ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

連載 君たちへのラブレタ―8 (楽しかった大阪第4学童での思い出)

2020-06-05 21:31:45 | 詩・コラム
連載 君たちへのラブレター8 (楽しかった大阪第4学童での思い出)





 ユニ、ユナ、リファ、ユファ、ヒジョン、スファ、私の愛しい孫たち・・・
 連載7でのお話で、東中を退職した後ハンメがなぜ大阪第4の学童指導員になったのかはお話したよね。覚えてるかなぁ。




 28年間、中級学校の学生たちとだけ過ごしていたハンメにとって、初級学校の1、2,3年生たちと過ごすようになった6年間は驚きと感動と新しい発見に満ちた楽しい日々だったわ。

 教壇の前に立ち,指示一つで学生が動いてくれる中級生と違い、初級学校低学年では全てのことをゆっくりゆっくり、何回も何回も言い聞かせなければならなかったの。

 放課後にたった3時間学校にいるだけだったけど、初級学校に通うようになって一番嬉しかったことは「ウリマルを使いなさい!」なんて一言も言わなくても、いつも教室や校庭にウリマルが飛び交っていることだったの。

 1年生にわかりやすく説明してあげようと日本語を使っていても生徒たちは「ソンセンニム、イルボンマル!(先生、日本語!)」と指摘するのよ。あげくの果てには長い間、個別指導をしてきた編入生から、私がちょっと日本語を使った時、「ソンセンニム イルボンマル!」と指摘された時は思わず苦笑いしてしまったわ。でもそれがどんなにうれしいことだったのか君たちにはわかるかなぁ。

 学童の生徒が、放課後集まって最初にすることは宿題なの。だいたい1時間は学年別に座り、宿題をするの。早く終わって点検を受けた子供は、宿題が済んだ後、読書をする。1年生は若いソンヒ先生が常時見て、私は主に2,3年生を見るの。

 書く宿題なら、誤字のひとつも見逃さないわ。計算問題も別の紙に自分で計算しながら答えの確認をしてあげるの。間違いがあればすぐに自分のチカラで直せるように助言するのよ。読みの宿題は各自が練習し、一人一人点検するの。上手下手は別にして書いてある内容が他人に伝わるように読めたかどうか、正確に読めたかどうかを確認してあげるの。(失敗談があるんだけど後でね。)

 勉強のお話はこれぐらいにして、宿題が済めばおやつの時間なの。手洗いやうがいを徹底させ、楽しい音楽を聞かせながらおやつをいただきます。1年目はハンメも一緒になって食べていたのでずいぶん体重が増えたので2年目からはお茶だけ飲んでるの。(笑)



 おやつが終われば食器洗いを私がしている間にもう一人の先生が掃除の指導をしてくれるの。その後は思い切り遊ぶわ。クラブ活動が終わり高学年が下校する時、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいる生徒はそのまま下校してしまうの。大体半分ぐらいが残るわね。

天気の良い日は運動場で、サッカー、ドッジボール、かけっこ、1輪者など、子供は本当に遊びの天才だよね。怪我をしないように注意深く見守りながら、年を忘れて一緒に思いっきり遊ぶの。

 
運動場遊びで一番印象に残っているのは、一輪車の練習だね。毎年6月の初めには大阪府の一輪車大会があるからその日を目標に学童でも一斉に練習が始まるの。私自身が一輪車に乗ったことが無いから大変だったけど、こけてもこけても乗れるまで頑張る生徒たちを見ながら感動のあまり自然に詩が浮かんだわ。

 「35メートル」
           
          
スンギが走る 1年生のスンギが
両手を広げバランスを取りながら

1輪車大会35メートル直線コース
この日のために何百回こけ続けた事か

こけてもこけても
「ソンセンニム もう一回!」

足もすねも青タンだらけ
「ソンセンニム もう一回だけ!」

本大会まで何とか乗れたらなぁ
無理かなぁ いや 必ず乗れる

自分に言い聞かせるように
励まし続けた私のすねも青タンだらけ

走る走る スンギが走る
1輪車が風を切って走る

両手を広げ ひたすら前に前に
まるでフェニックスのようだ!

人生長い道のりの 35メートル完走!
はじめの一歩だ はじめての挑戦だ

眩しいほど輝いている スンギの笑顔
泣き虫卒業!君は今日 少年になった!


 教室で遊ぶ時は男子はほとんどが朝鮮将棋をして遊ぶの。遊びすぎて袋がボロボロになったので自分の持っているヤンダンのあまり布で一生懸命袋を作って持って行った日もあったねぇ。女子はオセロ、トランプ、かるた、お絵かきが大好きよ。ある生徒はストーリのある漫画を書いて遊んだりしているのよ。卓球もみんな大好きよ。

 夏休みに入ると一日が長いから、大きな段ボール紙を沢山買ってもらって子どもたちと力を合わせて紙芝居の絵をかいて楽しんだなぁ。紙芝居の絵が出来上がったらグループごとに役割を決めて読みの練習をするの。どんなに楽しいか、何時間でも練習していたかったわ。

 紙芝居の発表会をしたり、お誕生会の時はみんなで楽器弾いたり歌を歌ったりマジックをしてもらったりダンスをしたり、子供に戻ってハンメもどんなに楽しかったか知れない。





 夏休みにはお昼寝の時間があって畳の部屋に移動するのだけど、決まって眠る前にお話をしてあげたの。そしたら寝るどころかもう一つだけ、もう一つだけとせがまれ調子に乗ってお話していて、「早く寝なさい!」と主任先生から叱られたこともあったわ。(笑笑)

 そうそう夏休みや冬休みにはお好み焼きパーティ、焼きそばパーティ、たこ焼きパーティなんかも良くしたなぁ。



 でもいいことばかりでは無かったわ。ハンメは学童でもやっぱり失敗してしまったのよ。

 宿題をする時間に出来たものを点検してあげるのだけど、ついつい教員だった時の癖が出て隅から隅まで見る癖があったの。それで先生でもないのに誤字を見つけたらチェックを入れたり直させたりしてしまったの。

 音読の宿題を点検する時も必要以上に発音の点検をしたため、生徒が混乱してしまったの。担任の先生からはこう習ったのにホ先生は違うことをいうとかおもったらしく…

 ある日担任の先生に呼び出され、「これからは宿題の点検は指導じゃなく、宿題をしたか、していないかだけを見てください」ときっぱり言われどんなに驚いたことか。「えぇ?!」と聞き返したわ。

 自分では良かれと思ってしていたことが、担任の先生には有難迷惑なことだったことにまったく気がついていなかったの。馬鹿といえばバカだったけどハンメはハンメで何か役に立たねばと一生懸命だっただけにショックだったことは隠せないわ。でも立場を変えて良く良く考えてみたら学童指導員は決して教員ではないんだということに気が付いたのよ。それからはもう一人の先生とも相談して宿題の点検はほどほどに、「したか、していないか」だけを見ることにしたの。最初は物足りなくてつらかったけど…

 学童に通った6年間はあっという間だったわ。私の学童指導はは月曜から金曜まで、もう一人の先生は火曜から土曜日までと分担されていたので、私は学童がお休みの土、日を活用していろんな活動をさせていただいたわ。奈良の学校を再校するための準備として行われていた奈良での成人学校や土曜児童教室の講師なども望まれたことはすべて引き受けて兼任させていただいたわ。


(奈良成人学校)

 後でまたお話しするけど、学童指導員をしながら日本の詩人と一緒に「朝鮮學校無償化除外反対」の詩集を作ったり、土、日を利用して東京の文科省に抗議に行ったり、広島、京都、奈良、東京へと朗読会に出かけたり、東日本大震災が起きた2011年には東北のウリハッキョまで友人たちと慰問公演に出かけたり、東北に行ったおかげで60年間いつか探しにいかねばと思っていた生まれ故郷ー青森の碇ケ関の生家の跡地まで探せたり、「無償化除外反対アンソロジー」のハングル翻訳版の朗読会に招待されソウルまで行ったばかりか、朗読会の次の日2011年11月28日には自分の本当の故郷ー済州道を訪ね両親のお墓参りを初めてさせていただいたりと、本当に感動と激動の6年間だったわ。

 
(2016年3月、最後のお別れの日に)

*ここからはすべて高佳恵先生が毎年作って下さったもの(毎年6年生全員と写真を撮って生徒たちのサイン入りの色紙を下さったの。この中には学童に来なかった生徒ももちろんいます。)

 
(2013年の卒業生-初めて受け持ったのはこの生徒たちが3年生の時)


(2014年の卒業生)


(2015年の卒業生)


(2016年私にとっての最後の卒業生)

大阪第4の学童を受け持つようになるまでは高佳恵先生の事よく知らなくて、舞踊指導の天才とか勝手に思っていたけど、6年間いつも気にかけてくださり、卒業生を送るたび、必ず学童指導員との写真も忘れず撮って卒業式の日にプレゼントしてくださったの。

高佳恵先生は確かに舞踊創作指導の天才だけど、本物の努力家であることも感じたわ。先生は新しい学年が始まる前の春休みから既にその年の創作作品を構想され,創作を始められていたわ。舞踊好きな私(見るだけだけど)は、先生に誘われて舞踊サークルの見学によく行ったわ。先生はどんな小さな意見でも必ず謙虚に受け止め創作にプラスをされ、完璧を目指しておられたの。どれほど多くを学んだかしれないわ。

はじめは怖い印象があったけど、年がたつにつれ先生の気配りや優しさが身に染みて先生に会うといつも心が休まったのよ。毎年わすれず年賀状を下さり、お別れする時もお手紙と可愛いポーチをプレゼントとしてくださったの。私は何も差し上げていないのに…





(学童を退職して間もない頃行われた舞踊発表会を見に行ったら、保護者の方々から思いがけず、素敵な花が刺繍してある白いショールをプレゼントされたわ。結婚式やお祝い事があるときは必ずこのショールを使わせていただいているの。)



この生徒たちは運動会の日、招待状を送ってくれたの。どんなにうれしかったことか…学童での思い出は書いても書いても尽きないからこれぐらいにするね。





話は変わるけど、午前中はすべて自分の時間だったので、君たちとも毎日会っていたね。

朝、君たちの家に行っては保育所に行くお手伝いをしたり、ウリ幼稚班に行くようになってからはバス停まで送ったり,スファが生まれる1年前からはオンマが体調を崩したため、君たちのお弁当を作るようになったり、退職した後、君たちとのかかわりが多くなった分だけ孫日記詩もたくさん書いて30作を超えてしまったね。

今日はこれぐらいにして続きのお話はまた今度ね。

書きたいこと、伝えたいこと山ほどあるけどお休み…

 

 
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記念詩 「生まれ故郷―碇ケ関を訪ねて」

2020-06-05 16:12:21 | 詩・コラム
2011年3月11日、日本列島を震撼させた東日本大震災が起こった時、私は大阪、京都、東京、群馬等に在住する友人たちを募って、東北朝鮮初中級学校を訪ね復興支援チャリティコンサートを行いました、その次の日、生まれて初めて自分の生まれた場所である碇ケ関を訪ねました。生まれ故郷を探すにあたりこの当時の支所長だった花岡敏則さん、職員だった黒滝奈保子さんには生涯返すことのできない恩恵を受けました。あれからもう10年近くになりましたが、5年前にもう一度訪ねました。来年また訪ねる予定です。
長いですが、時間が許せば是非ご覧ください。



記念詩 「生れ故郷―碇ヶ関を訪ねて」


 1.キャッスル号に乗って

東北のウリハッキョでの慰問公演を終え
弘前行きの キャッスル号に乗り込んだ

ついに 行くのだ 碇ヶ関に
夢にまで見た 生まれ故郷に

62年もの 長い間
心のどこかで いつも気がかりだった

何処で どんな所で生れたのだろう 私は
いつかは いつかは 探しに行かねば…

果てしなく続く田園風景 青さが目に染みる
トンネルを何度も潜りぬけ 高速バスは行く

「碇ヶ関まで27キロ」 掲示板の文字に
ドックン ドックン 鼓動が高鳴りはじめた 

左下に集落が見える 赤茶っぽい屋根の建物に
はっきりと書かれた 「碇ヶ関温泉郷にようこそ」

一瞬に通りすぎてしまった だが まぎれもなく
私は向かっているのだ 人生の出発点に!




記念詩2.碇ヶ関駅にて
           
弘前から奥羽本線のワンマンカーに乗り
4つ目の駅で降りた 碇ヶ関だ

小高い山に囲まれた 静かな佇まい
見渡す限り 青々とした田畑 リンゴ畑

大正の頃から変わりが無いという
碇ヶ関駅のホームに 立ち尽す

上野発青森行きの 蒸気機関車に乗って
オモニも降りたんだね このホームに

激しい 陣痛に耐えかねて
姉と次兄を連れ やむなく降り立った駅

どんなに心細かっただろうか
頼る人も知る人もいない この駅で

階段を一段一段上り渡り廊下を歩く
階段を一段一段下り出口に向かう

駅員も見当たらない小さな駅
切符を受け取る人もいない駅

62年の歳月を経て 今 ここに立つ
オモニのお腹にいた私が ここに立つ







記念詩3.日曜日の碇ヶ関支所
          
丁度1ヶ月ほど前 FAXを送った
インターネットで捜した 碇ヶ関総合支所に

「私の 生まれた場所を 探してください。
 碇ヶ関の小さな自炊旅館だったそうです。」

手がかりは ただ それだけ 
雲を掴むような おはなし

なのに 総合支所の皆さんは
自分事のように涙し 探し続けて下さった

仙台へ出発する二日前 ついにきた 嬉しい便り
「見つかりました!着いたら支所に来てください」

日曜なのに と 心配する 私に
何時でも良いから と 仰る 黒滝さん

こんな偶然があるだろうか
予約した宿が 総合支所の 隣だったなんて

宿に着くなり向かった 総合支所で
支所長さんと黒滝さんが 暖かく迎えてくれた

沢山の資料、地図、特産物、リンゴ、生ジュース
碇ヶ関の ネーム入Tシャツまで 着こんで

70匹もの 蛍まで 準備してくれていた
碇ヶ関の夜を 蛍と共に 過ごすようにと…



 記念詩4.星空に抱かれるように           

高さ15CMほどの ガラス瓶の中に 
田んぼで取ったと言う 70匹の平家ホタル
蓋には 「ホタルのホテル」と 刻まれていた

昨日の夜 田んぼの近くまで 車を寄せ
ウインカーを チカチカ 点滅させて
集まってきた 蛍を 一気に 詰めたそうな 

夜中の12時 全ての電気を消し
布団に横たわったまま じっと 見つめる
蛍たちが踊りだした 右に左に ぐるぐると

真っ暗闇の中 ホタルが放つ光が
ガラス戸や鏡に反射して作った 幻想的な空間
夢を見ているような 嬉しい錯覚

視力の弱い事が こんなに 効を奏するなんて
まるで 霧の中 湖の傍に 佇んでいるよう
満天の星空に 抱かれているよう

遠い昔 星降る夜 オモニが作ってくれた浴衣を着て 
近所の綾ちゃんと 盆踊りに出かけた日の事が
なぜだか 浮かんでは消え 消えては浮かんだ

花岡支所長さんの 優しい 思いやりが
生涯忘れる事の無い 幸せな夜を くれた
生れ故郷での初めての夜を 心に刻んでくれた




記念詩5.白沢の水場     
          
「こちらです」 朝 支所長さんの声
碇ヶ関支所から車で5分ほどのところ
私が生まれたという 木賃宿の跡地

雑草が茂る空き地だ 思ったより小さい
左横はすぐ山のふもとだ 線路跡がある
汽車が通るたび 家が揺れたそうだ

入り口に 白沢の水場 生命の水場     
山から管を通して 引っ張ってきた水 
江戸時代から 流れ続ける 白沢の水

水道のなかった 昔も今も 共同の水場 
木賃宿の客人も ここで顔を洗い洗濯をし
井戸端会議に花を咲かせた 貴重な場所

オモニもこの水で 炊事洗濯をしたのか
私のオシメを洗い 時には沐浴もさせてくれ
6ヶ月間 触らぬ日がなかった 白沢の水

手を伸ばし触って見た 冷たい!
初めて実感する 生れ故郷の感触
脳裏に浮かぶ セピア色の オモニの顔写真

何度も何度も触ってみる
手のひらで水を受け 口に含んでみる
おいしい! 涙と一緒にごくっと飲み込んだ




記念詩6.花岡チエさんとの対面

「外崎さんの おばちゃんはね
それはそれは 優しい人でしたよ」

捜していた木賃宿の隣で生れ育ち 今も住む
花岡チエさん 3代続いた教員の家に生れた方
私よりも一回り年上の ほっそりした上品な方

旅館代の払えない貧しい人々が 通りすがら
この木賃宿に泊まったそうだ 部屋は4つだけ
子供さん二人抱えて 宿を営んでいた外崎さん

チエさんの話を聞きながら オモニの話を思い出す
駅を降り 大きなお腹抱え当ても無く歩いていた時
1人のお婆さんが うちにおいでと言ってくれたと

部屋に入って間もなく 産婆を待つ時間も無く
私が生まれ へその緒を自分の歯で噛み切ったと
この方に会っていなかったら オモニは?私の命は?

「間違いないわ。この辺で木賃宿はここだけだし
 外崎のおばちゃんなら 必ず 助けたはず!」

有難うございます 花岡さん 生きていてくれて
あなたのおかげで やっと 見つけました
紛れも無い 私のルーツ 生れ故郷の住所を!

「青森県平川市碇ヶ関160番地の5」
命の恩人 外崎さん 証人の 花岡チエさん
手を握り 涙しながら喜び合った 感動の瞬間!



記念詩7.碇ヶ関支所での朗読会
         
花岡チエさんとの感激の対面のあと
興奮覚めやらぬまま 支所に戻った
支所の皆さまが開いて下さった朗読会

「朝鮮学校無償化除外反対」を訴える為
生れて初めて日本語で書いた 詩 <ふるさと>
広島、東京、京都、奈良、大阪の朗読会で、集会で
幾度と無く朗読しつづけてきた 詩 <ふるさと>

その詩を 今 <ふるさと>で 朗読するのだ
足も声も震える こんなこと初めてだ
夫の優しいフルートがそっと励ましてくれる

「生まれ育ったところが故郷だと
 誰が言ったのだろう
 私には故郷なんてなかった
 ふるさとがなかった… 」

誰が想像したであろうか
生れ故郷の 碇ヶ関で 
この詩を朗読する日が来るなんて

この詩を詠むたび 思ってた
誰に 私の悔しさがわかるものかと
誰に 私の悲しみがわかるものかと

だが今 私の胸に迫るものは 感謝の気持だけ 
こんなに 素晴らしい村で生れただなんて
こんなに 素晴らしい人々がいただなんて…



記念詩8.三笠山に登って
            
青々としたアカシヤ あちこちに見える天然杉
白く可憐なリンゴの花に囲まれて
少年期をここで過ごした 葛西善蔵の文学碑

到る処にあじさいの花が 明るく咲いている
支所長さんらが 学生の頃 植えた苗が
ブルー、ピンク、薄紫の花を 毎年咲かせる

三笠山の山頂から 碇ヶ関村の全容が見える
バスの中から見えた「碇ヶ関温泉郷にようこそ」が
総合支所の裏壁だったなんて 嘘みたい

赤、青の屋根が目に付く 全てトタンだそうだ
寒い冬に雪が滑り落ちるよう 工夫されている
碇ヶ関は二つの山脈に囲まれた盆地だったんだ

室町時代から 関所のある宿場町として栄え
村を流れる平川の清水、果てしなく広がるりんご園
豊かな自然といで湯に恵まれた 閑静な里

人口2、800人にまで減ったけど
村に対する誇りは誰にも負けない
黒滝さんも支所長さんも碇ヶ関の人だ

「おまえはリンゴ畑で拾ってきたんだよ。」
言われるたび 青森に帰るから電車賃をくれと
駄々をこねた 昔がほんに懐かしい

「おーい 碇が関ー 私はついに来たよー」
叫びたい気持ちを抑え リンゴ畑を歩き続けた



記念詩9.三笠食堂で

「この村で一番古い三笠食堂で
 お昼をいただきましょう。」

支所長さんにつづいて食堂に入る
昭和の雰囲気が漂う 古いお店
アルバムや雑誌なんかも置いてある

壁に貼られた大きなポスター
<自然薯ラーメン> 美味しそうな響き
「私これにします」 結局 皆このラーメン

ラーメンを待っている間 話が行き交う
今日の朝訪ねた 花岡さんのお父様に
ここのご主人も 習ったそうな

アルバムを見ていると分かる 大正時代の様子
昭和の時代の平川や橋、馬車まで走っている
大阪から生れ故郷を探しにきたと紹介される

「木賃宿の名前がわからんのです」
「あぁ、白沢の水場の木賃宿かね、大黒屋さんや
出前頼まれて よう行ったから間違いないわ」

大黒屋?大黒屋?! 役場でいくら調べても
最後までわからず 諦めかけていた屋号が
こんなにも簡単にわかるなんて 奇跡?偶然?

碇ヶ関に来てビックリすることだらけ
ひとつの 大家族のような村 
血の通い合う 暖かい 私の生れ故郷!



記念詩10.碇ヶ関の名所を巡る
           
三笠食堂の2代目店主 阿部さんから
貴重な証言を頂いた後 たけのこの里に向かう

樹齢200年の大杉の前に佇み 仰ぎ見る
しばし時を忘れ 森林の心地よい香りに酔った

春は山桜が咲き乱れ 夏は楽しい渓流釣り
秋は紅葉、バーベキュー、温泉も楽しむ贅沢さ

コテージが素敵 中に入るとまるで我が家のよう
「来年の秋 姉や兄と 必ず泊まりに来ます」

つい口から出た言葉 でも嘘じゃない 本当だ
何回でも来たい処 小川のせせらぎが心地よい
 
帰って報告すればどんなに喜ぶことだろう
家族みんなで行こうと 言うかも知れない

再び 碇ヶ関駅に戻り写真を撮る 心に刻む
駅隣の 屋内村民プール遊泳館にも立ち寄る 

かけ流しの温泉がある 道の駅いかりがせき
移築した関所の面番所で 江戸時代にタイムトラベル

たけのこの瓶詰め,自然薯そばに青森りんごきらら 
お土産もどっさり 大満足 ポッカリ雲が笑ってる

碇ヶ関の全てを持って帰りたい 大阪に
7色の温泉が 又おいでと 湯煙を立てている



最終章。果てしなく続く旅
          
大阪に向かう飛行機の中で ずっと考えた
私はなぜ 碇ヶ関を 捜し続けたのだろうか
私はなぜ 生地に こだわり続けたのだろうか

人は皆 生地を持つ しかし 選ぶ事は出来ない
ましてや 私は異邦人 流れ流れて 着いた村
昨日今日の話では無い 遡れば 100年も前だ

国を奪われ やむなく祖父が日本に渡り 
祖父を頼って日本に来た父は 母と出会った
職も無く 転々と彷徨う中で 生まれた 私

外国人登録証なるものを初めて見た中学生の時
両指10本の指紋をとられながら 私は思った
私は罪人か? 一生 これに縛られるのかと

心のどこかでいつも 怨んでいた
国を奪ったもの達を 離散家族を作ったもの達を
チマチョゴリも自由に着て歩けない この国を

60年もの間 かたくなに心を閉ざし
決して許す事はなかった 祖父の足を奪った輩
出生地も 知らぬまま 生まれ育った 悔しさを  

がむしゃらに勉強をした ウリマルの勉強を
誰よりも自分の国の言葉を上手に喋りたいと 
異国生れを 下手な口実にはしたくなかった

定年を迎え ふと 我に返ったとき 思った
生れた場所も知らないまま 死んで行くのかと
子供たちに伝えねばならぬものは なんなのかと

心優しい人々が住む 碇ヶ関で 命を授けられ
今もなお 心豊かな この村の人々の お陰で
ルーツを探せた感激、喜び、深まる感謝の気持ち

その想いが強いほどに 私は思うのだ
私の祖父、父、母が生まれ育った誠の故郷を
一度も見ないまま ただ年を重ねるべきなのかと

植民地に継ぐ 南北の分断はあまりにも長すぎた
個々の悲しみに背を向け 頑張り続けた半世紀
背中の丸くなった長兄は 未だ1人で済州島に

必ず捜しにいかねば 堂々と 胸を張って
民族の誇りを守って生きてきた 60年を
決して無駄には出来ない 決してしまい

果てしなく旅は続く でも私の足取りは軽い
必ずや 統一を迎えた故郷で 家族が集い
碇ヶ関でのことを 笑いながら話せる日は来る!

碇ヶ関の人々がそうであったように
私も民族や国籍に拘らず 困った人を助け 
日朝の架け橋になろうと 静かに誓った


          終

     2011年7月19日

2015年10月にもう一度訪ねました。

 







来年また行きますね。まだ元気なうちに皆さんに会いに行きます。
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