子供が生きる教育
普通の人が脚光を浴びる場…
それが見つけられずに、というかその機会に恵まれずに、犯罪に走る…そりゃあ脚光を浴びますよ、負の脚光ですが。秋葉原の通り魔など典型的です。
東京都江東区のバラバラ殺人事件、「犯行は冷酷だが、残虐極まりないとはいえない(裁判長)」と、無期懲役判決。なんでも、「死刑は、殺した人の人数。一人殺したぐらいなら死刑にはならない」のだそう。こりゃダメダ。終身刑にしなければなりません。
「正の脚光を浴びる機会がある」このことが、人の成長発達に大きな働きをしています。
様々な分野でいい仕事をしている人…「図画工作の時間に描いたポスターをほめられて…」「小学生の時、大会で優勝して…」「作文をほめられて…」
皆さんほぼ一様に、「脚光を浴びた経験」が、職業になったり、生涯の趣味になったり…です。
勉強ができる…これは脚光を浴びています。
陸上競技で、断然トップになる種目がある…脚光浴びてます。
運動部の活動でスタープレイヤー…浴びてます。
さて、勉強も運動もダメ。絵画コンクールも、感想文もダメ。ピアノ?ダメダメ。そのような子に相対するとき、「何をやってもだめな子だなあ」で済ましてしまうと、憤懣、欲求不満の矛先はどこへ向かいますか?弱者へ向かってしまいます。
親と教育関係者は、「脚光を浴びる経験をさせる」…このことに腐心しなければならないと思います。
知的と情緒に障害を持つ子が、「町内特殊学級(現特別支援学級)の釣り大会」へ行った。とにかく落ち着いていられないので、釣り竿をめちゃくちゃに振り回した。餌が空中にある時間が長いのも、関係なし。ところが、40cmもあるウミタナゴが釣れた。ウミタナゴは、「餌盗り名人」の異名があるほど、素早く餌を盗る。普通の人が、ウミタナゴを釣り上げることは無理。(ウミタナゴを捕りたい場合、潜ってヤスで突く)どうしてその子にウミタナゴが釣れたか?お気づきの通り、ウミタナゴが餌を盗って逃げるよりも速く、餌を動かしていたからです。それ以来彼は完全に「漁」に目覚め、人柄まで変わってしまった。17歳になった今、漁師さんの手伝いをしています。釣り大会で脚光を浴びた経験がなければ、今日の彼はなかった。
ガーナ(西アフリカ)の子供達・・・貧富の格差が大きく、小学校を卒業できる児童は4割前後。彼らは、短い人生で「脚光」を浴びる経験が一度でもあるだろうか?それがあった。
国際協力機構(JICA)職員の友成晋也さんは、野球部(慶大)出身。そのキャリアを買われ、ガーナの野球ナショナルチームの初代監督に就任。1999年にシドニー五輪アフリカ予選で大健闘の4位に。少年野球も普及し始めた。ガーナ勤務を終え帰国間際だった友成さんは、子供達に野球の何が楽しいかを尋ねた。異口同音、「バッターボックス」と答えたという。この答えを聞き、帰国予定を変更し、「野球でアフリカの子どもたちに夢を」と、決めたという。昨今、まれに聞くいい話です。
「バッターボックス」は、「脚光を浴びる場」ということです。味方の期待を集める場、相手も注目する場。野球場の全ての人が注目するのがバッターボックス!そんな場に全員が公平に立てる(←ここが大事なところ)。打席も、機会が均等に回る(←ここ、大事なところ、その2)。ガーナの子供達が素直に感激するはずです。
アメリカの場合、保護者は様々な習い事をさせます。一日に二種目、それを月曜日から金曜日まで。最大10種目からの習い事をさせるケースすらある。どうして?「何をやってもだめな子はいない。何かその子にあったものがあるはず。それを見つけるのが親の役目」ということなのです。
日本の場合、都市部なら多くの経験をさせることが出来ます。地方では、「なんもない」とは言わないが、極端に少ない!そうなると、学校で、何が出来るかということになる。教科、領域にかかわらず、全校柔道大会、全校俳句大会などの実施で、一人でも多くの子に、「脚光を浴びる経験をさせる」「自己有用感を味わわせる」そのような取り組みをしている学校もあります。そういう学校、教職員が素晴らしいです。どうして?「やらなくても批判されないし、給料にも影響しない。しかし、やることによって子供が生きる。子供を生かすのが教職員の使命。だったら、やれる限りのことをやろうじゃないか!」ということです。このように素晴らしい学校がある反面、「金がない、時間がない、忙しくて…」と理由をつけて正当化し、何もしない学校…ないとは思うが、あったとしたらチャウチャウに喰われた方がいいと思う。
普通の人が脚光を浴びる場…
それが見つけられずに、というかその機会に恵まれずに、犯罪に走る…そりゃあ脚光を浴びますよ、負の脚光ですが。秋葉原の通り魔など典型的です。
東京都江東区のバラバラ殺人事件、「犯行は冷酷だが、残虐極まりないとはいえない(裁判長)」と、無期懲役判決。なんでも、「死刑は、殺した人の人数。一人殺したぐらいなら死刑にはならない」のだそう。こりゃダメダ。終身刑にしなければなりません。
「正の脚光を浴びる機会がある」このことが、人の成長発達に大きな働きをしています。
様々な分野でいい仕事をしている人…「図画工作の時間に描いたポスターをほめられて…」「小学生の時、大会で優勝して…」「作文をほめられて…」
皆さんほぼ一様に、「脚光を浴びた経験」が、職業になったり、生涯の趣味になったり…です。
勉強ができる…これは脚光を浴びています。
陸上競技で、断然トップになる種目がある…脚光浴びてます。
運動部の活動でスタープレイヤー…浴びてます。
さて、勉強も運動もダメ。絵画コンクールも、感想文もダメ。ピアノ?ダメダメ。そのような子に相対するとき、「何をやってもだめな子だなあ」で済ましてしまうと、憤懣、欲求不満の矛先はどこへ向かいますか?弱者へ向かってしまいます。
親と教育関係者は、「脚光を浴びる経験をさせる」…このことに腐心しなければならないと思います。
知的と情緒に障害を持つ子が、「町内特殊学級(現特別支援学級)の釣り大会」へ行った。とにかく落ち着いていられないので、釣り竿をめちゃくちゃに振り回した。餌が空中にある時間が長いのも、関係なし。ところが、40cmもあるウミタナゴが釣れた。ウミタナゴは、「餌盗り名人」の異名があるほど、素早く餌を盗る。普通の人が、ウミタナゴを釣り上げることは無理。(ウミタナゴを捕りたい場合、潜ってヤスで突く)どうしてその子にウミタナゴが釣れたか?お気づきの通り、ウミタナゴが餌を盗って逃げるよりも速く、餌を動かしていたからです。それ以来彼は完全に「漁」に目覚め、人柄まで変わってしまった。17歳になった今、漁師さんの手伝いをしています。釣り大会で脚光を浴びた経験がなければ、今日の彼はなかった。
ガーナ(西アフリカ)の子供達・・・貧富の格差が大きく、小学校を卒業できる児童は4割前後。彼らは、短い人生で「脚光」を浴びる経験が一度でもあるだろうか?それがあった。
国際協力機構(JICA)職員の友成晋也さんは、野球部(慶大)出身。そのキャリアを買われ、ガーナの野球ナショナルチームの初代監督に就任。1999年にシドニー五輪アフリカ予選で大健闘の4位に。少年野球も普及し始めた。ガーナ勤務を終え帰国間際だった友成さんは、子供達に野球の何が楽しいかを尋ねた。異口同音、「バッターボックス」と答えたという。この答えを聞き、帰国予定を変更し、「野球でアフリカの子どもたちに夢を」と、決めたという。昨今、まれに聞くいい話です。
「バッターボックス」は、「脚光を浴びる場」ということです。味方の期待を集める場、相手も注目する場。野球場の全ての人が注目するのがバッターボックス!そんな場に全員が公平に立てる(←ここが大事なところ)。打席も、機会が均等に回る(←ここ、大事なところ、その2)。ガーナの子供達が素直に感激するはずです。
アメリカの場合、保護者は様々な習い事をさせます。一日に二種目、それを月曜日から金曜日まで。最大10種目からの習い事をさせるケースすらある。どうして?「何をやってもだめな子はいない。何かその子にあったものがあるはず。それを見つけるのが親の役目」ということなのです。
日本の場合、都市部なら多くの経験をさせることが出来ます。地方では、「なんもない」とは言わないが、極端に少ない!そうなると、学校で、何が出来るかということになる。教科、領域にかかわらず、全校柔道大会、全校俳句大会などの実施で、一人でも多くの子に、「脚光を浴びる経験をさせる」「自己有用感を味わわせる」そのような取り組みをしている学校もあります。そういう学校、教職員が素晴らしいです。どうして?「やらなくても批判されないし、給料にも影響しない。しかし、やることによって子供が生きる。子供を生かすのが教職員の使命。だったら、やれる限りのことをやろうじゃないか!」ということです。このように素晴らしい学校がある反面、「金がない、時間がない、忙しくて…」と理由をつけて正当化し、何もしない学校…ないとは思うが、あったとしたらチャウチャウに喰われた方がいいと思う。
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