誕生日を迎え64歳にもなったのに、自分が老人であることをすっかり忘れ、無理なスケジュールを立て、失敗してしまいました。
3年前現役の教員生活を終え、学童で過ごす3時間以外は自分の意思で自由にできる時間を得た私は、調子に乗りすぎたようです。
ついに体が悲鳴を上げました。風邪をこじらせ、薬を飲んでも飲んでも効果が無く、15日の夜中に咳をするたび、全身の毛孔に針を刺されているような痛みが走り、一瞬息ができなくなってしまったのです。こんな体験は生まれて初めてでした。
それでも1か月も前から約束していた、大阪朝高の学生たちの60年間を振り返る学習会のパネラーとしての発言はせねばなりません。
16日の朝から医院に行き、点滴でもなんでもして咳を止めてとお願いしましたが、
点滴や注射で咳を止めることはできないと言われ、
1段階きつい抗生物質と気道を広げる薬を調合していただきました。
病院から帰り、前日、神戸の先生から緊急を要する個人懇談を頼まれた教え子の家庭訪問に行き、
2時間ほど語り合った後は、「モアコンサート」も諦めて、ずっと安静にしていたのですが、
17日パネラーとして発言している途中に、ついに咳が出始め一時止まらなくなってしまったのです。
在校生たちには不愉快な思いをさせ本当に申し訳なく思っております。
17日の学習会の写真です。
13期生、27期世、50期生の3人がパネラーに選ばれ、高校時代を振り返りました。
一つ目の議題であった高級部時代のエピソードを語り終える寸前に、喉の乾燥のため咳が出始めたのです。
上の写真です。高1の時、社会実践活動の一環として夏休みに、住吉支部の北加賀屋分会で40日間宿泊しながら、
日本の学校に通っている子供たちにウリマルを教え、
その時体験したことが教員になりたいという希望に繋がったお話をしました。
最後の閉めの時に喉が絡んでしまい一時発言を中断してしまいました。
他のパネラーの発言が10分ほど続いたので、その間にお茶を何回も飲み、やっとのことで次の議題のお話をさせていただきました。
夢の話ですが、幼いころから祖国を解放してくださり、
異国生活をしている私たちにも祖国があることを諭してくださった主席にお会いしたいということが、
私の幼いころからの夢でしたが、
1990年12月31日ついに夢が叶ったお話と、この写真が生まれたエピソードをお話しました。
最後の議題ではウリマルの大切さについてお話しました。自分の人生を振り返り、
ウリマルの勉強を続けてきたことがどれほど私の人生に幸せをもたらしてくれたかを真心込めてお話しました。
声が出ないまま、それも話の途中に咳のため一時話を中断するという失態を犯し、すっかり自信を無くしてしまいました。
でも中級時代の教え子3人が学習会後、休憩室まで走ってきてくれ「会いたかった」と言いながら、
私の胸で泣いてくれた時は、無理をしてでも来てよかったと、心から思いました。
いくら自由な時間ができたからと言っても人間の体力には限界があり、自分の年齢や体力に合わせ行動しなければならないのに、
若いときと同じような感覚でスケジュールを立てた自分の愚かさをしみじみ感じている私です。
あんなにも会いたかった「モンダンヨンピル」の金明俊監督が出演する「モアコンサート」にも行けず、本当に残念でした。
これからは自分の体は自分が守れるように気をつけます。はしゃぎすぎた時はお叱りくださいね。