マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

研究世界の支配者   まずは「D」の始まりとは

2012年07月01日 07時25分22秒 | 世界の支配者の研究
もうずいぶん長いこと30年戦争を調べている。それは単なるカトリックとプロテスタント間での宗教戦争ではない。建前ではそうなるかもしれないが、そうでないことはフランスのようなカトリック教国がプロテスタント側で参戦したり、プロテスタントのはずの英国がカトリック側で参戦することもあったのだから、単に勢力争い、つまり金儲けの戦いだったのである。
この記録的な世界大戦の結果はウエストファリアー条約を見ればわかる。つまり、神聖ローマ帝国の皇帝が単なるオーストリアの王に落ちぶれ、なによりもスイスが永世中立国になり、誰にも手出しできなくなったこと、そしてヘッセン・カッセル方伯家と後のイタリア王家になるサヴォイア家などが法外な権力を手にしたことなどである。

私はこの二カ月、30年戦争自体よりも、その周辺、つまりヴェルフ家、タクシス家、サヴォイ家、ヘッセン家、ウインザー家、メディチ家、ハプスブルグ家などを調べ回った。ただし、恐ろしく困難な作業で、似たような名前、聞いたこともない地名、そして何よりも13世紀から19世紀までという膨大な時間を短時間でわかろうという無謀な試みだったのだ。
せっかくの研究だから何回にも分けて発表したいのは山々なのだが、あいにく興味のない人には退屈この上ないことだろうし、正直未だに整理ができていないのである。
30年戦争は1618年に始まり、1648年、ヴェストファーレン条約が締結されたことですべてが終わった。

まず状況として神聖ローマ帝国に隣接する諸国もまた、三十年戦争の勃発に関与していた。
スペインは帝国の西部国境にスペイン領ネーデルラントを領しており、イタリア内の諸邦はスペイン回廊を通じてつながっていることから、ドイツ諸邦に関心を持っていた。
1560年代にはネーデルラント人による反乱が頻発しており、これが1609年の和平協定まで続く八十年戦争となる。フランスはスペインと神聖ローマ帝国の2つのハプスブルク家に囲まれており、また弱小ドイツ諸邦に影響力を及ぼすことを望んでいた。
この王家の関心は宗教のそれを上回り、結果としてカトリックのフランスがプロテスタント側で参戦することになる。

まずルターの宗教改革がどうして起きたのかの原因だが、フィレンツェにおいてメディチ家が実権を握り、コジモは息子をローマ教皇ニコラウス5世(1447~1455)として昇進させる。これでローマ教会の金融を独占する。コジモは教皇とともにキリスト教の中心であるべきローマ市のヴァチカンの壮大な改装を計画する。いわゆるルネッサンス時代なのでありフィレンツェは空前の発展を遂げる。
しかし、サヴァナローラの登場で、フィレンツェの栄華は終わり、ローマ教会がルネッサンスを引き継ぎ、サンピエトロ大聖堂の造営を計画する。
これが30年戦争の原因となるというのはやや暴論のような気もするが、実際この造営のため販売されることになる「聖堂免罪符」が宗教改革のきっかけになるのだ。
フッガー家はやはりベネティアの黒い貴族の一員で、政治との関係も深く、神聖ローマ皇帝、スペイン国王、ローマ教皇などの御用銀行として資金を融通した。宗教改革のきっかけとなった1517年の贖宥状(免罪符)販売は、ブランデンブルク公がフッガー家への借金を返還するためでもあった。また、1519年の皇帝選挙では、ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世に選挙資金を貸し付けた。
さて、ローマー教会の大造営はヨーロッパ中の自衛職人をローマ教会の下に編成する意味を持ち、神聖ローマ帝国の諸公国、ヴィッテンベルクの領主エルンスト=ザクセン大公国の選帝「賢明」大公フリードリッヒ三世(1463~1525)、プファルツ宮廷選帝伯ルードヴィッヒ五世(1478~即位08~44)、ヘッセン方伯フィリップ(c1495~即位1509~67)、さらには、「免罪符」のドイツでの販売元だったブランデンブルク選帝伯兼マインツ選帝大司教アルプレヒトらは、北方開拓を行った第三の十字軍修道会「ドイツ騎士団」の末裔であり、ローマ教会による自営職人の組織化は、彼らに対する武装解除命令にほかならなかった。
つまり、神聖ローマ帝国の皇帝よりも「皇帝を選ぶ選帝侯たち」の方が力があり、ハプスブルグ家は単に彼らが担ぐ神輿にすぎないことを見せつける時期が来たのである。
ここでベネチアの黒い貴族、ヴェルフ家を調べなくてはならないが、大変なのでまたの機会に・・・。
結論から言って、いわゆる教皇派と言われるヴァルフ中心に世の中が回り出すのがこの30年戦争なのであり、長い戦争による結末がヴェストファーレン条約だったのである。

ここに現在の世界の支配者の一員である「D」とその支流となる「E」、さらにはその支流である「B」のチェスゲームが始まるのである。(ただし、私はまだ勉強中で、Dの背中が少し見えてきた段階である。)

戦争の中身に興味がある人はwikiを見ていただくとして、条約を見れば誰が勝利したのかがはっきりする。ここ(http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/docs/westph.htm#W50)を見ればわかるように、ヘッセル・カッセル家、サビイア家、スイスの独り勝ちである。

つまり、戦争に必要な戦費を貸し出したスイス貴族、そして傭兵を貸し出したヘッセン、サヴォイアが大儲けしたのである。負けたハプスブルグ家は借金返済のかたに領地の半分を失った。タクシス家という郵便屋はこの戦争で情報を売り、やはり大もうけをしたようである。
ちなみにロートシル(ロスチャイルド)がヘッセン家に接近し、彼の資産運用を任されるのはもう少しあとである。そして一時的な資金難に陥っていたタクシス家に大量の資金を貸し付けたのはヘッセン家の代理人ロスチャイルドである。
結局、陰謀書に書かれるロスチャイルドの陰謀の大半はヘッセン家と読み替えて理解するべきで、彼らは表から裏へ移動し、ロスチャがすべて泥をかぶることになる。
「ラスペに代わり、フランクフルトのユダヤ人商人マイヤーアムシェル=ロートシルト(ロスチャイルド、1744~1812、三一歳)がフリードリッヒ方伯に近づいてきました。彼もまたたいへん古銭に詳しく、方伯家のコレクションにおおいに貢献しました。とはいえ、フリードリッヒ方伯を支える多くの銀行家の中では、彼はまだ、その末席に加わったという程度にすぎません。」(http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/history/premodern/premodern07.html)

「この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与え、その後のフランス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定することになった(ヴェストファーレン体制)。1648年に締結された史上初の多国間条約であるヴェストファーレン条約(ウェストフェリア条約)によって戦争に最終的な決着がつけられ、この結果、およそ300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定することになった。神聖ローマ帝国は、この後も1806年にナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)によって滅ぼされるまでの間存続しつづけたが、実体のない名ばかりの国家として亡霊のごとく生き続けることとなる。オーストリア・ハプスブルク家は帝位は保つが、実態としてはドイツ王ではなくオーストリア大公、後にオーストリア皇帝として18世紀、19世紀を生き延びることとなった。」(wikiより)

この時に現在も存在する「秘密の王族会議320人」が作られ、キリスト教圏内の領土、税金徴収権などがその会議で決められるようになったのだとか・・・・。
さて、この戦争の首謀者達は世界制覇に向けて新大陸、アメリカでの利権とブルボン王朝の破壊を考えだすのである。
さて、こんなので30年戦争をわかっていただけただろうか。