進軍
していた。大勢の近臣や部下が居た筈なのに、それらの
者から離れて一人で笹の生い茂るところに迷い込んでいた。
霧が深かった。
闇が迫っていたから夕刻であったろう。風が吹いて霧の
一部に晴れ間が出来て前方の景色が見えた。すぐ前に
川が流れていた。

姉川にしては狭すぎるから、これは藤古川であろうと
見当を付けた。しかし藤古川とは何ゆえか、それが理解
できなかった。
誰の姿も無かった川の向こう岸に、甲冑に身を固めた
武者が現れて跪き、口上を述べた。

「あいやお待ちくださいませ。この河原一帯にもはや敵の
気配はございません。我ら前田家の手勢で敵を一掃して
ございます。
こちら側にお越しになるには及びません」

甲冑姿の武者が消え、耳元で女声が聞こえた。
侍女どもは軍勢の中に入れていなかった筈、さて面妖なと
眼を凝らしたら、そこにナースの制服姿があった。当夜の
夜勤担当のナースであるとは直ぐには分からなかった。

声を出そうとしたが出なかった。やたらと息苦しかった。
ナースは入れ代わり立ち代わってやって来た。
「気がつきましたか、大丈夫ですか」
返事をしようと思うのだが、声が出ないから大いに慌てた。
そこから悪戦苦闘の数時間が始まる。ボクが言うところの
藤古川の一戦である。しかし敵は何故にナースの制服を
まとっているのだろう。

しかしなあ、藤古川といったら壬申の乱じゃないか。
時代が古すぎちゃいないか。十六世紀に居た筈なのに
七世紀に飛んでいる。時空が異なり過ぎているじゃないか。

どんな戦いよりも苦しい、呼吸困難との苦闘は、夜が空けて
麻酔科のドクターがやって来るまで続いた。前日に手術を
終えたまま目覚めないボクには、人工呼吸器が取り付け
られていたらしい。これを付けると己の力では空気を
吸うことが出来なくなる。

「こりゃ苦しそうだわ、苦しいでしょう」
のどの奥にチューブが差し込まれていたのが外されて、
ボクは蘇生の思いに浸ることが出来た。
自力で吸う酸素は格別だ。


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【 新・腰痛治療日記(4) 】

2010-01-05 18:36:38 | 08 腰痛治療日記


透析の設備があって入院が出来て、優秀な外科医が居て
となると、ボクの望みを叶えられる医療施設は限られている。

インターネットも駆使して日本全国の情報を集めた。
透析の主治医である宮崎ドクターも知り得る限りの情報を
下さった。
いったんは東京でも千葉でも、どこでも良い、こんなに痛む
腰が治るのならと意気込んだものの、実際に入院して手術を
受けることの具体化が迫ってくると、ホンネの部分が頭を
もたげてくる。

大阪の北部、吹田市にボクが望む条件を充たす病院があり、
宮崎ドクターもそこを勧めてくださった。
その病院を訪れて、整形外科部長であり、病院全体の
副院長を兼ねるドクターと面談した。執刀医については
「神の手を持つ」と評されている優秀なドクターに助っ人
として来てもらうという話になった。その「神の手」ドクターの
存在は、ボクがインターネットで調べた方と合致していた。
「神の手」ドクターとも当然お目にかかり、病状と数年来の
経過を詳述した。
「やらせていただきましょう、お任せください」との力強い
お声であった。これで用意万端が整った。

09年5月16日(土)が入院日であった。手術は21日に
決まっていたが、ここの透析に慣れること、およびリハビリに
も慣れることが重視されての早めの入院であった。


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【 新・腰痛治療日記(3) 】

2009-12-29 15:51:57 | 08 腰痛治療日記


個人経営ながら、良い先生が居られる整形外科を紹介
された。そこでの治療は神経ブロック注射といって、
もっとも痛む患部に麻酔薬を注入することだった。
病名は脊椎管狭窄症だといい、腰椎の四番と五番の間に
あるべき椎間板が激しく損傷し、脊椎の背中側に沿う
神経の管(これを脊柱管と呼ぶ)を圧迫し、その影響を
受けた神経が痛みを発するのだとのことだった。

特注のコルセット(皮製)も用意された。これで腰部を安定
させて、週に一回のブロック注射を打つ。手術を避けての
治療としては、それ以外に考えられないとのことであった。

先生は六名の整形外科仲間と研究グループを作っておられ、
ボクの症状はその会の研究課題となったらしい。
その結果としての治療が開始されたわけだった。

06年3月に始めて体験した神経ブロック注射の痛みと
いったらなかった。ボクは毎回のように涙をこぼし、注射後の
一時間をベッドにうっぷして過ごしていた。

人間の身体はたいていの刺激に耐え慣れてくる。
やがてその痛みにも耐性ができて、苦痛を感じなくなった。
当初はブロック注射後の二日ほどは効いていたのが、
だんだん駄目になっていった。

治療開始から丸三年が経過した09年3月に、ボクは
最後の手段として手術を受ける決意をかためた。
すでに歩行も困難になっており、嫌も応もなかった。

問題があった。ボクは腎機能障害で毎週3回(毎回4時間)
の人工透析を受ける一級障害者であった。
透析を続けながらの手術となれば病院も限られてくる。




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【 新・腰痛治療日記(2) 】

2009-12-28 11:38:26 | 08 腰痛治療日記


それが地獄の日々のスタートを告げる出来事であった。

いくつもの整形外科を訪れた。ひとりじゃ歩けないから
社員の肩を借りてよろけながら行った。世の中にいかに
同病の患者がいるのかを知った。大半が老人であった。

誰でも名前を知っているはずの大病院の扱いが最も
ヒドかった。
さんざ待たされたあげく、ようやく名前が呼ばれたが、
まだ学校を出たばかりと見える若い女医は、カルテに
最低必要事項を書き込むだけで、あとはレントゲンの
撮影を指示するだけであった。
昼食の時間を妨げられた技師はそのイラダチをボクに
ぶつけてきた。
立つこともままならぬ状態のボクに「真っ直ぐに立てよ」
と命令形で怒鳴り、角度を変えて十数枚もの写真を撮った。

その翌週に部長先生の診断があるからと言われて
帰された。若い女医は単なる受付の役を果たすだけの
役割の模様であった。
約束の日時に別の医療機関で撮ったMRIのフイルムを
持参して行ったが、そのMRIは無視され「改めてウチで
撮り直す」と厳かにのたまわれた。

驚いたことに、先週十数枚も撮ったレントゲン写真が
一枚も無かった。あれは一体何のための撮影だったのか、
単なる点数稼ぎを超有名病院がやるのか。
ボクは遠慮なく部長先生にその点を質した。
持参のMRIを見ようともしない点も併せて、この事実を
天下に公表するぞと居直った。部長先生は態度を豹変し
深々と頭を下げて謝罪した。この病院では全くラチがあかなかった。


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【 新・腰痛治療日記 】

2009-12-24 15:40:26 | 08 腰痛治療日記


ボクの腰痛は左足の神経痛から始まった。
キャリアは長く、60年代後半にはすでに痛んでいた。足首と
ふくらはぎの双方に出てくる痛みを、壁に向かって手をつき
足を伸ばすストレッチで伸ばしながら、テニスコーチレッスン
に参加していた。
「今日は足の痛みはどうですか?」
「今日も立派に痛いです」
「レッスン大丈夫ですか」
「やってもやらんでも痛いんだから、やらんと損です」
連日そんな会話をコーチと交わしながら、ボクはテニスコートを
前後左右に振り廻されていた。神経痛が治まらぬ左足を
ひきずりながら。それが五年前までのボクの日常であった。

左足の神経痛の原因が、腰椎の第四番と第五番の間にある
椎間板の損傷とスベリにあると複数の整形外科医の診断で
分かっていた。いわゆるヘルニアである。
その悪化が進行していた。

06年の2月のある夜だった。圧倒的に女子が多い社員たちに
声をかけ、最寄のちょっとはイケるイタリアーノで一騒ぎして
帰途につこうとした。
皆とは六甲ライナーの駅に向かう地点で別れ、ひとりマイカー
を止めてある場所へと足を向けた。
2月のそれも特別に冷え込んだ夜だった。ボクの左足がついに
反乱を起した。簡単に説明がつかない異常な激痛に襲われて、
人通りの無い場所でボクはのたうちまわっていた。


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【 腰痛治療日記 (25)】

2008-10-02 15:49:25 | 08 腰痛治療日記

空気が急速に冷たくなって、その分神経痛の痛み方が
キツクなっている。
もっともよく効く「暖め」のためのホットカーペットを、今年は、
あの暑いさなかにも出しっぱなしであった。
普段の日よりも、かなり早い6時台に目を覚まし、鎮痛用の
テープを腰から脚にかけて張りまくり、やおらホットカーペット
上に身をまかす。
今日は「整形外科」に行く日なのである。

昨日が雨だったから、外来患者が多い。
いつもはトップなのに、今日はなんと5番目の診察。
神経ブロック注射の後も、神経痛の痛みが消えない。
誰かボクの痛覚を取り去ってくれないか。

                       パパゲーノ

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【 腰痛治療日記(24) 】

2008-09-24 10:48:03 | 08 腰痛治療日記

久しぶりにバックナンバーを読むと、07年12月に簡易車イスから、
後ろ向きに放り出され、後頭部をコツ~ンと音が聞こえる打撲を
負っている。そのあとの経過は何も悪くならなかった。

しかしである。脊柱管狭窄の形状も、MRIで診るかぎり、一年半前
のものと何の変化もなく、しいて言うなら、微妙に患部が小さく
なっている。

なのに、なのに・・・・・・

左のでん部から太もも内側、そしてふくらはぎに走る神経痛の
痛さといったら、筆舌に尽くし難いモノがある。

あまりにも痛いから、ここ三週間続けて、土日を寝て暮らした。
これが良くなかったみたいなのだ。

だから今日(祝日)を、二重のコルセットを着用したままで、
もっぱら座って暮らしている。それでもふくらはぎには神経痛が
走る。腰痛は明らかに軽くなっている。

本来なら今日は、整形外科に行く日であった。祝日だから医院も休む。
明後日の木曜日に神経ブロック注射を受ける。
最近では、あの痛い注射が楽しみになっている。

そんなわけで、テニス復活は遠い夢となった。

代わりに小説を書き始め、今や著名書店に六冊が並ぶ。
特に大阪ヒルトン・プラザのジュンク堂の展示はものすごい。

ボクの著書ばかりを、7メーター幅で表紙を見せて飾ってある。
7メーターだぜ。日本の書店の歴史で初の快挙だ。

今月は全国各地の超有名書店で、ボクのフェアーが行われる。
その書店数が30店を超す勢いであるから、書いた本人が
ホッペタをつねりたくなる。

ちなみにボクのペンネームを「小林真一」という。
お気にいったら、一冊でもどうぞ。


                パパゲーノ

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【 腰痛治療日記 (23) 】

2007-12-22 12:30:00 | 08 腰痛治療日記

事件?から48時間経過したから、ご報告します。

水曜日(19日)午前8時40分、その事件?は
起きました。
寒くなって、脊柱管狭窄から来る、脚の痛みが
激しくなっていて、歩行器(折りたたみ椅子に
車輪が四つ付いた簡単な物)を使用しないと
歩行が難しくなっています。
特に朝が痛む。椅子の形をしているから、座る
こともできる。前輪が安定していないから、座った
ままでの前進は無理だけど、後ろ向きに進むこと
はできます。

で、後進していたら、ちょっとした段差があり、そこ
で車輪を取られ、みごとに身体ごと後背の形で投げ
出されました。コ~ンという音がするほど、激しく
後頭部をコンクリートに叩きつけられました。助けに
来た人が右手を引っ張ろうとするのを、「しばらく
動かないようにしますから」と断って、約5分間じっと
していた。

目もくらまないし、吐き気もしない。コブも出来て
いないし、裂傷もないので、うまい受け身ができたと
思いました。

そのまま会社に行き、整形の先生に電話をした。
これだけの時間経過があって、それだけハッキリ
しゃべることが出来るのなら、まず大丈夫ですと
言われ、安心しましたが、あれだけ激しく打ち付けた
のに、痛みが全く出ないのは不思議。

午後透析に行って、主治医に朝のできごとを話したら、
「まだ48時間は安心できません」と言われ、透析後
CTスキャンを撮りに行った。その写真を見た、
画像クリニックの先生は「大丈夫です」とニッコリ。

翌木曜日に整形外科に行くのに、その写真を持参した。
「よほどの見落としがない限り、どこにも異常は
ありません」とのこと。

最も慎重な透析の先生から、いろいろ怖い話を聞いた
が、すべては水に流れたと、今は確信しています。

それにしても、あの「コ~ン!」で、全く無痛とは?

                パパゲーノ

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