これぞ日本一と思われる、実に美味な枇杷を食べたところ
である。この枇杷は淡路島の北部、野島という地の「轟びわ」
である。野島は12年前の阪神・淡路大震災の元となった、
活断層「野島断層」の地である。辺りは昔ながらの木造建築
で、これも淡路の産物である瓦で屋根を葺いていたから、震
源地・野島は大被害を受けたはずであり、枇杷の木にも大きな
影響があったと推察できる。果樹園を育てる人々によって、
みごとに蘇った枇杷を頂いたということになる。
選りすぐりの大粒を2箱も贈ってくれたのは、中学・高校を
共にした旧友のK君である。彼の憎いところは、この枇杷の
発送を手配してから、自らは奥さんと共に欧州旅行に旅立って
しまったことで、今もなお旅の途中にある。
ボクは大連に生まれ、日本の敗戦によって旧満州国から引揚げ、
父の出身地である淡路島南部に辿り着いた。阿万という町の
国民学校に、6年生2学期からの編入であった。そのクラス
にもK君はいた。だから厳密に言えば6年半、淡路島南部で
過ごしたことになる。
満州には枇杷の木は無かった。枇杷だけじゃなく、笹が無い
から少年倶楽部で読む笹船がわからず、七夕に使うのも柳の
枝であった。麦も無かったから内地で皆が食べていると聞か
された麦飯がどんなものか知らなかった。引揚げ後嫌という
ほど麦飯を食うことになる。
ボクが始めて枇杷という甘美な果実を知ったのは、昭和22
年になってからである。それも川べりの野生のものだから、
実も小さく痩せていた。種のまわりに僅かな果肉がついて
いた。それでも枇杷特有の芳香はボクを魅了した。
淡路島には野島と並んで灘という枇杷の名産地がある。野生
の水仙が咲き乱れることで有名な灘村で阿万と隣接している。
隣村ではあるが、切り立った崖の道があるだけで、そう簡単
に行けるところではなかったから、噂に聞く灘の枇杷を口に
した覚えはない。
口に出来なかったものは、何も枇杷だけじゃなく、引揚げた
家の周りはすべて水田であったのに、米が手に入らなかった。
鯛をはじめとする魚類も高級魚の一切を知らずに、極貧の引揚
者生活を送った。
あれからもう60年にもなる。おかげで宮崎の「太陽の卵」
とのブランドで著名となったマンゴーまで、口に出来る身分
にはなれたが、K君の心尽くしの「轟びわ」ほど素敵な果実
に匹敵できるものはない。旧友ほど有難い存在はない。
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