連載 君たちへのラブレター8 (楽しかった大阪第4学童での思い出)
ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ、私の愛しい孫たち・・・
連載7でのお話で、東中を退職した後ハンメがなぜ大阪第4の学童指導員になったのかはお話したよね。覚えてるかなぁ。
28年間、中級学校の学生たちとだけ過ごしていたハンメにとって、初級学校の1、2,3年生たちと過ごすようになった6年間は驚きと感動と新しい発見に満ちた楽しい日々だったわ。
教壇の前に立ち,指示一つで学生が動いてくれる中級生と違い、初級学校低学年では全てのことをゆっくりゆっくり、何回も何回も言い聞かせなければならなかったの。
放課後にたった3時間学校にいるだけだったけど、初級学校に通うようになって一番嬉しかったことは「ウリマルを使いなさい!」なんて一言も言わなくても、いつも教室や校庭にウリマルが飛び交っていることだったの。
1年生にわかりやすく説明してあげようと日本語を使っていても生徒たちは「ソンセンニム、イルボンマル!(先生、日本語!)」と指摘するのよ。あげくの果てには長い間、個別指導をしてきた編入生から、私がちょっと日本語を使った時、「ソンセンニム イルボンマル!」と指摘された時は思わず苦笑いしてしまったわ。でもそれがどんなにうれしいことだったのか君たちにはわかるかなぁ。
学童の生徒が、放課後集まって最初にすることは宿題なの。だいたい1時間は学年別に座り、宿題をするの。早く終わって点検を受けた子供は、宿題が済んだ後、読書をする。1年生は若いソンヒ先生が常時見て、私は主に2,3年生を見るの。
書く宿題なら、誤字のひとつも見逃さないわ。計算問題も別の紙に自分で計算しながら答えの確認をしてあげるの。間違いがあればすぐに自分のチカラで直せるように助言するのよ。読みの宿題は各自が練習し、一人一人点検するの。上手下手は別にして書いてある内容が他人に伝わるように読めたかどうか、正確に読めたかどうかを確認してあげるの。(失敗談があるんだけど後でね。)
勉強のお話はこれぐらいにして、宿題が済めばおやつの時間なの。手洗いやうがいを徹底させ、楽しい音楽を聞かせながらおやつをいただきます。1年目はハンメも一緒になって食べていたのでずいぶん体重が増えたので2年目からはお茶だけ飲んでるの。(笑)
おやつが終われば食器洗いを私がしている間にもう一人の先生が掃除の指導をしてくれるの。その後は思い切り遊ぶわ。クラブ活動が終わり高学年が下校する時、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいる生徒はそのまま下校してしまうの。大体半分ぐらいが残るわね。
天気の良い日は運動場で、サッカー、ドッジボール、かけっこ、1輪者など、子供は本当に遊びの天才だよね。怪我をしないように注意深く見守りながら、年を忘れて一緒に思いっきり遊ぶの。
運動場遊びで一番印象に残っているのは、一輪車の練習だね。毎年6月の初めには大阪府の一輪車大会があるからその日を目標に学童でも一斉に練習が始まるの。私自身が一輪車に乗ったことが無いから大変だったけど、こけてもこけても乗れるまで頑張る生徒たちを見ながら感動のあまり自然に詩が浮かんだわ。
「35メートル」
スンギが走る 1年生のスンギが
両手を広げバランスを取りながら
1輪車大会35メートル直線コース
この日のために何百回こけ続けた事か
こけてもこけても
「ソンセンニム もう一回!」
足もすねも青タンだらけ
「ソンセンニム もう一回だけ!」
本大会まで何とか乗れたらなぁ
無理かなぁ いや 必ず乗れる
自分に言い聞かせるように
励まし続けた私のすねも青タンだらけ
走る走る スンギが走る
1輪車が風を切って走る
両手を広げ ひたすら前に前に
まるでフェニックスのようだ!
人生長い道のりの 35メートル完走!
はじめの一歩だ はじめての挑戦だ
眩しいほど輝いている スンギの笑顔
泣き虫卒業!君は今日 少年になった!
教室で遊ぶ時は男子はほとんどが朝鮮将棋をして遊ぶの。遊びすぎて袋がボロボロになったので自分の持っているヤンダンのあまり布で一生懸命袋を作って持って行った日もあったねぇ。女子はオセロ、トランプ、かるた、お絵かきが大好きよ。ある生徒はストーリのある漫画を書いて遊んだりしているのよ。卓球もみんな大好きよ。
夏休みに入ると一日が長いから、大きな段ボール紙を沢山買ってもらって子どもたちと力を合わせて紙芝居の絵をかいて楽しんだなぁ。紙芝居の絵が出来上がったらグループごとに役割を決めて読みの練習をするの。どんなに楽しいか、何時間でも練習していたかったわ。
紙芝居の発表会をしたり、お誕生会の時はみんなで楽器弾いたり歌を歌ったりマジックをしてもらったりダンスをしたり、子供に戻ってハンメもどんなに楽しかったか知れない。
夏休みにはお昼寝の時間があって畳の部屋に移動するのだけど、決まって眠る前にお話をしてあげたの。そしたら寝るどころかもう一つだけ、もう一つだけとせがまれ調子に乗ってお話していて、「早く寝なさい!」と主任先生から叱られたこともあったわ。(笑笑)
そうそう夏休みや冬休みにはお好み焼きパーティ、焼きそばパーティ、たこ焼きパーティなんかも良くしたなぁ。
でもいいことばかりでは無かったわ。ハンメは学童でもやっぱり失敗してしまったのよ。
宿題をする時間に出来たものを点検してあげるのだけど、ついつい教員だった時の癖が出て隅から隅まで見る癖があったの。それで先生でもないのに誤字を見つけたらチェックを入れたり直させたりしてしまったの。
音読の宿題を点検する時も必要以上に発音の点検をしたため、生徒が混乱してしまったの。担任の先生からはこう習ったのにホ先生は違うことをいうとかおもったらしく…
ある日担任の先生に呼び出され、「これからは宿題の点検は指導じゃなく、宿題をしたか、していないかだけを見てください」ときっぱり言われどんなに驚いたことか。「えぇ?!」と聞き返したわ。
自分では良かれと思ってしていたことが、担任の先生には有難迷惑なことだったことにまったく気がついていなかったの。馬鹿といえばバカだったけどハンメはハンメで何か役に立たねばと一生懸命だっただけにショックだったことは隠せないわ。でも立場を変えて良く良く考えてみたら学童指導員は決して教員ではないんだということに気が付いたのよ。それからはもう一人の先生とも相談して宿題の点検はほどほどに、「したか、していないか」だけを見ることにしたの。最初は物足りなくてつらかったけど…
学童に通った6年間はあっという間だったわ。私の学童指導はは月曜から金曜まで、もう一人の先生は火曜から土曜日までと分担されていたので、私は学童がお休みの土、日を活用していろんな活動をさせていただいたわ。奈良の学校を再校するための準備として行われていた奈良での成人学校や土曜児童教室の講師なども望まれたことはすべて引き受けて兼任させていただいたわ。
(奈良成人学校)
後でまたお話しするけど、学童指導員をしながら日本の詩人と一緒に「朝鮮學校無償化除外反対」の詩集を作ったり、土、日を利用して東京の文科省に抗議に行ったり、広島、京都、奈良、東京へと朗読会に出かけたり、東日本大震災が起きた2011年には東北のウリハッキョまで友人たちと慰問公演に出かけたり、東北に行ったおかげで60年間いつか探しにいかねばと思っていた生まれ故郷ー青森の碇ケ関の生家の跡地まで探せたり、「無償化除外反対アンソロジー」のハングル翻訳版の朗読会に招待されソウルまで行ったばかりか、朗読会の次の日2011年11月28日には自分の本当の故郷ー済州道を訪ね両親のお墓参りを初めてさせていただいたりと、本当に感動と激動の6年間だったわ。
(2016年3月、最後のお別れの日に)
*ここからはすべて高佳恵先生が毎年作って下さったもの(毎年6年生全員と写真を撮って生徒たちのサイン入りの色紙を下さったの。この中には学童に来なかった生徒ももちろんいます。)
(2013年の卒業生-初めて受け持ったのはこの生徒たちが3年生の時)
(2014年の卒業生)
(2015年の卒業生)
(2016年私にとっての最後の卒業生)
大阪第4の学童を受け持つようになるまでは高佳恵先生の事よく知らなくて、舞踊指導の天才とか勝手に思っていたけど、6年間いつも気にかけてくださり、卒業生を送るたび、必ず学童指導員との写真も忘れず撮って卒業式の日にプレゼントしてくださったの。
高佳恵先生は確かに舞踊創作指導の天才だけど、本物の努力家であることも感じたわ。先生は新しい学年が始まる前の春休みから既にその年の創作作品を構想され,創作を始められていたわ。舞踊好きな私(見るだけだけど)は、先生に誘われて舞踊サークルの見学によく行ったわ。先生はどんな小さな意見でも必ず謙虚に受け止め創作にプラスをされ、完璧を目指しておられたの。どれほど多くを学んだかしれないわ。
はじめは怖い印象があったけど、年がたつにつれ先生の気配りや優しさが身に染みて先生に会うといつも心が休まったのよ。毎年わすれず年賀状を下さり、お別れする時もお手紙と可愛いポーチをプレゼントとしてくださったの。私は何も差し上げていないのに…
(学童を退職して間もない頃行われた舞踊発表会を見に行ったら、保護者の方々から思いがけず、素敵な花が刺繍してある白いショールをプレゼントされたわ。結婚式やお祝い事があるときは必ずこのショールを使わせていただいているの。)
この生徒たちは運動会の日、招待状を送ってくれたの。どんなにうれしかったことか…学童での思い出は書いても書いても尽きないからこれぐらいにするね。
話は変わるけど、午前中はすべて自分の時間だったので、君たちとも毎日会っていたね。
朝、君たちの家に行っては保育所に行くお手伝いをしたり、ウリ幼稚班に行くようになってからはバス停まで送ったり,スファが生まれる1年前からはオンマが体調を崩したため、君たちのお弁当を作るようになったり、退職した後、君たちとのかかわりが多くなった分だけ孫日記詩もたくさん書いて30作を超えてしまったね。
今日はこれぐらいにして続きのお話はまた今度ね。
書きたいこと、伝えたいこと山ほどあるけどお休み…
ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ、私の愛しい孫たち・・・
連載7でのお話で、東中を退職した後ハンメがなぜ大阪第4の学童指導員になったのかはお話したよね。覚えてるかなぁ。
28年間、中級学校の学生たちとだけ過ごしていたハンメにとって、初級学校の1、2,3年生たちと過ごすようになった6年間は驚きと感動と新しい発見に満ちた楽しい日々だったわ。
教壇の前に立ち,指示一つで学生が動いてくれる中級生と違い、初級学校低学年では全てのことをゆっくりゆっくり、何回も何回も言い聞かせなければならなかったの。
放課後にたった3時間学校にいるだけだったけど、初級学校に通うようになって一番嬉しかったことは「ウリマルを使いなさい!」なんて一言も言わなくても、いつも教室や校庭にウリマルが飛び交っていることだったの。
1年生にわかりやすく説明してあげようと日本語を使っていても生徒たちは「ソンセンニム、イルボンマル!(先生、日本語!)」と指摘するのよ。あげくの果てには長い間、個別指導をしてきた編入生から、私がちょっと日本語を使った時、「ソンセンニム イルボンマル!」と指摘された時は思わず苦笑いしてしまったわ。でもそれがどんなにうれしいことだったのか君たちにはわかるかなぁ。
学童の生徒が、放課後集まって最初にすることは宿題なの。だいたい1時間は学年別に座り、宿題をするの。早く終わって点検を受けた子供は、宿題が済んだ後、読書をする。1年生は若いソンヒ先生が常時見て、私は主に2,3年生を見るの。
書く宿題なら、誤字のひとつも見逃さないわ。計算問題も別の紙に自分で計算しながら答えの確認をしてあげるの。間違いがあればすぐに自分のチカラで直せるように助言するのよ。読みの宿題は各自が練習し、一人一人点検するの。上手下手は別にして書いてある内容が他人に伝わるように読めたかどうか、正確に読めたかどうかを確認してあげるの。(失敗談があるんだけど後でね。)
勉強のお話はこれぐらいにして、宿題が済めばおやつの時間なの。手洗いやうがいを徹底させ、楽しい音楽を聞かせながらおやつをいただきます。1年目はハンメも一緒になって食べていたのでずいぶん体重が増えたので2年目からはお茶だけ飲んでるの。(笑)
おやつが終われば食器洗いを私がしている間にもう一人の先生が掃除の指導をしてくれるの。その後は思い切り遊ぶわ。クラブ活動が終わり高学年が下校する時、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいる生徒はそのまま下校してしまうの。大体半分ぐらいが残るわね。
天気の良い日は運動場で、サッカー、ドッジボール、かけっこ、1輪者など、子供は本当に遊びの天才だよね。怪我をしないように注意深く見守りながら、年を忘れて一緒に思いっきり遊ぶの。
運動場遊びで一番印象に残っているのは、一輪車の練習だね。毎年6月の初めには大阪府の一輪車大会があるからその日を目標に学童でも一斉に練習が始まるの。私自身が一輪車に乗ったことが無いから大変だったけど、こけてもこけても乗れるまで頑張る生徒たちを見ながら感動のあまり自然に詩が浮かんだわ。
「35メートル」
スンギが走る 1年生のスンギが
両手を広げバランスを取りながら
1輪車大会35メートル直線コース
この日のために何百回こけ続けた事か
こけてもこけても
「ソンセンニム もう一回!」
足もすねも青タンだらけ
「ソンセンニム もう一回だけ!」
本大会まで何とか乗れたらなぁ
無理かなぁ いや 必ず乗れる
自分に言い聞かせるように
励まし続けた私のすねも青タンだらけ
走る走る スンギが走る
1輪車が風を切って走る
両手を広げ ひたすら前に前に
まるでフェニックスのようだ!
人生長い道のりの 35メートル完走!
はじめの一歩だ はじめての挑戦だ
眩しいほど輝いている スンギの笑顔
泣き虫卒業!君は今日 少年になった!
教室で遊ぶ時は男子はほとんどが朝鮮将棋をして遊ぶの。遊びすぎて袋がボロボロになったので自分の持っているヤンダンのあまり布で一生懸命袋を作って持って行った日もあったねぇ。女子はオセロ、トランプ、かるた、お絵かきが大好きよ。ある生徒はストーリのある漫画を書いて遊んだりしているのよ。卓球もみんな大好きよ。
夏休みに入ると一日が長いから、大きな段ボール紙を沢山買ってもらって子どもたちと力を合わせて紙芝居の絵をかいて楽しんだなぁ。紙芝居の絵が出来上がったらグループごとに役割を決めて読みの練習をするの。どんなに楽しいか、何時間でも練習していたかったわ。
紙芝居の発表会をしたり、お誕生会の時はみんなで楽器弾いたり歌を歌ったりマジックをしてもらったりダンスをしたり、子供に戻ってハンメもどんなに楽しかったか知れない。
夏休みにはお昼寝の時間があって畳の部屋に移動するのだけど、決まって眠る前にお話をしてあげたの。そしたら寝るどころかもう一つだけ、もう一つだけとせがまれ調子に乗ってお話していて、「早く寝なさい!」と主任先生から叱られたこともあったわ。(笑笑)
そうそう夏休みや冬休みにはお好み焼きパーティ、焼きそばパーティ、たこ焼きパーティなんかも良くしたなぁ。
でもいいことばかりでは無かったわ。ハンメは学童でもやっぱり失敗してしまったのよ。
宿題をする時間に出来たものを点検してあげるのだけど、ついつい教員だった時の癖が出て隅から隅まで見る癖があったの。それで先生でもないのに誤字を見つけたらチェックを入れたり直させたりしてしまったの。
音読の宿題を点検する時も必要以上に発音の点検をしたため、生徒が混乱してしまったの。担任の先生からはこう習ったのにホ先生は違うことをいうとかおもったらしく…
ある日担任の先生に呼び出され、「これからは宿題の点検は指導じゃなく、宿題をしたか、していないかだけを見てください」ときっぱり言われどんなに驚いたことか。「えぇ?!」と聞き返したわ。
自分では良かれと思ってしていたことが、担任の先生には有難迷惑なことだったことにまったく気がついていなかったの。馬鹿といえばバカだったけどハンメはハンメで何か役に立たねばと一生懸命だっただけにショックだったことは隠せないわ。でも立場を変えて良く良く考えてみたら学童指導員は決して教員ではないんだということに気が付いたのよ。それからはもう一人の先生とも相談して宿題の点検はほどほどに、「したか、していないか」だけを見ることにしたの。最初は物足りなくてつらかったけど…
学童に通った6年間はあっという間だったわ。私の学童指導はは月曜から金曜まで、もう一人の先生は火曜から土曜日までと分担されていたので、私は学童がお休みの土、日を活用していろんな活動をさせていただいたわ。奈良の学校を再校するための準備として行われていた奈良での成人学校や土曜児童教室の講師なども望まれたことはすべて引き受けて兼任させていただいたわ。
(奈良成人学校)
後でまたお話しするけど、学童指導員をしながら日本の詩人と一緒に「朝鮮學校無償化除外反対」の詩集を作ったり、土、日を利用して東京の文科省に抗議に行ったり、広島、京都、奈良、東京へと朗読会に出かけたり、東日本大震災が起きた2011年には東北のウリハッキョまで友人たちと慰問公演に出かけたり、東北に行ったおかげで60年間いつか探しにいかねばと思っていた生まれ故郷ー青森の碇ケ関の生家の跡地まで探せたり、「無償化除外反対アンソロジー」のハングル翻訳版の朗読会に招待されソウルまで行ったばかりか、朗読会の次の日2011年11月28日には自分の本当の故郷ー済州道を訪ね両親のお墓参りを初めてさせていただいたりと、本当に感動と激動の6年間だったわ。
(2016年3月、最後のお別れの日に)
*ここからはすべて高佳恵先生が毎年作って下さったもの(毎年6年生全員と写真を撮って生徒たちのサイン入りの色紙を下さったの。この中には学童に来なかった生徒ももちろんいます。)
(2013年の卒業生-初めて受け持ったのはこの生徒たちが3年生の時)
(2014年の卒業生)
(2015年の卒業生)
(2016年私にとっての最後の卒業生)
大阪第4の学童を受け持つようになるまでは高佳恵先生の事よく知らなくて、舞踊指導の天才とか勝手に思っていたけど、6年間いつも気にかけてくださり、卒業生を送るたび、必ず学童指導員との写真も忘れず撮って卒業式の日にプレゼントしてくださったの。
高佳恵先生は確かに舞踊創作指導の天才だけど、本物の努力家であることも感じたわ。先生は新しい学年が始まる前の春休みから既にその年の創作作品を構想され,創作を始められていたわ。舞踊好きな私(見るだけだけど)は、先生に誘われて舞踊サークルの見学によく行ったわ。先生はどんな小さな意見でも必ず謙虚に受け止め創作にプラスをされ、完璧を目指しておられたの。どれほど多くを学んだかしれないわ。
はじめは怖い印象があったけど、年がたつにつれ先生の気配りや優しさが身に染みて先生に会うといつも心が休まったのよ。毎年わすれず年賀状を下さり、お別れする時もお手紙と可愛いポーチをプレゼントとしてくださったの。私は何も差し上げていないのに…
(学童を退職して間もない頃行われた舞踊発表会を見に行ったら、保護者の方々から思いがけず、素敵な花が刺繍してある白いショールをプレゼントされたわ。結婚式やお祝い事があるときは必ずこのショールを使わせていただいているの。)
この生徒たちは運動会の日、招待状を送ってくれたの。どんなにうれしかったことか…学童での思い出は書いても書いても尽きないからこれぐらいにするね。
話は変わるけど、午前中はすべて自分の時間だったので、君たちとも毎日会っていたね。
朝、君たちの家に行っては保育所に行くお手伝いをしたり、ウリ幼稚班に行くようになってからはバス停まで送ったり,スファが生まれる1年前からはオンマが体調を崩したため、君たちのお弁当を作るようになったり、退職した後、君たちとのかかわりが多くなった分だけ孫日記詩もたくさん書いて30作を超えてしまったね。
今日はこれぐらいにして続きのお話はまた今度ね。
書きたいこと、伝えたいこと山ほどあるけどお休み…