<大沢温泉 岩手・花巻>
⑤丑三つ時から・・・チェックアウトまで
食事処から売店に寄りよく冷えた龍泉洞の水のペットボトルを買って部屋にもど
った。
テレビをつけ、インターネットをつなげて、いつものようにブログのチェックを
芋焼酎の水割りを呑みながらする。簡単な旅のメモをパソコンに打ち込んで行く。
(ああ、またやってしまった!)
猛烈にトイレにいきたくなり眼を覚ました。時計をみると一時半、いわゆる丑三
つ時である。また、電気つけっぱなしのテレビつけっぱなしで寝てしまったのだ。
ふだん旅番組とニュース以外のテレビはあまり真剣に見ない。それでもながら族
だからつけっぱなしにして、ガンガン呑んでいるうちに睡魔に引きずり込まれたの
だ。眠くなり、さあトイレに行き電気とテレビを消して寝ようと、思ったことは
思った。しかし思っただけであったようだ。紙パックの焼酎はからっぽである。
本当に悪い癖だ。とくにこの旅籠のような音が筒抜けの自炊部棟では最悪だろ
う。湯治客は寝るのが楽しみだし早い。寝付けなかったひともいるかもしれない。
周りの部屋の客はとんだ迷惑を蒙ったと思う。高鼾もかいていたかもしれない。
反省、猛反省だ。
とりあえず素早く起き上がりテレビを消した。
突然、耳がついていけないほどのシンとした静寂が訪れた。襖をそっとあけ薄暗
い廊下に静かに踏み出した。
(・・・んっ!?)
やおらくるりと向きを変えると、襖を閉めようとした明るい部屋に舞い戻り、
タオルと煙草とライターを持って再び廊下に出て、静かに襖をしめ足音を忍ばせて
階下に降りていく。
(・・・イヤイヤ、まいったなあ。眼福の次は耳福かよ。しょうがない、新館の
トイレを使ってからゆっくり温泉にでも浸かるか)
廊下に出た瞬間、ただならぬ気配を感じて身体が硬直したのだ。どこかの部屋か
ら押し殺し、切迫した妖しい声が廊下に洩れている。断続的でとめどない、切なげ
な女性の声だ。どの部屋かわからないが、だいじょうぶですかと助けようと襖を
がらっと開ければ、きっと背中をふたつ持つ怪物を眼にすることだろう。筒抜けの
自炊部棟では刺激が強すぎる。
山登りとかトレッキングするひと、湯治客、節約のひとり旅、すでに枯れきった
カップルこそこの自炊部棟には似つかわしい。次に自炊部に泊まるときには、鉄筋
のほうの棟に泊まろう。そう密かに心に決めた。
朝食は食事処で、通常の旅館で供される並クラスよりちょっとだけ下かなといっ
た和食膳であった。まったく不足はない。680円。
「おはようございまーす!」
朝食事やら温泉やらであちこち歩いていると、女子高生のようなジャージ姿の
女性軍とすれ違って挨拶され、なにやら嬉しくなってしまう。
客もだが、もちろん大沢温泉の従業員もすべて感じがいい。古い自炊棟も廊下な
どはぴかぴかでチリひとつなく掃除が行き届いている。
「本当にどこまでも気持ちよくきれいに掃除しているよ。キタ温泉のやつらに言っ
てやりたいなあ」とは、同じ自炊棟の客の弁だ。
炊事室を覗いてみたが、誰もいなかった。ざっと見回したがそれなりに小奇麗で
ある。
薬師の湯は食事処と中庭のような空間を挟んで、向かいの鉄筋の建物にある。
いかにも湯治用っぽいせいかあるいは景観が乏しいせいか、いついっても空いて
いた。ゆっくりできる。今日も先客がひとり気持ちよさそうに浅めの浴槽のほうで
歌っていた。ここの浴場は天井が高いせいか唄声にエコーがかかる。わかりにくか
ったが、たぶん曲目は「野風増」と「北帰行」だった。
午前中二回の温泉をすますと、ブログをひとつアップして、食堂へ向かう。けっ
こう混んでいた。
昨夜、睨み殺す勢いでみたのですっかり覚えてしまったメニューをまた吟味す
る。なににしようか。
今日の予定はとりあえず鉛温泉の藤三旅館の立ち寄り湯に行ってみるかと考えて
いたのだ。前回、志度平温泉に泊まったときに花巻温泉郷はあらかた舐めるように
はいったのだが、藤三旅館に心残りがあったのだ。
出かけるのなら運転するのでアルコールは駄目である。自称蕎麦好きであるか
ら、十割蕎麦をためさない手はないな。呼び出しボタンを押した。
来た初々しい仲居さんに「あのー、田舎蕎麦と・・・えーと、熱燗をください!
蕎麦のほうはゆっくりでいいからね」
えーい、鉛温泉はいいや。呑んじゃえ。海外物のミステリーも持ってきている
し、腰を落ち着けてゆっくりしよう。それぐらい、大沢温泉は居心地がいい。とに
かく、身体も心もくつろぐのだ。あの長野の鹿教湯で連泊したときとは雲泥の差で
ある。
夕食時、昨日と同じく焼酎の水割り三杯、ステーキ定食にするかどうか悩んだが
結局カツカレーにしてしまう。ステーキ定食は次回来たときに、とこれも追加で
心に決めた。
今日の八時から名物の混浴露天風呂が工事になるということで、二回はいった。
眼福なし。
この夜はとくになにごともなく夢もみないほどぐっすり眠れて、翌朝五時に起
き、豊沢の湯へ。非常に寒い朝である。
六時過ぎに薬師の湯、朝食後に南部の湯にはいる。食事処もこの朝食を最後に
数日間工事にはいる。南部の湯もそうだ。きっと五月の連休前までに工事を完了さ
せるのだろう。
部屋に戻ると手早く、布団をあげたりゴミを捨てたりして割と入念に片付けて
しまう。またくる気持ちがすこしでもあるときにはこういうことをするのだ。
帳場で二泊分の宿泊料金なんと格安びっくりの7,008円を支払って、大沢温泉を
後にした。
(了)
■長々と五回(とくに今回は長い!)にわたって記事にしてしまいました
が、大沢温泉にいったことのあるひとに懐かしがってもらえたり、これから
いってみたいひとに少しでも参考になれば・・・と思っています。長いから
実際に出かける前とか、暇なときにでもゆっくりとお読みいただければ。
→大沢温泉 岩手・花巻④はこちら
→鹿教湯連泊をお読みになりたいかたはこちら
⑤丑三つ時から・・・チェックアウトまで
食事処から売店に寄りよく冷えた龍泉洞の水のペットボトルを買って部屋にもど
った。
テレビをつけ、インターネットをつなげて、いつものようにブログのチェックを
芋焼酎の水割りを呑みながらする。簡単な旅のメモをパソコンに打ち込んで行く。
(ああ、またやってしまった!)
猛烈にトイレにいきたくなり眼を覚ました。時計をみると一時半、いわゆる丑三
つ時である。また、電気つけっぱなしのテレビつけっぱなしで寝てしまったのだ。
ふだん旅番組とニュース以外のテレビはあまり真剣に見ない。それでもながら族
だからつけっぱなしにして、ガンガン呑んでいるうちに睡魔に引きずり込まれたの
だ。眠くなり、さあトイレに行き電気とテレビを消して寝ようと、思ったことは
思った。しかし思っただけであったようだ。紙パックの焼酎はからっぽである。
本当に悪い癖だ。とくにこの旅籠のような音が筒抜けの自炊部棟では最悪だろ
う。湯治客は寝るのが楽しみだし早い。寝付けなかったひともいるかもしれない。
周りの部屋の客はとんだ迷惑を蒙ったと思う。高鼾もかいていたかもしれない。
反省、猛反省だ。
とりあえず素早く起き上がりテレビを消した。
突然、耳がついていけないほどのシンとした静寂が訪れた。襖をそっとあけ薄暗
い廊下に静かに踏み出した。
(・・・んっ!?)
やおらくるりと向きを変えると、襖を閉めようとした明るい部屋に舞い戻り、
タオルと煙草とライターを持って再び廊下に出て、静かに襖をしめ足音を忍ばせて
階下に降りていく。
(・・・イヤイヤ、まいったなあ。眼福の次は耳福かよ。しょうがない、新館の
トイレを使ってからゆっくり温泉にでも浸かるか)
廊下に出た瞬間、ただならぬ気配を感じて身体が硬直したのだ。どこかの部屋か
ら押し殺し、切迫した妖しい声が廊下に洩れている。断続的でとめどない、切なげ
な女性の声だ。どの部屋かわからないが、だいじょうぶですかと助けようと襖を
がらっと開ければ、きっと背中をふたつ持つ怪物を眼にすることだろう。筒抜けの
自炊部棟では刺激が強すぎる。
山登りとかトレッキングするひと、湯治客、節約のひとり旅、すでに枯れきった
カップルこそこの自炊部棟には似つかわしい。次に自炊部に泊まるときには、鉄筋
のほうの棟に泊まろう。そう密かに心に決めた。
朝食は食事処で、通常の旅館で供される並クラスよりちょっとだけ下かなといっ
た和食膳であった。まったく不足はない。680円。
「おはようございまーす!」
朝食事やら温泉やらであちこち歩いていると、女子高生のようなジャージ姿の
女性軍とすれ違って挨拶され、なにやら嬉しくなってしまう。
客もだが、もちろん大沢温泉の従業員もすべて感じがいい。古い自炊棟も廊下な
どはぴかぴかでチリひとつなく掃除が行き届いている。
「本当にどこまでも気持ちよくきれいに掃除しているよ。キタ温泉のやつらに言っ
てやりたいなあ」とは、同じ自炊棟の客の弁だ。
炊事室を覗いてみたが、誰もいなかった。ざっと見回したがそれなりに小奇麗で
ある。
薬師の湯は食事処と中庭のような空間を挟んで、向かいの鉄筋の建物にある。
いかにも湯治用っぽいせいかあるいは景観が乏しいせいか、いついっても空いて
いた。ゆっくりできる。今日も先客がひとり気持ちよさそうに浅めの浴槽のほうで
歌っていた。ここの浴場は天井が高いせいか唄声にエコーがかかる。わかりにくか
ったが、たぶん曲目は「野風増」と「北帰行」だった。
午前中二回の温泉をすますと、ブログをひとつアップして、食堂へ向かう。けっ
こう混んでいた。
昨夜、睨み殺す勢いでみたのですっかり覚えてしまったメニューをまた吟味す
る。なににしようか。
今日の予定はとりあえず鉛温泉の藤三旅館の立ち寄り湯に行ってみるかと考えて
いたのだ。前回、志度平温泉に泊まったときに花巻温泉郷はあらかた舐めるように
はいったのだが、藤三旅館に心残りがあったのだ。
出かけるのなら運転するのでアルコールは駄目である。自称蕎麦好きであるか
ら、十割蕎麦をためさない手はないな。呼び出しボタンを押した。
来た初々しい仲居さんに「あのー、田舎蕎麦と・・・えーと、熱燗をください!
蕎麦のほうはゆっくりでいいからね」
えーい、鉛温泉はいいや。呑んじゃえ。海外物のミステリーも持ってきている
し、腰を落ち着けてゆっくりしよう。それぐらい、大沢温泉は居心地がいい。とに
かく、身体も心もくつろぐのだ。あの長野の鹿教湯で連泊したときとは雲泥の差で
ある。
夕食時、昨日と同じく焼酎の水割り三杯、ステーキ定食にするかどうか悩んだが
結局カツカレーにしてしまう。ステーキ定食は次回来たときに、とこれも追加で
心に決めた。
今日の八時から名物の混浴露天風呂が工事になるということで、二回はいった。
眼福なし。
この夜はとくになにごともなく夢もみないほどぐっすり眠れて、翌朝五時に起
き、豊沢の湯へ。非常に寒い朝である。
六時過ぎに薬師の湯、朝食後に南部の湯にはいる。食事処もこの朝食を最後に
数日間工事にはいる。南部の湯もそうだ。きっと五月の連休前までに工事を完了さ
せるのだろう。
部屋に戻ると手早く、布団をあげたりゴミを捨てたりして割と入念に片付けて
しまう。またくる気持ちがすこしでもあるときにはこういうことをするのだ。
帳場で二泊分の宿泊料金なんと格安びっくりの7,008円を支払って、大沢温泉を
後にした。
(了)
■長々と五回(とくに今回は長い!)にわたって記事にしてしまいました
が、大沢温泉にいったことのあるひとに懐かしがってもらえたり、これから
いってみたいひとに少しでも参考になれば・・・と思っています。長いから
実際に出かける前とか、暇なときにでもゆっくりとお読みいただければ。
→大沢温泉 岩手・花巻④はこちら
→鹿教湯連泊をお読みになりたいかたはこちら
自宅で行えば、やれ電気代がもったいない、だらしないなどと文句を言われる家電製品つけっぱなし攻撃も、温泉一人旅でなくてはできない醍醐味である。これが自宅ならば、早々に通勤定期で行ける先を探して、はい、それまでよ!、と外出を決め込むところである。しかし、ここにはその心配がない。まさに天国、やりたい放題である。
それにしても気になるのは、昨夜の「あの声」である。朝食に集まってきた他の宿泊客の面々を、思わず盗み見してしまう。もはや、かきまぜた納豆に卵を入れるか、選択回路は朝食どころではなくなっている。当然、男女ペアの客に目は吸い寄せられ、どのペアが「あの部屋」に泊まったのか、想像は銀河系の彼方に超音速でぶっ飛び始める。いやいや、固定観念に捕らわれてはいけない。どのペアにも、違う組み合わせがあってもいいものだ。世の中は、プラスとマイナス、テーゼとアンチテーゼ、吸引と収縮だからである。
そう思った瞬間、目の前の「ちゃぶだい」が、エクソシストよろしくガタガタと音を立て始め、約5センチほど上昇した。
こらっ! やめんかい!! もう一人のオレ!!!
「本当に悪い癖だ。」・・・
なにせ何百泊しております。こんなこと別にどうということはなく、ただただホント邪魔しないことを心がけておる次第でございます。
枯れきった人間でございますのでご心配めさるな。
ただ、自炊部棟に泊まりたいと思ってるかたのために、あえて包み隠さず書いたのでござるよ。混浴のことも含めて、ね。
ですから、まったくの平常心でござるよ。
ところでにゃあ殿は、食欲だけじゃなかったのでござるか?