感動とは
2007-02-07 | 雑文
< 感動とは >
若いころ、脚本を一本だけ書いたことがある。
一時間もののテレビドラマの脚本だった。
そのころ脚本を学ぶために、週に二、三回仕事帰りに六本木のシナリオスクール
に通っていたのだが、その卒業課題だったと思う。半年ぐらいの夜間コース。出来
がよければ、実際にテレビで放映されるとのことだった。
当時まだワープロなんて、まだあまり出回ってなかったので手書きである。何度
も書いて、清書も二、三回することになる。とにかく時間がかかる。
正月の元旦から三日間かけて家に閉じこもり、約六十枚書いた。
テレビドラマだと、だいたい原稿用紙1枚が1分見当である。一時間ドラマとは
いいながら、コマーシャルを引けば正味40分から45分といったところであるから、
まあ最低50枚ぐらいあれば充分だ。
つけた題名はたしか「俄か雨」。主な人物は三人家族の設定で、俳優まで自分の
なかでは決めていた。父親役が小林桂樹、母親役が八千草薫、そして成人したばか
りの娘役が、まだ売り出し中だった沢口靖子。
筋はあまり覚えていない。思い出せないぐらいだから、まったくたいしたことは
ない。急速に大人になっていく娘と両親との葛藤みたいなものをとりあげた、いわ
ば淡々としたホームドラマふうの筋だったような気がする。
卒業課題だからしかたなく書いたのである。
「あなたの書いたものには、まったく感動がない」
体裁だけの、脚本です。そう、審査員にばっさりと切り捨てられた。
自分もそう思っていたから、ショックはまるでない。落胆もない。いずれにして
も書き方はだいたい教わった。すべてはこれからだと思っていた。
とりあえず脚本も軽く齧っておきたい、その程度の軽い気持ちだったのだ。
脚本にはひとに伝えたいもの、つまり<感動>がなければいけない。自分が心か
ら感動したもの、それを書きなさい。そう、スクールではいろんな教師によく言わ
れたものである。
これが結構難しい。
たしか、このあいだ感動した話しを誰かから聞いたのだがどうしても思い出せな
い。あるいは、そのときには確かに震えるほど感動したのだが、いま思い返せば
どうということなく、脚本にするほどでもないように思える。いったい感動とは
なんなのだ。
ある日、テレビで時代劇をよく書いている教師が言った。
「なにかで感動したら、忘れないように記憶に刻むとか、すぐになにかにメモして
おくとかしているか。・・・あのなあ、それは大きなマチガイ、だ」
伸ばし放題のライオンのような髪をした脚本家は、そこでひと息いれると続け
た。
「時間が経ったら忘れてしまう、そのていどの感動じゃ、それはたいしたことは
ない。本当の、本物の、感動ってのは簡単にはけっして消えない。時間にも風化し
ないで残っているものだ。それを書け」
この言葉には正直痺れた。自分が忘れてしまうような、感動は、感動とはいえな
い。これは脚本だけに通じるものではない・・・そんな気がした。
しょっちゅう旅をしていると、なにかしら感動することがある。
でも、思い出せないような感動であれば、それはたいしたものではない。記憶力
の低下と嘆かずに、そのていどの感動だったのだ。そう自分の中で割り切る。
だから、できるだけ構えずに自然体で旅をしたい。ひたすらそう思う。
もう少し感動がたまったら、いつかみつくろって脚本にしてみたいものだ。
若いころ、脚本を一本だけ書いたことがある。
一時間もののテレビドラマの脚本だった。
そのころ脚本を学ぶために、週に二、三回仕事帰りに六本木のシナリオスクール
に通っていたのだが、その卒業課題だったと思う。半年ぐらいの夜間コース。出来
がよければ、実際にテレビで放映されるとのことだった。
当時まだワープロなんて、まだあまり出回ってなかったので手書きである。何度
も書いて、清書も二、三回することになる。とにかく時間がかかる。
正月の元旦から三日間かけて家に閉じこもり、約六十枚書いた。
テレビドラマだと、だいたい原稿用紙1枚が1分見当である。一時間ドラマとは
いいながら、コマーシャルを引けば正味40分から45分といったところであるから、
まあ最低50枚ぐらいあれば充分だ。
つけた題名はたしか「俄か雨」。主な人物は三人家族の設定で、俳優まで自分の
なかでは決めていた。父親役が小林桂樹、母親役が八千草薫、そして成人したばか
りの娘役が、まだ売り出し中だった沢口靖子。
筋はあまり覚えていない。思い出せないぐらいだから、まったくたいしたことは
ない。急速に大人になっていく娘と両親との葛藤みたいなものをとりあげた、いわ
ば淡々としたホームドラマふうの筋だったような気がする。
卒業課題だからしかたなく書いたのである。
「あなたの書いたものには、まったく感動がない」
体裁だけの、脚本です。そう、審査員にばっさりと切り捨てられた。
自分もそう思っていたから、ショックはまるでない。落胆もない。いずれにして
も書き方はだいたい教わった。すべてはこれからだと思っていた。
とりあえず脚本も軽く齧っておきたい、その程度の軽い気持ちだったのだ。
脚本にはひとに伝えたいもの、つまり<感動>がなければいけない。自分が心か
ら感動したもの、それを書きなさい。そう、スクールではいろんな教師によく言わ
れたものである。
これが結構難しい。
たしか、このあいだ感動した話しを誰かから聞いたのだがどうしても思い出せな
い。あるいは、そのときには確かに震えるほど感動したのだが、いま思い返せば
どうということなく、脚本にするほどでもないように思える。いったい感動とは
なんなのだ。
ある日、テレビで時代劇をよく書いている教師が言った。
「なにかで感動したら、忘れないように記憶に刻むとか、すぐになにかにメモして
おくとかしているか。・・・あのなあ、それは大きなマチガイ、だ」
伸ばし放題のライオンのような髪をした脚本家は、そこでひと息いれると続け
た。
「時間が経ったら忘れてしまう、そのていどの感動じゃ、それはたいしたことは
ない。本当の、本物の、感動ってのは簡単にはけっして消えない。時間にも風化し
ないで残っているものだ。それを書け」
この言葉には正直痺れた。自分が忘れてしまうような、感動は、感動とはいえな
い。これは脚本だけに通じるものではない・・・そんな気がした。
しょっちゅう旅をしていると、なにかしら感動することがある。
でも、思い出せないような感動であれば、それはたいしたものではない。記憶力
の低下と嘆かずに、そのていどの感動だったのだ。そう自分の中で割り切る。
だから、できるだけ構えずに自然体で旅をしたい。ひたすらそう思う。
もう少し感動がたまったら、いつかみつくろって脚本にしてみたいものだ。
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