マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

どうせならでっかい妄想を語りましょう。

2011年02月13日 09時53分03秒 | 古代史
やばいですね、飯山大先生がこんなちっぽけなブログを相手にされては・・・。
大先生に逆らうつもりなど毛頭ございませんが、私といくつかの点で見解が違うようです。と言っても大きな点、つまり山形史観が根底にある点では全く同じで、単に枝葉の一部が異なるだけです。
ただし、日本という国が成立するに至る経過には相当考えに開きがあることでしょう。残念ながら私の持論である「淵蓋蘇文が唐を乗っ取り、唐も高句麗も支配したという史観」はいまだ未完であり、卑弥呼と天皇家の関係を十分に説明することはできないのでとりあえず、大先生の今後の記事を待つしかない。

私の妄想はあまりにも大きく、どこの歴史書にも誰のブログにも載っていないため、いまだに何の成果も出ていないのだ。ただし、唐に、そして新羅に、そして日本にやけに女帝が多いことで説明できないものかと長い間悩んできたのだが・・・。
則天武后の即位した時期、唐は周という国名になった。しかし、現実には淵の傀儡で、同時に高句麗も滅び、淵の長男に簒奪されていた・・・もちろん妄想ですが。
そして当時倭だった韓半島の王家は九州へ逃げ込み、日本の地を征服した。これが天智天皇であり、日本を支配していた天皇家は女帝に種を託し、存続を図った。
しかし淵は追及の手を緩めることなく天武として追いかけて日本に入り、ついには天智天皇を倒し、その種の元、つまり額田王をめとり日本も手に入れる。では、淵とはだれだったか?これは突厥であろう。高句麗王を殺し、王を交代させた淵は絶対に高句麗人ではありえない。彼は高句麗を傀儡とし、唐をも簒奪した。しかし、彼が死んだことですべては元の黙阿弥となる。
私の解釈では藤原家とは鮮卑である。藤原家とは天皇家の婚礼家系として鮮卑が開発したお種保存センターで、大株主は鮮卑拓跋族で、言うまでもなく彼らの姓は元である。いやいや・・・源氏である。
私はこの時代、つまり大化の改新があったといわれる645年から周が唐に戻るまでの約50年、三国の史書に真実はないのではないかと考えている。
しかし、淵が死に政権の主が戻るべきところに戻ったのだろう。それは日本で言うなら聖武天皇であろう。平城京遷都千三百年を昨年祝ったが、その深い意味を知る者はどれぐらい居るのだろうか。

これらの妄想は鹿島昇氏の桓檀古記に645年、淵が李世民を唐の都まで追いつめ城下の礼をとらせたとあるところから考えたのであり、その「古記」が偽書と言われればそれまでである。
歴史とはそんなものである。ジンギスカーンが義経であると私は信じるが、現在の日本、中国、モンゴルの政府でそのような説を誰も喜ばないのであり、笑い話にしかしてもらえない。同じように唐が淵に征服されたなど、だれも喜ばないだろう。しかし、歴史とは支配者の都合で書かれては困るのである。だから私は妄想を語るしかないのだ。