作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 映画「マイ・フェアレディー」 】

2014-04-14 15:01:04 | 身辺雑記

いまは亡きオードリー・ヘップバーンがロンドンの下町
イーストエンドで、なまりのキツイ言葉をしゃべっているのを、
言語学者ヒギンス博士が見つけ、上流界で通用する貴婦人に
仕立て上げる物語。

あの映画の中に、ボクが大好きなセリフがある。ヒギンス博士が
言う言葉だ。
「アメリカに住んでいる連中が使っている言葉。あんな言葉を覚えちゃ
イケナイ」。
会話の中に頻繁に「ユーシー」または「ユーノウ」を入れるし。
明らかになまりが入る。
あれは米語であって、決して英語じゃない。

ある時ロンドンのホテルで、バーテンダーで試してみた。
「スカッチ・エンド・ワーラー」。
誇り高きバーテンダーは、ボクの汚い言葉を嗜め、次のように言った。

スカッチなんてものは無い。ちゃんとウイスキーって言葉が有る。
それにワーラーなんて言葉も無い。水ならウォーターだ。

以来ボクは、絶対にワーラーとは言わないことにした。
各地を旅したから、列車にもずいぶん乗ったが、なまりのキツイ連中には
遠慮なく言ってのける。
「キミの言葉がボクには聞き取れない」。
相手は顔を赤らめ、懸命に中学生時代に習った言葉を思い出し、だとだどしく
しゃべり始める。世の中、そんなもんだ。

「アイ・ゴートウー・ア・ホスピタル・トウーダイ」なんて豪州なまりも、恥じ入って
くれる。主導権を取った後の会話は楽になる。

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【 昨日ははしゃぎ過ぎた 】

2014-04-11 14:28:33 | 身辺雑記

ヒルの同期会で、いつもは食べないビーフを全部食べ、
ビールに白ワインも勧められるままに飲み、
更に二名の友人を、六アイの中にあるホテルに泊めて
ヨルは例の芝英人さんの鮨を食べに。

およそ二年ぶりの、オールドパーの水割りが余分だった。
透析の患者の体重は正直に出る。
始まって僅か一時間で、身体が変調を訴えてきた。
やはり2キロは、取り過ぎだと文句を言ったのだ。

そこで、すかさず手当てを受けたから、最後まで無事に透析
を完了できた。明日からの土日はおとなしくしておこう。

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【 三原高校同期会 】

2014-04-10 16:59:25 | 身辺雑記

敗戦後の日本は、マッカーサーの言いなりになって、
吉田茂は抵抗の色も見せず、学校制度までアメリカの言うが儘
新たにした。
淡路島の南部を三原郡と呼ぶが、そこに田舎の花嫁学校がひとつ
有ったのをベースに、新設の高校が出来た。

そこに50年四月に集められた同期生は、とりわけ仲が良いと評判
である。全体の同窓会は、さすがに開催されなくなって久しいが、
京阪神に出てきた仲間が、年に二回の昼食会を、住吉川の東岸辺
にある、レストラン「モーヴ」を会場に、集まっては昼食を摂る会が
例会となって、十年ほどにもなる。

今日がその日にあたり、毎回四時間は掛かる賑やかな会を終えて
いま会社に戻ってきた。

去年の十月の予定日が天候が思わしくなく、中止になったから、
今日が一年ぶりであったが、年内にも八十歳の大台に乗ろうとする
連中が、逢えば15歳の少年少女に舞い戻り、これはボクの想像が
入るが、元カレも元カノも居なかった者同士が、年を忘れての騒ぎに
なるから、何時になっても高校同期会は楽しい。

この会を何時まで続けるかの問いが出たが、直ちにオリンピックまで
との返事が。どうやら、みんな八十六までは生きている積りのようだ。

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【 昭和20年8月10日 】

2012-08-10 10:42:28 | 身辺雑記

ソ連軍の参戦で、日本の敗戦が濃厚になった年の
8月10日に何をしていたかを、思いだして書いている。

ソ連軍の南下と共に、前線から新京に帰ってきた父は、
9日の殆どを、ボク等兄弟を逃がす方法を求めていた様で、
夜遅く帰ってくるや、明日の午前中に出る北朝鮮行きの
特別列車の座席を確保してきたと言い、ボクに持てる
サイズのトランクやボストンバッグを引っ張り出して、
弟の衣類などを詰め込みはじめた。

ボクは11歳の頭で、オール満州で、新京こそが最も安全な場所
だと信じていたから、父の狂気から来た行為を、冷ややかに見ていた。

10日の朝は早くから起され、ボクが何の荷造りもしていない事に
怒り狂い、殴ったり蹴ったりしながら、ボクに荷造りを強制した。

様子を見にきた、隣近所の人々も、口々に北朝鮮行きが無謀だと
父を説得にかかったが、父はそれらの人々の話に耳を傾ける事なく
ボクを怒鳴りながら、重たい荷物を用意させた。

新京駅に着くと、父が手配した北朝鮮行きの列車が停まっていて、
中には顔ぐらいは見知った人たちも居た。成年男子の姿は無く、
全員が女子どもの群れであった。

当時小5のボクには、小2まで居た奉天の記憶があり、その段階で
すでに奉天で降りる決心をしていた。

幸いにも列車は奉天から向きを変えて、北朝鮮の南浦に向う予定で
あった。列車は途中の四平街とか、他にも名前を知っていた駅に停まり、
満席の列車内は暑く、弟は盛んに水を欲しがった。

四平街の駅の水飲み場は大混雑しており、兵隊姿の人に「こっちにも」
と言われて、そこで桶から汲んだ水筒の水には、後で分かったことだったが、
何とボウフラが湧いていた。
弟にも飲ませ、ボクも飲んだ水は、ボウフラが湧いた水だったのである。

弟が奉天到着前から、高熱でぐったりしたのは、ボクがそれと知らずに
飲ませたボウフラが湧いていた水を飲ませたのが原因であったかもとの
思いは、今でもボクを責める。

数少ない列車内の、女子社員たちは、北朝鮮でソ連兵以上の暴虐行為に
出た朝鮮人によって、如何なる目に遭ったのか。
その北朝鮮が、今頃になって、日本人の遺骨を返還すると言う。

ボクが奉天駅で下りる時に、大勢の大人たちが口々に非難したが、
あの人たちの、北朝鮮での運命は如何なるものであったのか。

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