ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

老人であることを忘れていたバカな私です。

2012-11-18 08:32:45 | 日記


 誕生日を迎え64歳にもなったのに、自分が老人であることをすっかり忘れ、無理なスケジュールを立て、失敗してしまいました。

 3年前現役の教員生活を終え、学童で過ごす3時間以外は自分の意思で自由にできる時間を得た私は、調子に乗りすぎたようです。

 ついに体が悲鳴を上げました。風邪をこじらせ、薬を飲んでも飲んでも効果が無く、15日の夜中に咳をするたび、全身の毛孔に針を刺されているような痛みが走り、一瞬息ができなくなってしまったのです。こんな体験は生まれて初めてでした。

 
 それでも1か月も前から約束していた、大阪朝高の学生たちの60年間を振り返る学習会のパネラーとしての発言はせねばなりません。

 16日の朝から医院に行き、点滴でもなんでもして咳を止めてとお願いしましたが、

 点滴や注射で咳を止めることはできないと言われ、
  
 1段階きつい抗生物質と気道を広げる薬を調合していただきました。

 病院から帰り、前日、神戸の先生から緊急を要する個人懇談を頼まれた教え子の家庭訪問に行き、

 2時間ほど語り合った後は、「モアコンサート」も諦めて、ずっと安静にしていたのですが、

 17日パネラーとして発言している途中に、ついに咳が出始め一時止まらなくなってしまったのです。

 在校生たちには不愉快な思いをさせ本当に申し訳なく思っております。

 17日の学習会の写真です。



 13期生、27期世、50期生の3人がパネラーに選ばれ、高校時代を振り返りました。




 一つ目の議題であった高級部時代のエピソードを語り終える寸前に、喉の乾燥のため咳が出始めたのです。



 上の写真です。高1の時、社会実践活動の一環として夏休みに、住吉支部の北加賀屋分会で40日間宿泊しながら、

 日本の学校に通っている子供たちにウリマルを教え、

 その時体験したことが教員になりたいという希望に繋がったお話をしました。

 最後の閉めの時に喉が絡んでしまい一時発言を中断してしまいました。

 他のパネラーの発言が10分ほど続いたので、その間にお茶を何回も飲み、やっとのことで次の議題のお話をさせていただきました。



 夢の話ですが、幼いころから祖国を解放してくださり、

 異国生活をしている私たちにも祖国があることを諭してくださった主席にお会いしたいということが、

 私の幼いころからの夢でしたが、

 1990年12月31日ついに夢が叶ったお話と、この写真が生まれたエピソードをお話しました。

 最後の議題ではウリマルの大切さについてお話しました。自分の人生を振り返り、

 ウリマルの勉強を続けてきたことがどれほど私の人生に幸せをもたらしてくれたかを真心込めてお話しました。

 声が出ないまま、それも話の途中に咳のため一時話を中断するという失態を犯し、すっかり自信を無くしてしまいました。

 でも中級時代の教え子3人が学習会後、休憩室まで走ってきてくれ「会いたかった」と言いながら、

 私の胸で泣いてくれた時は、無理をしてでも来てよかったと、心から思いました。

 いくら自由な時間ができたからと言っても人間の体力には限界があり、自分の年齢や体力に合わせ行動しなければならないのに、

 若いときと同じような感覚でスケジュールを立てた自分の愚かさをしみじみ感じている私です。

 あんなにも会いたかった「モンダンヨンピル」の金明俊監督が出演する「モアコンサート」にも行けず、本当に残念でした。

 これからは自分の体は自分が守れるように気をつけます。はしゃぎすぎた時はお叱りくださいね。

 
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生まれて初めて書いた日本語の詩 「ふるさと」バイリンガル

2012-11-16 13:23:18 | 日記
この詩を書いたことがきっかけになり、青森の生まれ故郷も探せ、生まれて初めて長兄の住む済州島を訪ねることができました。
再掲いたします。



「 ふるさと 」  



生まれ育ったところが故郷だと
誰が言ったのだろう
私には故郷なんてなかった
ふるさとがなかった

60年が過ぎた今も
両足首に残ったゴム紐の痕を見ると 
知らぬ間に涙が出る
優しかったオモニを思い出す 

北海道にいるという父を訪ねて
身重の母は姉と次兄の手を引き
幾度も幾度も列車を乗り継いだ
風呂敷包みひとつ頭に載せ

突然津波のようにやって来た陣痛
青森の小さな旅館の布団部屋で 
私をこの世に生み出してくれたオモニ 
自分の歯でへその緒を切ってくれた母

6ヶ月後に北海道に渡り
馬小屋で寝起きした日々 
函館の海でいか裂きしながら 
私達を育ててくれたオモニ

零下20度の凍て付くような浜風
私をおぶって浜で働いたオモニは
私の靴下が脱げない様
ゴム紐をきつくきつくまきつけた

青森から北海道へ
北海道から東京へ
東京からやっと京都に戻ったとき
私は5歳になっていた

生まれて初めて会ったハラボジ
空襲で1本足になったハラボジ
ハラボジのリヤカーに毎日乗って   
声張り上げた《ボロおまへんか》と
 
あの路地この路地、一緒に回った日々
いつも聞かせてくれた故郷のはなし
ハラボジが出してくれた出生届
出生地はいつの間にか京都市になっていた

家族そろって大阪に移り
りっぱな朝鮮人になれと
父、母が送ってくれたウリハッキョ
満員電車に押し込められて通った学校

初めて通ったウリハッキョは
藻川に沿った小さな小さな学校
体育の時間は広い川原でころげまわり
図工はのどかな川辺でいつも写生

麦飯とキムチだけの弁当
雨の日あちこちにバケツが並んでも
暖かい先生や友達に囲まれて
ちっともイヤじゃなかった、楽しかった

ア、ヤ、オ、ヨ…
歌う様にハングルを習い
子ども心に誓った
将来は故郷のアナウンサーになるんだと
    
ウリハッキョで学んだ日々
恋もし、喧嘩もし、悩みもしながら
進路について話し合った懐かしい日々
一度もなかった。孤独な時なんて

同胞のために頑張ろうと仕事を選び
済州島に住む長兄に会う日を夢見ながら
集会にも、デモにも参加した日々
夢は近づいては遠のいたり

疲れを知らなかった青春時代
休むことを忘れてた中年時代
突然悪夢の様に悲しみが押し寄せた日

それでも踏ん張れよと諭してくれた
それがウリハッキョ
オモニの様に温かかったウリハッキョ

生まれ落ちた場所さえ知らない私に
思い出と友と夢と勇気をくれ
愛する心を育ててくれたウリハッキョ

私にも祖国が在る事を教えてくれた
ウリハッキョはゆるぎない心の柱
私のふるさとは ウリハッキョ

決して誰も奪えない
私が通い、子供達が学び、孫達が通う
ウリハッキョ 心のふるさとを!

     2010.7

*ウリハッキョ 私達の学校〔朝鮮学校〕
*ウリマル朝鮮語 *ハラボジ祖父 *オモニ母




 「 내 고향 」
             

나서 자란 곳이 고향이라고
그 누가 말했던가
내게 고향 따위는 없었다
내 고향이 없었다

60년이 지난 지금도
두 발목에 남은 고무줄 자국을 보면
나도 모르게 눈물이 난다
자상하시던 어머니가 생각난다

홋카이도(北海道)에 계시다는 아버지를 찾아
홀몸이 아닌 어머니는 언니와 둘째 오빠 손을 끌고
몇 번 또 몇 번을 열차를 갈아타셨다
봇짐 하나 머리에 이고서

돌연 쓰나미처럼 엄습해온 진통
아오모리(青森)의 작은 여관 이불 수납실에서
날 세상에 낳아주신 어머니
당신의 이로 탯줄을 끊어주신 어머니

여섯 달 후에 홋카이도로 넘어가
마구간에서 기거하던 날들
하코다테(函館) 바다에서 오징어를 손질하며
우리를 키워주신 어머니

영하 20도의 얼어붙을 것만 같던 갯바람
나를 업고 바닷가에서 일하신 어머니는
내 양말이 벗겨지지 않도록
고무줄을 단단히 감곤 하셨다

아오모리에서 홋카이도로
홋카이도에서 도쿄로
도쿄에서 어렵사리 교토(京都)로 돌아왔을 때
나는 다섯 살이 돼있었다

태어나서 처음으로 만나 뵌 할아버지
공습으로 한 쪽 다리를 잃으신 할아버지
할아버지의 손수레에 매일같이 몸을 싣고
큰 소리로 외쳤다 “넝마 없나요?”

이 골목 저 골목을 함께 누빈 나날
언제나 들려주신 고향 이야기
할아버지가 제출해주신 나의 출생신고
출생지는 교토시 시모교(下京)구로 돼있었다

가족 모두가 오사카로 이사한 후
훌륭한 조선사람이 되라며
부모님이 보내주신 우리학교
만원전차에 실려 통학한 학교

처음 다녔던 우리학교는
모가와(藻川) 옆의 작디작은 학교
체육시간엔 강가의 넓은 모래밭을 뒹굴고
미술시간엔 화창한 강변에서 언제나 스케치

보리밥과 김치뿐인 도시락
비 오는 날이면 여기저기 양동이가 늘어섰어도
다정한 선생님과 친구들에게 둘러싸여
조금도 싫지 않았다, 즐겁기만 했다

아, 야, 어, 여……
노래하듯 한글을 익히며
어린 마음에 결심을 했다
나중에 크면 고향의 아나운서가 돼야지, 하고

우리학교에서 공부한 나날들
사랑도 하고 싸움도 하고 고민도 해가면서
진로에 대해 이야기 나눈 그리운 날들
단 한 번도 없었다, 외로울 때라고는

동포를 위해 힘써보자는 마음으로 일을 선택하고
제주도에 사는 큰 오빠와 상봉할 날을 꿈꾸면서
집회와 시위에도 참가한 나날
꿈은 다가왔다가는 다시 멀어지고

                
                   (長兄と故郷の家の庭で)

지칠 줄 몰랐던 청춘 시절
쉬는 것도 잊고 지낸 중년 시절
돌연 악몽처럼 슬픔이 밀려왔던 날

그래도 버텨내야 한다고
꼭 껴안아준
그것이 우리학교
어머니처럼 포근했던 우리학교

태어난 곳조차 모르는 나에게
추억과 벗과 꿈과 용기를 주고
사랑하는 마음을 자라게 해준 우리학교

나에게도 조국이 있음을 깨우쳐준
우리학교는 흔들리지 않는 마음의 기둥
나의 고향은 우리학교

결코 누구도 빼앗지 못하리라
내가 다니고 자식들이 공부하고 손자들이 다니는
우리학교, 마음의 고향을!

   (2010.7)

 
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記念詩 「生まれ故郷―碇ヶ関を訪ねて」 (再掲)

2012-11-14 20:55:07 | 日記


記念詩 「生れ故郷―碇ヶ関を訪ねて」


 1.キャッスル号に乗って



東北のウリハッキョでの慰問公演を終え
弘前行きの キャッスル号に乗り込んだ

ついに 行くのだ 碇ヶ関に
夢にまで見た 生まれ故郷に

62年もの 長い間
心のどこかで いつも気がかりだった

何処で どんな所で生れたのだろう 私は
いつかは いつかは 探しに行かねば…

果てしなく続く田園風景 青さが目に染みる
トンネルを何度も潜りぬけ 高速バスは行く

「碇ヶ関まで27キロ」 掲示板の文字に
ドックン ドックン 鼓動が高鳴りはじめた 

左下に集落が見える 赤茶っぽい屋根の建物に
はっきりと書かれた 「碇ヶ関温泉郷にようこそ」

一瞬に通りすぎてしまった だが まぎれもなく
私は向かっているのだ 人生の出発点に!



記念詩2.碇ヶ関駅にて


           
弘前から奥羽本線のワンマンカーに乗り
4つ目の駅で降りた 碇ヶ関だ

小高い山に囲まれた 静かな佇まい
見渡す限り 青々とした田畑 リンゴ畑

大正の頃から変わりが無いという
碇ヶ関駅のホームに 立ち尽す

上野発青森行きの 蒸気機関車に乗って
オモニも降りたんだね このホームに

激しい 陣痛に耐えかねて
姉と次兄を連れ やむなく降り立った駅

どんなに心細かっただろうか
頼る人も知る人もいない この駅で

階段を一段一段上り渡り廊下を歩く
階段を一段一段下り出口に向かう

駅員も見当たらない小さな駅
切符を受け取る人もいない駅

62年の歳月を経て 今 ここに立つ
オモニのお腹にいた私が ここに立つ


記念詩3.日曜日の碇ヶ関支所


          
丁度1ヶ月ほど前 FAXを送った
インターネットで捜した 碇ヶ関総合支所に

「私の 生まれた場所を 探してください。
 碇ヶ関の小さな自炊旅館だったそうです。」

手がかりは ただ それだけ 
雲を掴むような おはなし

なのに 総合支所の皆さんは
自分事のように涙し 探し続けて下さった

仙台へ出発する二日前 ついにきた 嬉しい便り
「見つかりました!着いたら支所に来てください」

日曜なのに と 心配する 私に
何時でも良いから と 仰る 黒滝さん

こんな偶然があるだろうか
予約した宿が 総合支所の 隣だったなんて

宿に着くなり向かった 総合支所で
支所長さんと黒滝さんが 暖かく迎えてくれた

沢山の資料、地図、特産物、リンゴ、生ジュース
碇ヶ関の ネーム入Tシャツまで 着こんで

70匹もの 蛍まで 準備してくれていた
碇ヶ関の夜を 蛍と共に 過ごすようにと…


 記念詩4.星空に抱かれるように

           

高さ15CMほどの ガラス瓶の中に 
田んぼで取ったと言う 70匹の平家ホタル
蓋には 「ホタルのホテル」と 刻まれていた

昨日の夜 田んぼの近くまで 車を寄せ
ウインカーを チカチカ 点滅させて
集まってきた 蛍を 一気に 詰めたそうな 

夜中の12時 全ての電気を消し
布団に横たわったまま じっと 見つめる
蛍たちが踊りだした 右に左に ぐるぐると

真っ暗闇の中 ホタルが放つ光が
ガラス戸や鏡に反射して作った 幻想的な空間
夢を見ているような 嬉しい錯覚

視力の弱い事が こんなに 効を奏するなんて
まるで 霧の中 湖の傍に 佇んでいるよう
満天の星空に 抱かれているよう

遠い昔 星降る夜 オモニが作ってくれた浴衣を着て 
近所の綾ちゃんと 盆踊りに出かけた日の事が
なぜだか 浮かんでは消え 消えては浮かんだ

花岡支所長さんの 優しい 思いやりが
生涯忘れる事の無い 幸せな夜を くれた
生れ故郷での初めての夜を 心に刻んでくれた


記念詩5.白沢の水場 

    
          
「こちらです」 朝 支所長さんの声
碇ヶ関支所から車で5分ほどのところ
私が生まれたという 木賃宿の跡地

雑草が茂る空き地だ 思ったより小さい
左横はすぐ山のふもとだ 線路跡がある
汽車が通るたび 家が揺れたそうだ

入り口に 白沢の水場 生命の水場     
山から管を通して 引っ張ってきた水 
江戸時代から 流れ続ける 白沢の水

水道のなかった 昔も今も 共同の水場 
木賃宿の客人も ここで顔を洗い洗濯をし
井戸端会議に花を咲かせた 貴重な場所

オモニもこの水で 炊事洗濯をしたのか
私のオシメを洗い 時には沐浴もさせてくれ
6ヶ月間 触らぬ日がなかった 白沢の水

手を伸ばし触って見た 冷たい!
初めて実感する 生れ故郷の感触
脳裏に浮かぶ セピア色の オモニの顔写真

何度も何度も触ってみる
手のひらで水を受け 口に含んでみる
おいしい! 涙と一緒にごくっと飲み込んだ


記念詩6.花岡チエさんとの対面



「外崎さんの おばちゃんはね
それはそれは 優しい人でしたよ」

捜していた木賃宿の隣で生れ育ち 今も住む
花岡チエさん 3代続いた教員の家に生れた方
私よりも一回り年上の ほっそりした上品な方

旅館代の払えない貧しい人々が 通りすがら
この木賃宿に泊まったそうだ 部屋は4つだけ
子供さん二人抱えて 宿を営んでいた外崎さん

チエさんの話を聞きながら オモニの話を思い出す
駅を降り 大きなお腹抱え当ても無く歩いていた時
1人のお婆さんが うちにおいでと言ってくれたと

部屋に入って間もなく 産婆を待つ時間も無く
私が生まれ へその緒を自分の歯で噛み切ったと
この方に会っていなかったら オモニは?私の命は?

「間違いないわ。この辺で木賃宿はここだけだし
 外崎のおばちゃんなら 必ず 助けたはず!」

有難うございます 花岡さん 生きていてくれて
あなたのおかげで やっと 見つけました
紛れも無い 私のルーツ 生れ故郷の住所を!

「青森県平川市碇ヶ関160番地の5」
命の恩人 外崎さん 証人の 花岡チエさん
手を握り 涙しながら喜び合った 感動の瞬間!


記念詩7.碇ヶ関支所での朗読会

         
花岡チエさんとの感激の対面のあと
興奮覚めやらぬまま 支所に戻った
支所の皆さまが開いて下さった朗読会

「朝鮮学校無償化除外反対」を訴える為
生れて初めて日本語で書いた 詩 <ふるさと>
広島、東京、京都、奈良、大阪の朗読会で、集会で
幾度と無く朗読しつづけてきた 詩 <ふるさと>

その詩を 今 <ふるさと>で 朗読するのだ
足も声も震える こんなこと初めてだ
夫の優しいフルートがそっと励ましてくれる

「生まれ育ったところが故郷だと
 誰が言ったのだろう
 私には故郷なんてなかった
 ふるさとがなかった… 」

誰が想像したであろうか
生れ故郷の 碇ヶ関で 
この詩を朗読する日が来るなんて

この詩を詠むたび 思ってた
誰に 私の悔しさがわかるものかと
誰に 私の悲しみがわかるものかと

だが今 私の胸に迫るものは 感謝の気持だけ 
こんなに 素晴らしい村で生れただなんて
こんなに 素晴らしい人々がいただなんて…



記念詩8.三笠山に登って

            
青々としたアカシヤ あちこちに見える天然杉
白く可憐なリンゴの花に囲まれて
少年期をここで過ごした 葛西善蔵の文学碑

到る処にあじさいの花が 明るく咲いている
支所長さんらが 学生の頃 植えた苗が
ブルー、ピンク、薄紫の花を 毎年咲かせる

三笠山の山頂から 碇ヶ関村の全容が見える
バスの中から見えた「碇ヶ関温泉郷にようこそ」が
総合支所の裏壁だったなんて 嘘みたい

赤、青の屋根が目に付く 全てトタンだそうだ
寒い冬に雪が滑り落ちるよう 工夫されている
碇ヶ関は二つの山脈に囲まれた盆地だったんだ

室町時代から 関所のある宿場町として栄え
村を流れる平川の清水、果てしなく広がるりんご園
豊かな自然といで湯に恵まれた 閑静な里

人口2、800人にまで減ったけど
村に対する誇りは誰にも負けない
黒滝さんも支所長さんも碇ヶ関の人だ

「おまえはリンゴ畑で拾ってきたんだよ。」
言われるたび 青森に帰るから電車賃をくれと
駄々をこねた 昔がほんに懐かしい

「おーい 碇が関ー 私はついに来たよー」
叫びたい気持ちを抑え リンゴ畑を歩き続けた


記念詩9.三笠食堂で


「この村で一番古い三笠食堂で
 お昼をいただきましょう。」

支所長さんにつづいて食堂に入る
昭和の雰囲気が漂う 古いお店
アルバムや雑誌なんかも置いてある

壁に貼られた大きなポスター
<自然薯ラーメン> 美味しそうな響き
「私これにします」 結局 皆このラーメン

ラーメンを待っている間 話が行き交う
今日の朝訪ねた 花岡さんのお父様に
ここのご主人も 習ったそうな

アルバムを見ていると分かる 大正時代の様子
昭和の時代の平川や橋、馬車まで走っている
大阪から生れ故郷を探しにきたと紹介される

「木賃宿の名前がわからんのです」
「あぁ、白沢の水場の木賃宿かね、大黒屋さんや
出前頼まれて よう行ったから間違いないわ」

大黒屋?大黒屋?! 役場でいくら調べても
最後までわからず 諦めかけていた屋号が
こんなにも簡単にわかるなんて 奇跡?偶然?

碇ヶ関に来てビックリすることだらけ
ひとつの 大家族のような村 
血の通い合う 暖かい 私の生れ故郷!



記念詩10.碇ヶ関の名所を巡る

           
三笠食堂の2代目店主 阿部さんから
貴重な証言を頂いた後 たけのこの里に向かう

樹齢200年の大杉の前に佇み 仰ぎ見る
しばし時を忘れ 森林の心地よい香りに酔った

春は山桜が咲き乱れ 夏は楽しい渓流釣り
秋は紅葉、バーベキュー、温泉も楽しむ贅沢さ

コテージが素敵 中に入るとまるで我が家のよう
「来年の秋 姉や兄と 必ず泊まりに来ます」

つい口から出た言葉 でも嘘じゃない 本当だ
何回でも来たい処 小川のせせらぎが心地よい
 
帰って報告すればどんなに喜ぶことだろう
家族みんなで行こうと 言うかも知れない

再び 碇ヶ関駅に戻り写真を撮る 心に刻む
駅隣の 屋内村民プール遊泳館にも立ち寄る 

かけ流しの温泉がある 道の駅いかりがせき
移築した関所の面番所で 江戸時代にタイムトラベル

たけのこの瓶詰め,自然薯そばに青森りんごきらら 
お土産もどっさり 大満足 ポッカリ雲が笑ってる

碇ヶ関の全てを持って帰りたい 大阪に
7色の温泉が 又おいでと 湯煙を立てている


最終章。果てしなく続く旅

          
大阪に向かう飛行機の中で ずっと考えた
私はなぜ 碇ヶ関を 捜し続けたのだろうか
私はなぜ 生地に こだわり続けたのだろうか

人は皆 生地を持つ しかし 選ぶ事は出来ない
ましてや 私は異邦人 流れ流れて 着いた村
昨日今日の話では無い 遡れば 100年も前だ

国を奪われ やむなく祖父が日本に渡り 
祖父を頼って日本に来た父は 母と出会った
職も無く 転々と彷徨う中で 生まれた 私

外国人登録証なるものを初めて見た中学生の時
両指10本の指紋をとられながら 私は思った
私は罪人か? 一生 これに縛られるのかと

心のどこかでいつも 怨んでいた
国を奪ったもの達を 離散家族を作ったもの達を
チマチョゴリも自由に着て歩けない この国を

60年もの間 かたくなに心を閉ざし
決して許す事はなかった 祖父の足を奪った輩
出生地も 知らぬまま 生まれ育った 悔しさを  

がむしゃらに勉強をした ウリマルの勉強を
誰よりも自分の国の言葉を上手に喋りたいと 
異国生れを 下手な口実にはしたくなかった

定年を迎え ふと 我に返ったとき 思った
生れた場所も知らないまま 死んで行くのかと
子供たちに伝えねばならぬものは なんなのかと

心優しい人々が住む 碇ヶ関で 命を授けられ
今もなお 心豊かな この村の人々の お陰で
ルーツを探せた感激、喜び、深まる感謝の気持ち

その想いが強いほどに 私は思うのだ
私の祖父、父、母が生まれ育った誠の故郷を
一度も見ないまま ただ年を重ねるべきなのかと

植民地に継ぐ 南北の分断はあまりにも長すぎた
個々の悲しみに背を向け 頑張り続けた半世紀
背中の丸くなった長兄は 未だ1人で済州島に

必ず捜しにいかねば 堂々と 胸を張って
民族の誇りを守って生きてきた 60年を
決して無駄には出来ない 決してしまい

果てしなく旅は続く でも私の足取りは軽い
必ずや 統一を迎えた故郷で 家族が集い
碇ヶ関でのことを 笑いながら話せる日は来る!

碇ヶ関の人々がそうであったように
私も民族や国籍に拘らず 困った人を助け 
日朝の架け橋になろうと 静かに誓った


          終

     2011年7月19日


                  
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青森から「故郷の香り」が送られてきました。

2012-11-14 20:38:05 | 日記
 生まれ故郷ー青森碇ヶ関から「故郷の香り」が送られてきました。有難うございます。



 中を開けると、リンゴだけではなく津軽のお米、「どくだみ茶」、「食用菊」まで入っていました。

 生まれ故郷は永遠に私の心の中に生きています。昨年書いた随筆を再掲載いたします。




随筆
     「ふるさとへの道」
                     

「朝鮮学校無償化除外反対」を広範な日本の人々に訴えるため、「ふるさと」という詩を書いた日から一年が経った今年の夏、私は生まれ故郷、青森県平川市碇ヶ関(いかりがせき)を生後初めて訪ねた。

 63年前、身重であった私のオモニ(母)は、北海道にいるというアボジを探すため、6歳の姉と3歳の兄の手を引いて京都から列車に乗り、何回も乗り継いだ。

途中、列車の中で産気づいてしまったオモニが、やむなく碇ヶ関で下車し、あてもなくさまよっていたとき、親切に声をかけてくださった方がいた。その方が営んでいた木賃宿にたどり着いたオモニは産婆の到着を待てずに赤子を産み落とした。その赤子がまさしく私だったのだ。

6ヵ月後に北海道に渡り,行商をしていたがうまく行かず、やむなくドブロクを作ったことが「罪」になり刑に服していた父を待つ間、馬小屋で暮らした日々、父の出所後、函館に移り零下20度の浜で私をオンブしたままイカ裂きをしながら私たちを育ててくれた両親。

学校に通うことになった姉が、あまりにものいじめに耐えかねて登校を拒んだ為、東京の朝鮮学校を探して池袋に引っ越した事、空襲で片足になった祖父が京都にいるという便りを聞き一年足らずで京都に戻ったこと、坂の下の半洞窟の家で暮らしながら、祖父の引くリヤカーに乗り<ボロおまへんかー>と京都市内を回りながら生活した日々…

5歳になるまで出生届も出せず、自分の生まれた場所の住所も知らぬまま、青森から北海道、北海道から東京、東京から京都、京都から大阪へと転々と引越しを重ねてきた私たち家族にとって故郷とは一体なんであろうかといつも思っていた。

今年の3月11日、想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けた。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)

私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めた。

交信を始めてから一ヶ月が過ぎた頃、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。着いたらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきた。

7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私は高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねた。

日曜日だと言うのに支所長さんと、交信を続けていた黒滝さんが迎えてくださった。

碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶のホテルに入れて持たせてくださった。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出なかった。

翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かった。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はあった。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていた。手を伸ばし沢の水に触れて見た。

冷たい!手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかったオモニの笑顔が浮かんだ。

支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いした。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながら話してくださった。

 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来た。

終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かったであろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれない。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り心から感謝した。

驚いたことはそればかりではなかった。木賃宿の屋号だけはどうしても探せなかったのだが、三笠食堂で食事をしていた時、御主人の阿部さんが思い出して下さったおかげで木賃宿の屋号が「大黒屋」であることまで判明したのだ。

 その後、支所長さんの案内で碇ヶ関の名所をひとつひとつ回りながら私は思った。碇ヶ関の人たちは何故こんなにも親身になってくれたのであろうか?「探せませんでした。」の一言で片付けることもできただろうに、詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!

碇ヶ関の人たちのおかげで無事この世に生を受けたばかりか、人生の黄昏期にまた大きな恩恵を受けてしまった私。母のように心優しい人々が住む村が私の生まれ故郷であったことが何よりも誇らしく嬉しい。

瞼を閉じれば碇ヶ関の人々が、三笠山や平川が、白沢の水場が、リンゴ畑が目に浮かぶ!紛れも無く碇ヶ関は私のもう一つのふるさと!

誰しも故郷を持つが私たちのように、異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのだろう。私たちの国が植民地にならなかったなら私が日本で生まれるということはありえなかったし、貧困と差別がなかったなら根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずだ。

私は自分の生まれ故郷を探していたが決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れない。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れない。

ウリハッキョを守るため書いた拙い一編の詩がもたらした生まれ故郷との再会。私はこの日の感激を胸に、まだ見ぬまことの故郷を必ずや訪ね、亡き父母の霊前に花を手向けたい。そして碇ヶ関の人々のように国籍や民族を越え1人の人間として隣人を愛し朝日友好の架け橋になりたいと思う。


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11・13「火曜日行動」とハルモニ宅訪問

2012-11-13 21:57:29 | 火曜日




 朝からすっきりしない天気ですが、大阪府庁に向かいました。



 芙蓉の花ももうおしまいの様です。

 今日も「火曜日行動」にたくさんの方々が参加されていました。弁護団の具弁護士も一緒にビラ配りに参加しました。

























































 ビラにはあまり反応を示さない人が多いですが「モアコンサート」のチラシには韓流スターたちが掲載されているので、

 貰ってくれる人が多かったように思いました。

 府庁を後にして大阪城公園内を通って一人暮らしのハルモニの家に向かいました。

 もうすっかり秋です。素晴らしい紅葉がかえって心をむなしくさせました。










 家を出る前にサツマイモを蒸かし、関東炊きもどきを作ったので温かいうちに食べていただこうと思い、

 府庁に行く前にハルモニ宅を訪ねたのですが御留守でした。仕方なく少し冷めてしまったけど帰りに寄りました。

 ハルモニに蒸かしイモと関東炊きをお渡しすると「なんでいつも何かを持ってくるの?」と叱られました。

 手ぶらで来てくれるだけでもうれしいのに、しょっちゅう何かを持ってきたら胸が苦しいとおっしゃるので、

 次は手ぶらで来ると言いました。一人暮らしなのに量が多すぎると言われ半分持って帰るように言われました。

 今日は天王寺の夜間学校に通っている時にクラスの役員をした話や修学旅行で広島に行き、

 亡くなった人まで朝鮮人だと言って同じ敷地に埋葬もしてもらえず差別されたことに対し、

 憤激して抗議した話をしていただきました。又ご自分の生い立ちや、子供さんたちのことを、

 一歩踏み込んでお話してくださいました。

 私も初めて火曜日にこの近くを通る訳を話しました。

 帰りにハルモニが買い置きをしておられたパン二つを、持たされてしまいました。

 もらいっぱなしはどうしても嫌なようです。

 仕方なくいただいて帰りました。







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