作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 日課のような午後の珈琲タイム(いつも珈琲があった33話) 】

2014-04-15 17:25:26 | 03 いつも珈琲があった

以前にも書いたがボクの会社では吟味したコーヒー豆を社員が
淹れてみんなに供する、麗しい習慣がある。

今日の午後の珈琲タイムが、いま終わったばかりだが、昨日・今日
と二編に別けて書いた、スイス・ヘルメス社のエルメスタの話には
色々と後日談があるから、それを社員たちに披露していた。

シュミットは怒りにまかせて、東急エイジェンシーに怒鳴りこんだと言う。
ボクはそれを、当の東急エイジェンシーの部長クラスの人から、ある
パーティーで声をかけられ、詳しく聞かせてもらった。

ドイツの会社は、総合薬品会社だったが、そのころから始まったアメリカ
資本による買収劇で、主力の薬品部門が買収されて、人工甘味料部門
だけが、事もあろうにスイス・ヘルメスに買い取られてしまった。

ボクはすでに、日本でサッカリンは売れる見込みが無いと、他の方面に
進路を変えていたから、何も痛痒は感じなかった。

トーメンが「いずれは上場も」と、資本を注ぎ込んだ子会社に、社長の肩書
で出向させられた人々こそ気の毒である。

ミネオ君がどんな顔をした男かを見に行ったこともある。
水道橋の駅前に建つ茶色のビルの中にあった。
人数や面積を偵察に行ったのだ。糖尿病の友人に頼まれて買いにきたと
言って、男3名女子1名の会社を見届けて来た。
相手はボクの偵察行為を今も知るまいと思う。

ボクの会社は、今もヘルメス・ジャパンと名乗る。その由縁はお話しした通り
である。ヘルメスはギリシャ神話に登場する神に一人で、ゼウスの12人の
子供の中の末子である。ヨーロッパには多い社名だ。

東急エイジェンシーの人によれば、シュミットは本来不要なドイツ社の部門にも
カネを使わされたと、怒り心頭に発し、何とかヘルメス・ジャパンの商号を取り
上げろと喚いたらしいが、商標ならいざ知らず、商号登記はどうにもならぬ。

今のボクの会社は、人工甘味料とは無縁の世界で生きている。
ある時ミュンヘンに行った折りに、かのドイツの会社を訪れてみた事がある。
本社は米系に買われ、切り離された甘味料部門の留守番をやっている老人
と会って話を聞いた。
「お前があの小林か、スイス・ヘルメスを好き放題に痛めた痛快な男がお前か」
と大喜びで、ボクを近所の「チュラスコ」という焼き肉屋で奢ってくれた。

あの時の担当者は、ヘキスト辺りに転職したと聞いて安堵した覚えがある。
その後のミネオ君の消息は知らない。
カレの奥さんはウインブルドンの女子ダブルスで決勝まで行ったテニスの名手だ。

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【 続 エルメスタをご存知ですか(いつも珈琲があった32話) 】

2014-04-15 14:55:32 | 03 いつも珈琲があった

東京の高級ホテルにあるドラックストアには、ある種の新製品
売場の雰囲気がある。
それら高級ホテルのドラッグストアの過半が、六本木の大地主
でもあるK氏の持ち物であった。
ボクがスイス・ヘルメス社の対抗馬としてドイツの会社の製品を
輸入し、いち早く東京の高級ホテルのドラッグストアへの納入に
成功した陰には、もちろんK氏の協力があった。

さてボクに高圧的な態度で接した男、名前を忘れたが、それじゃ
不便だからシュミットと仮名で呼ぶ事にする。

シュミットの性格上、必ず誰か日本人と組んでエルメスタの日本で
の販売に乗り出すのは、火を見るよりも明らかなことだった。
関東で広い牧場を持つ家のボンが、ボクの後でチューリッヒに行き
シュミットの言い分を聞いて、日本での販売権を得たものと、ボクが
張ったアンテナに掛かった。

ボクはドイツ社の製品を「コーヒー・スイート」と名付けて、一箱200
粒入りを2千円で売り出していた。これはオトリだった。
シュミットが来日し、東急エイジェンシーに市場調査を任せ、牧場主の
ボンに販売を任せ、ボクの「コーヒー・スイート」が2千円の高値で販売
されている事を知った、シュミットは喜んだ筈である。

エルメスタはブリキ製の缶入りで、250粒2千円で販売開始。
東京の各駅に広告看板を出し、週刊誌に広告掲載、やがて待ちに待った
TVコマーシャルが出るに及ぶ。これで牧場主のボンは3億円を投じたと
読んだボクは、売り場から20粒入り2千円を回収し、緑色のラベルに変え
100粒入り680円の単価に変更。
同時にかねて用意の薬店向けも売りだした。

この時点で、ボンは1万ケース以上の商品を仕入れていただろう。
いやシュミットのことだから、1万では満足せず、5万近くを年間売上計画に
用意していたと思える。

エルメスタを入れたボンの会社、ミネオ企画が倒産の憂き目に遭ったのは
当然のことである。ボクを相手にして勝てるわけがなかろう。

不良在庫を大量に抱えて倒産したミネオ企画を、まさか拾うのがトーメンの
武内社長とは、流石のボクも読み切れなかったが。
シュミットに痛い目を遭わせるまではボクの筋書き通り。最後の武内の記者
会見は望外だった。TVで流れた武内の「いずれは上場も」を聞いて、まさに
抱腹絶倒の喜びに浸った。

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【 エルメスタをご存じですか(いつも珈琲があった31話) 】

2014-04-14 18:27:38 | 03 いつも珈琲があった
今ごろこんな質問をしても、誰もご存じではないと思う。
スイスにある人工甘味料の商品名でスイスにあるヘルメスという
会社が作っている商品名だ。

ボクは79年に商社トーメンを辞め、翌80年に自ら会社を興して、
いま35年目になる。

最初に考えていた、扱い商品にスイス・ヘルメス社のエルメスタが
頭の中にあった。
チューリッヒの街の中に、そのヘルメス社が在った。
訪問する前夜に下見に行っておいた。

ボクの訪問に対応してくれた担当者は、丁寧な人だった。
見本が大量に居るだろうと言って、用意もしてくれていた。

そこへ取締役の肩書を持つ男が現われ、日本での市場規模を聞く。
そんなもん、まだ売ってもいない物を、いくら売れるとは誰も言えやしない。
すぐに居丈高になるその男は、向こう三年間で如何ほどの販売計画があるか、
そのための宣伝広告費を、いくら見積もっているか、と次々に質問して来る。

先ずは東京のホテル内にあるドラッグストアに限定して売り出し、市場の
評判を知りたいと答えると、それじゃナンボにも成るまいと言う。
話にならんと、こちらから商談を打ち切ってヘルメス社を去った。

その足でミュンヘンに向かい、ドイツの競合メーカーの方へ行った。
こちらは非常に協力的で、最初から多くは望まない、徐々に市場を固めてくれたら
それで良いと言ってくれた。
ドイツ後の、舌を噛みそうな名前があったが、日本での商品名は別の名前でも良い
と、ずいぶんと話の分かる人であった。
初対面のボクを「我が家に招きたい」と、ボクを自宅に連れて行き、奥さんも同行して
予約を入れたイタリアンで御馳走にもなった。

ドイツ社の製品を少量の輸入で、販売のための社員も募集して、喫茶店を回ったが
どこでも「押し売り」扱いで、ケンもホロロだ。

方向を変えて薬局に行った見たら、対応がまるで違う。とにかくそこへ置いて行けと
商売も簡単なものだった。日本で売る商品名を「コーヒー・スイート」に定めた。
そして会社名をヘルメス・ジャパンに。明らかにやがて出てくるスイス社を意識しての
同じ社名を名乗ったのだ。

この話は長くなりそうで、続きはまた後日に。

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【 発足直後の新幹線で(いつも珈琲があった30話) 】

2014-04-13 17:46:32 | 03 いつも珈琲があった

64年といえば、東京オリンピックのあった年。
10月10日の開会式に先んじること10日前に、新幹線が
東京ー新大阪間を走りだした。

当初は「こだま」だけで、所要時間が4時間だった。
自民党の副総裁に、大野という岐阜出身の男が居り、その男の
我田引鉄のゴリ押しで、岐阜羽島に駅ができた。

新幹線には食堂車もあったが、それは「ひかり」以後のこと。
「こだま」にはビュッフェだけで、列車が岐阜羽島に着くと、社内で
ビュッフェで飲食する乗客が窓に向かって座っている目の前に、
多数の岐阜県人が見物に来ている。

コーヒーを飲んでいたボクも、水族館の金魚の状況に曝された。
当時の新幹線の先頭車両は、もちろん0型で、流線形ではなかった。

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【 あれは十数年も前のこと(いつも珈琲があった29話) 】

2014-04-11 17:37:42 | 03 いつも珈琲があった

京都先斗町を友人のKクンと散策中だった。
ふと足下に小さな看板が、ボクを呼んだ。「どうぞお出でやす」

小さな路地。その奥に「小路」という名の喫茶店があった。
Kクンは日頃コーヒーを飲まない。仕方なさげに紅茶をオーダー。
ボクは無論コーヒーを。

誰も居なかった小さな店に、大勢の客がドヤドヤとやってきた。
「小路」の珈琲は、まがうことなく珈琲だった。
昨日の夜、KクンとYクン。三人で鮨カウンターに座っていた時に、
この話をふと思い出した。

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【 六甲アイランドにも美味いピザが(いつも珈琲があった28話) 】

2014-04-08 13:35:11 | 03 いつも珈琲があった

どうやらボクが文句を言い続けてきた、「六アイには美味い店が無い」
の主張は引っ込める必要がありそうだ。

今日のヒルに、いつもの鮨をやめて、わざと六アイの西側(通称ウエスト)
側に足を延ばして、ファッションマートの一階にある、イタリアンレストラン
まで行ってみた。

行って正解だった。「イル アルディスタ」という店のピザは石窯で焼いた
本格的なモノで、チーズもたっぷり。これじゃ三宮まで行きサルバトーレに
行く必要もない。

今日はヒルだから、大きめのピザだけにしたが、今度夜に行ってもっと
本科的なリストランテの味を確かめたい。

タイガースのマートンも来ているようで、カレのサイン色紙があった。

珈琲を最後にと思ったが、時間が迫っていて、今日のところは諦めた。
午後三時には、いつものように会社の珈琲タイムがある。

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【 神戸オリエンタルホテル(いつも珈琲があった27話) 】

2014-04-05 18:10:59 | 03 いつも珈琲があった

パパゲーナが今日まで東京に行って不在だから、
気象予報に反して、そうは寒くもないと判断し、まだ咲き残っている
サクラを眺めながら、元町まで出かけてオリエンタルホテルのカレー
を食べに行った。

最高級のテンダーロインステーキ用の牛肉を焼くところから調理が
始まる、ここのホテルのカレーライスは、お値段も相応のものだが
17階の窓べりの席から立ち並ぶ神戸の中心部を見下ろして味わう
一品は、さすがに往年の欧風の市街の一角だった面影も残っていて
行ってみて良かったと思えるところであった。

足は例の新進気鋭のタクシーで、わざと遠回りしてサクラを探しつつの
往復で、サクラも十分に楽しめた。

このホテルは、あの悪名高い中内功、Price killing is my life workと
ほざいた国賊が、経営した時期もあったが、その後新たな資本で再建され
食堂部門も17階に新装されて、さすがに欧風のホテルの雰囲気も充分。

ビールも飲み、珈琲も立派なものが供された。満足。

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【 リド島での誕生日(いつも珈琲があった26話) 】

2014-04-03 18:04:03 | 03 いつも珈琲があった

時は時空を遡って87年。80年に会社を興して七年が経っていた。
生活も安定し、夏休みにスイス航空に乗ってベニスでバカンスを。
そんな幸せな日々を送る余裕もできました。

6月1日がボクの誕生日。緑が少なく車も走れない。
石だけで出来たベニスも、そんなに騒ぐ程の所とは思えなかった。
で、乗り合いバスの水上版、つまりはボートでリドに渡ることに。

ベニス本島とは、全くの別天地がそこにはあった。
緑も豊富で自動車も走っている。道を歩いて行ったら、つる薔薇に壁
一面がおおわれた建物の前庭に多くの人々が、グラスを片手に談笑
している。
建物の中から出て来た少年と眼が合った。

「ここでディナーが摂れるかい」
「ええ、もちろんです、こちらへどうぞ」
案内されて、つる薔薇の繁る壁を背にした席に座る。
シェリーを飲みながら、夕暮れ時を過ごすうちに、
「お席が出来ました、中へお入りください」

暖炉が燃える室内には、民族衣装に身を包んだ少年・少女が。
鱸(すずき)をメインディッシュに、運ばれてきたすべてが美味しかった。
今この文章を書いていて、あの日あの時のディナーが、ボクの生涯で、
最も素敵なディナーだった。食後の珈琲もまさに絶品だったし。

当時のヨーロッパには、まだユーロは存在しない。
イタリアの通貨リラは、日本円よりも小さなもので、支払額が12万9千リラ。
素敵な建物の隣にカジノがあって、そこで14万リラを稼いだから結局はタダに。

後になって、素敵な誕生日ディナーを摂ったのが、リドで最も著名なホテル・
レストランの「クワントロ・フォンターナ」だったと知りました。



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【 ゼーフェルト・イン・チロルは真夏の山に雪が降る(いつも珈琲があった25話)】

2014-04-03 09:03:08 | 03 いつも珈琲があった
今回は93年に訪れたコーストリアの田舎を巡った話を書く。

ボクはチロルの山の中に在る、オーストリーで最も美しい村コンクール
の優勝常連のアルプバッハで、なんとボク自身が摂られた写真が、
村の土産物屋、それも何軒かあったが、の店頭に絵ハガキとして売られて
いたモノを見つけたという、ちょっと信じられない体験を持っている。

その村に行くのは二度目だった。
一度目は87年で、実はそのアルプバッハの教会で、パパゲーナと結婚式
を二人だけで行ったが、その時に雇った村の写真屋が、ボツにしたモノの
中から、ボクだけが花馬車に揺られて教会に向かう写真を利用したと後で
知った。

あの時、珍しく花馬車を仕立てたカップルを、各国からやってきた観光客に
カメラやハンディカムに納められたが、意外な場所でボク等の映像が観賞
されている可能性がある。

今回のお話の舞台はここではなく、冬季オリンピックで二度もスキージャンプ
の設置場所になった、ゼーフェルトでのこと。
どちらかと言うと、冬のリゾートだから、夏期は空いていて、最も高いホテル
ではスイートを通常料金であてがってくれた。

インズブルックで借りたレンタカーで行ったのだが、着いたその日は雨こそ
振りはしたが、寒くはなかった。それが一変して気温が8度に下がり、夏支度
のボク等は震えた。広すぎるスイートが仇になった。
翌日窓の外を眺めたら、一望する山々がすべて雪で真白な世界に変貌して
いた。ヨーロパでは往々にして、こんな季節外れの冬がやってくる。

パパゲーナとまだ幼なかったアイン・クライン・パパゲーノは、ホテルの眼の前
にある高級品ヌティックで、北欧製のウールのコートを緊急購入したが、ボクは
耐えることにした。

そのブティックの並びにあったレストランに入り、熱い珈琲を注文したら、気の良さ
そうな店の大将と、女将さんが笑顔で応じてくれた。
寒いホテルの部屋に居るよりはと、もっぱらその店で食事も摂り、後は珈琲を愉し
んで8度の外界から身を護っていた。


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【 ボクの会社では美味い珈琲が(いつも珈琲があった24話)】

2014-03-28 18:20:19 | 03 いつも珈琲があった

土日祝日は会社が一流企業並みに休みになりますが、
月から金までの平日には、午後3時半頃になると、ボクの執務机が
置いてある辺りまで、ブ~ンと良い香りが漂ってきて、珈琲タイムだと
知らせてくれます。

珈琲豆は吟味に吟味を重ねて選び抜いたものしか使わない。
だから神戸で一番美味い珈琲は間違いなく、我が社の珈琲だと、自信
を持って言うことが出来ます。

隣に在るベイシェラトンホテルのレストランが出す、コーヒーなんて眼じゃ
ない。だからホテルの会員であるボクには、レストランの従業員も誰もが
ボクがコーヒーを注文する訳が無いと心得ていて、到底カネが取られる
資格がない、不味い色つき湯を勧めはしません。

ボクは透析が無い火曜と木曜には、朝から会社に来るが、その二日は
男子社員が朝の珈琲を淹れる事に成っています。
それを「ボーズ・サービスデイと呼んでいる。
この習慣は、ボクが大阪市の「川向う」と呼ばれていた、西中島に小さな
オフイスを構えた時からのことで、当時はボクが一人で淹れて一人で飲む
ものでした。

ボクは今でも新入社員が入ってくると、先ず珈琲の淹れ方から指導する。
濾紙に入れたコーヒーの豆、もちろん挽いて粉状になっているが、その
全体が美味い珈琲作りに参加するのだと、説きながら淹れて見せる。
しっかりと熱湯になじませたコーヒー粉に、いいか、全員参加で珈琲を
作るのだぞと囁きながら。

ボクに言わせると、パナソニック等が作って売っている、コーヒーメーカー
なんて代物には、全員参加の気持ちすらない。美味いコーヒーがあれで
得られる訳が無い。


今も午後の珈琲タイムを愉しんでから、このブログを書いている訳です。
六甲アイランドまでお越しになれば、ボクが得意の技でお淹れしましょう。

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【 青空の下で聴いた田園交響楽(いつも珈琲があった23話)】

2014-03-27 14:24:36 | 03 いつも珈琲があった

ウイーンでも最高の地とされる19区。
その中でも、おそらく最高だろうと思える場所に移り住んだ直後、
珍しく出張も来客も無い日曜日があった。

新しい住居の近くに何があるのかと探訪の散歩に出かけました。
「あれっ?」 何か複数の楽器の音が、歩む道の下の方から風に
乗って聞こえてくる。

何だろうと訝りながら歩みを速めて行ったら、そこもベートーベン
に所縁のあるホイリゲの前の、広場とは言いにくい空き地に大勢の
地元民が集まっているのが見えた。

民族衣装で揃えた人々が、銘々得意とする楽器を携えて練習中。
ロープで仕切っただけの客席に椅子が並べられ、多くはその外で
演奏の始まるのを待っていた。

ボクは勧められて、ロープ内の椅子に座ったが、椅子席の料金は
チップ程度の僅かなものだった。
その場所は最初に住んだヌスドルフにも程近い見覚えがある所。

始まった民族衣装のオーケストラは、予想を超えて本格的なもの。
曲目は期待した通りの「田園」でした。
ボクのウイーン駐在の間は、92回もの東欧出張と来客接待に終始
して、ゆっくり森と音楽の都を楽しんだのは、自分が起こした会社が
軌道に乗ってからのこと。

だから駐在中は、大手企業の社長さんとか専務クラスの方がオペラ
をとお望みになる以外には、音楽を楽しむだけのゆとりも無かった。

あの晴れた日曜日に、思いがけなく出会った「田園」は、後に本格的
なホールで何度も聴いたものと比べても、それは素晴らしい交響曲
でした。

「田園」のすぐ傍で「田園」を聴くとは望外の喜びだった。
多忙なだけで、腹立たしい事も多かった、もし人生のやり直しがあった
としても、二度と行きたいとは思わない、東欧支配人の激務の中で、
あの一日は忘れられぬ一日でありました。

終わって中に入ったホイリゲで、まだワインには早すぎる時間帯だから
注文したコーヒーが、これまた期待した以上の上物の珈琲だった。
折からこの町ハイリゲンシュタットの教会の鐘が鳴り響いた。この鐘を
楽聖ベートーベンも聴いていたんだとの感慨がありました。


021


【 ウイーンの「作家通り」の家(いつも珈琲があった22話)】

2014-03-26 19:08:38 | 03 いつも珈琲があった
ボクがウイーンで最初に住んだ家については「くるみ村」の
項ですでに書いた。

二回目に住んだ家は、物語になるような偶然から住むことになった。

ボクが赴任してから、東欧各国の外国貿易省へのコンタクトを部下に
説き、自らもハンガリーを直接担当して、関係貿易公団との折衝機会
も増えて、それまで気配も無かった、大口プラントの商談が次々と
始まって来ていた。

関係する機械メーカーの技術者が、東欧の各事務所に、多い時は
20名ぐらいも、長期滞在するようになり、いくら広いと言ったところで、
ワンルームマンションでは接待に困る事態が起きていた。

「くるみ村」ことヌスドルフの更にウイーンの森に入った所をグリンチン
と言った。ええ、新酒を飲ませるブドウ農家がホイリゲを開いている
場所です。

市電の「38番」で、30分足らずで市内中心部から行くことが出来る。
その市電の終点がある場所から。正面の右手に階段が有ることには
気が付いていた。
ある日その階段を上ってみた。下の喧騒がウソのような、静かな邸宅が
立ち並ぶ通りがそこに有った。
通りの名前を書いた標識があり、シュライバーシュトラッセと書いてある。

ドイツ語でシュライベンとは「書く」という意味で、シュライバーは「書く人」
すなわち作家を意味します。

その通りの北側に、森により近くなるところに、ウンターシュライバー通りが。
ウンターは「裏手」の意味。そにまま歩いて行けばレオポルドベルグにも
行けそうな地点に、まだウイーンの市街があったのです。

良いところがあるなと思いつつ歩いていた。
と、一軒の棟割り長屋というには、余りにも立派な建物ですが、そこに夫婦
が人待ち顔で立っていた。眼が合ったから目礼した。

「貴方ですか。ここを借りたい方は」
えっと思いました。ボクは本当は、この付近に住みたいものと思っていた。
後で知ったが、この夫婦は共に有名人で、ご主人はスポーツドクターとして
またボクシングのWBCの会長として、きわめて有名。
奥さんの方はテレビ局の人気のアナウンサーでした。

家の中に招き入れられて、その内装の見事さにウットリしていた。
「ここをお貸しになるんですか」
「ええ、だから新聞に広告を出した。それで誰か来ないかと外へ出て待っていた」

家賃も意外と高くはなかった。その場で仮契約をしました。
有名女子アナの奥さんが珈琲を入れて下さった。それは香り高い珈琲だった。


016


【 日本一の吉田監督と昔話をした(いつも珈琲があった21話)】

2014-03-25 18:28:37 | 03 いつも珈琲があった
これもシンフォニーホールに、何かの曲を聴きに行った時の帰りに
たまたま立ち寄った喫茶店でのお話。

近くに朝日系列の関西版、朝日放送が在ったから、タイガースに絡んだ
用件があったのだろう。
1985年に西武ライオンズを倒して日本シリーズを制した吉田義男さん
の声が聞こえたから、振り向いたらまさに吉田さんだった。

吉田さんは立命館大学を一年で中退してタイガースに入団した名選手。
年齢は先方が一歳上だが、似たような世代だ。
聞くともなく聞こえてくるのが、吉田さんの「キミはそんな事も知らんのか」。

朝日放送も、えらい若い人を付けたもんだと思いながら、席を立って後方の
席に移動。吉田さんが怪訝な顔で「?」。
無理もない。ボクは現役の名ショート時代から吉田さんを知っているが、先方
が一介のフアンをご存じの筈もない。

「いえ、ただのフアンです。若い記者さんとお話が合わんようで、良ければお相手
をと思って」と挨拶したら、吉田さんがニッコリされた。
で、やりましたよ。昔の全盛期の吉田選手の想いで話のお相手を。

吉田選手が、若い間に結婚して住んだ甲東園の話や、阪急と阪神が連絡する
今津線での甲子園通いの話から。当時のボクは西宮北口の寮で生活していて、
日曜日には良く甲子園のタイガース戦を見に行っていた。

当時のタイガースの選手たち。吉田さんが感心される程に、ボクはよく記憶して
いた。
「ああ、西村一孔は、たしか若くして死にました」。昔の新人王だった。
「三宅クンねえ。カレは気の毒しましたな。ええ今も元気ですよ」。
長嶋なんて及びもつかない、ホンモノの名サードだった。
東映フライヤーズとの日本シリーズの第一戦。その試合前の練習中に、味方の
小山が投げた球が眼に当たって、出場が出来なくなった悲劇のヒーローです。

「実は私のオフイスに、吉田さんから頂いた色紙が有るんです」。
「?}
「いえ、ご存じないでしょう。実は三井銀行から貰いました」。
吉田さんは「徹」という字がお好きなようで、色紙にも「徹」の一字があった。
ちゃんと、ボクの名前と肩書が添えられていた。今もボクのオフイスに有ります。

長話もなんだからと失礼して、席に戻ったら「花の咲かないその時は、せっせせっせ
と根を伸ばす 高橋尚子」の色紙が眼に入りました。

このときのコーヒーの味は、う~んと忘れたなぁ~。

010

【 朝比奈隆さんと眼が合った(いつも珈琲があった20話)】

2014-03-25 16:44:03 | 03 いつも珈琲があった
 1986年から4年余りを大阪市の今は北区に編入されたが、当時は大淀区に
住んだ事がある。シンフォニーホールに程近い、歩いて5分ぐらいのマンション
で賃貸だった。

この4年間に、殆ど毎週の土曜か日曜、場合によって両日ともに目的の場所、
シンフォニーホールに通い続けていた。

大阪フイルの常任指揮者、朝比奈隆さんがタクトを振る場面を、最前列で観て
いたある日、朝比奈さんが曲目を終えて、いったん引揚げる際に、朝比奈さんと
眼が合って、ボクは思わず目礼を。それに応えるように朝比奈さんも目礼を返
された。全くの偶然だったが、ボクの周辺の席に着いていた人々がドヨめいた。
「この人は何者なんだろう」と、思ったらしかった。

ここではカラヤンの指揮も観た。その時は二階のベランダ席で、舞台の上に差し
掛かった部分。これが今生の最後に成る指揮と、本人も想い観衆もまた思っていた
「天覧会の絵」と「ボレロ」の二曲を演奏を終えて、もう自らの力では歩けないのに、
誰かの肩につかまって、何度も何度もアンコールに応えるカラヤンを眼にしてボク
の眼は潤んでいた。花束を持って舞台に駆け寄せる人々もみんなが泣いていた。

名匠カラヤンは、それを最後の日本公演として生家のあるザルツブルグに帰り、
そこでこの世に別れを告げて、天なる神の御元に旅立って行った。
説明の言葉が見つからない、感動があった。

オーストリー出身のカラヤンは、戦後暫くはナチスの協力者として、愛する故郷に
帰れない日々が続いたという。
カラヤンの生家は、ザッヒャー川に面し、ボクが愛用していた「オーストリーの館」を
意味するホテルとは、川畔に出る小道を挟んだ隣にあった。

そのホテルも今はウイーンに本拠を持つ、ホテルザッヒャーに買収されてホエルの
名前もザッヒャーに変わった。
あのチョコレートケーキで有名な、ザッヒャーである。

ここで朝食時に飲んだ珈琲は、まさに珈琲の名に値する格別の珈琲であった。


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【 最近はテレビで世界の各地や日本の秘湯にも行ける(いつも珈琲があった19話) 】

2014-03-20 13:34:33 | 03 いつも珈琲があった

池上彰の番組が人気を呼んでいる。

アラブ首長国連邦という石油に恵まれて、大発展を遂げている
日本人には羨ましい国がある。

ドバイの海岸に、第二のホノルルが出来たり、世界一を競う高層の
建物が建ったりし出してからかなり経つ。

面積的に大きいのはアブダビで、ボクが書いた小説「炎の商社マン」
に出てくる、アブダビの人、アりさんは実在の人物で、あの大発展に
少なからず関与した人でもある。
ルーブルの別館をアブダビに誘致する(した)話には驚いた。
いくら金満国家とはいえ、24金をふんだんに使った天井なんて、まるで
豊臣秀吉の傲慢さを連想してしまう。

建物の横の長さが1キロメーターに及ぶ広大なホテルも、従業員が大変
だろう。番組の中で池上がコーヒーを飲む場面があった。
カプチーノの表面に、ハートが描かれ、金粉を乗せたコーヒーは、一杯が
幾らになるんだろう。

先述の「炎の商社マン」は、ボクがトーメンで、やりたかった事を本に託し
たもので、たまたまギネスの認定は受けたが、その翌年に「本屋大賞」を
得たことの方が嬉しかった。

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