後醍醐は自己中心の身勝手な天皇と
戦後教育で知った。
阿野廉子という妾の存在が気に入らぬ。
自分が腹をいためた後村上が即位するため
になるならば、足利尊氏とも手を結ぶ。
護良親王を鎌倉に送り足利直義に殺させた。
北条幕府を倒すのに功があった武士どもを
さておいて、女房ども、公卿ども、それに
坊主どもに恩賞を手厚く呉れてやった。
そのために最も割を食った赤松則村が
不平のあまりに足利尊氏と手を結ぶ。
この段階で、楠木や新田の苦労が報われなく
なり、天下は再び戦乱の世となるのである。
赤松氏こそは、六波羅を攻め滅ぼした
大の功労者であったのに。
功に報いる術が間違っていた建武中興が
長続きをするはずもなく、鎌倉を落とした新田氏
も報われること少ないまま、一族すべてが二度と
故郷の土を踏むことなく、虚しく他郷の土になった。
後醍醐は悪王であった。
楠木、名和、菊池、結城など、宮方の武士たちの
苦労はあまりにも残酷に踏みにじられた。嗚呼。
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