年輩の男は自分は、それほど広くない石畳の道路の右側を歩いていたと言い、若い男は横に車が停車していて避けられる状況でなかったと言う。お互いにすぐに熱くなってしまって喧嘩状態となったので止めに入った。止めに入ったが収まらずに年輩の男が若い男の頬を殴ってしまったので余計に収まりがつかなくなってしまった。仕舞いには警察で決着をつけようと言う。
そこまでするほどの事もないと思ったので、愛妻さんとともに両者に話をしてどうにか済んだ。(話を端折るが、そこまで多分30分。)
多くの人が集まって住む街と言うのはこう言うものなのだなあ、と思った。見知らぬ人が多く集まっている場所では、人と人との間に入るのは"正しさ"なのだろう。こうして何か問題がある場合だけでなく、普通に生活する上である種の合意された"正しさ"は大きな力であり正義である。道を歩く時には右側を歩くと言う正しさに従い、信号の色の正しさにも従い、床に描かれた線に従って並ぶ正しさに従って生きる。そうして問題が起こった場合にはどちらがより正しいかと言う判断の正しさに従う。
そうした正しさに自分がどれだけ忠実かと言う事が自分の正しさになる。けれどもそんなやり方は人間としての能力のある部分を放棄しているように見えなくもない。誰かが考えてそこに置いておいた法律とか白線、信号機、理由のわからない慣習や倫理などを自動的に受け入れて暮らすことは確かに便利であるが、逆にそんなものを使わなければ他人と快適に生きていくことができないのか。単なる脳みその省エネルギーではないのかとも思える。
自ら考えたり動いたりする自分の能力をいろいろに使って物事を解決しない、それが人が集まって生きる便利な方法なのだとしたら人とはどう言う生き物なのだろうか。イワシのような群れなして右往左往するだけの存在なのだろうか。それならそれで良いと考えられなくもないが、それで本当に快適なのか、それで1つの病原菌に犯されて全員死に絶えることはないのか等と考えてしまう。
与えられた"正しさ"に頼り続けるとするなら、人の心の中に問題に対する本当の解決や安堵は有り得るのだろうか。
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アーキ
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