私の可愛い孫たち、今日もハンメの話を聞いてね。学校を卒業してからの話だよ。
■歌舞団時代
1967年3月17日、大阪朝鮮高級学校を卒業した私は、次の日から大阪朝鮮歌舞団に入団することになったんだ。大学に進学する友人もいたけど、家庭の厳しい状況を考えると進学なんてとてもじゃないけど口に出せなかったよ。
大阪朝鮮歌舞団は文宣団を改名して1965年度に結成されたけど、歌と踊りを中心に行っていた公演活動を時代の要求に合わせて主にウリマルを使っての公演に転換したの。それで新入団員は全員ウリマルを話すことができる大阪朝高卒業生が選ばれたんだ。
入団して二週間ぐらい過ぎたころ、中央芸術団(現在の金剛山歌劇団)と地方歌舞団合同の第一回新入団員講習会が芸術団の会館で三か月間行われたの。
(開校式の日の写真)
舞踊・声楽・楽器部の三部門にクラスが分かれていたので、私は初級部から続けていた舞踊部に属することになったわ。
講習会では任秋子先生をはじめ河俊弘先生やその道のプロの先生方が毎日指導をしてくださり、舞踊、声楽、チャンゴ、伽耶琴、楽典等をがむしゃらに学んだわ。それから三か月が過ぎたころ卒業試験が行われたの。
舞踊部はあの名高い独舞「歓喜」が課題曲だったんだけど、最後のアレグロの部分がとても難しくて最後まで踊れなかったの。試験日が近づき、ある日、練習場で夜中に一人で練習していたんだけど、完成できなくてシクシク泣いていたら、舞踊部責任者だった崔さんが練習場に入ってきたの。
夜中に何をしているのかと聞かれたので説明すると、彼女がなんて言ったか分かる? 普通は慰めるだろう? でも彼女はすました顔で「悩んでいるわりには努力が足りないんじゃないの?」と一言いうと「泣いている暇はないよ。さぁ練習、練習!」と言って一晩中練習につきあってくれたの。
おかげさまでアレグロ部分を克服して、遂に最後まで踊れるようになったわ。悩んでいる割には努力が足りないという一言はとてもショックだったけど、その日以来、私は少々のことでは弱音を吐かなくなったの。努力すればできないことは何もないと思うようになった。
(閉講式の講師、参加者の全体写真)
教員時代、崔さんから言われたあの時の言葉を、どれほど多くの学生たちに言ったか知れない。彼女は私の芸術活動の一番の先生だったのかも知れない。今も感謝している。
歌舞団生活の思い出は山ほどあるけど、一番の思い出はやはり共和国創建20周年を祝賀するために行われた「100日間革新運動」の時のことだね。
大阪では1968年9月9日を目標に五つの学校を同時に鉄筋校舎に建て替える運動を行っていたの。歌舞団も各支部、分会を毎日のように回りながら同胞たちを鼓舞する公演を1日に2回、3回と行ったわ。5つの学校の竣工式では歌舞団が全て祝賀公演を行ったの。
(東中の竣工式での祝賀公演)
その祝賀公演の台本を準備するため、生野東支部の小路分会の事務所で1週間合宿をしながら同胞たちを取材し台本を書いたのだけど、1世、2世の民族愛、同胞愛、学校愛、師弟愛にどれだけ感動をしたか知れない。
自分がお嫁に行くときいただいた結婚指輪を差し出したハルモニ、結婚式にいただいたお祝い金を全て学校建設に差し出した新郎新婦。東中の生徒たちは自分たちの力で一教室を作るんだと決意し、毎日10円カンパ運動を行ったんだ。ある学生は八尾からのバスにも乗らず毎日歩いて登校してその定期代をカンパしたし、若いオンマたちはおかず代を節約して差し出していた。
その様子を取材しながら感動を抑えきれず、生まれて初めて詩を書いたの。
「어버이숨결속에서」(暖かい愛の中で)。散文か詩か区別できないくらい長く拙い詩だったけど、自分なりに想いは一杯込めたつもりだよ。
その年の年末に朝鮮大学の講堂で全国歌舞団の第一回芸術競演大会が行われたのだけど、私は大会の詩朗読部門に出演し、その自作詩を朗読したの。
その競演大会には韓徳銖議長が参席されていたのだけれど、議長がその詩の朗読を聞きながら涙されたという話を文化局長からお聞きし、どれほど驚いたことか。何度も現地に来られ指導をされ、すべての竣工式に参加された議長だからこそ同胞たちのことを思い出され涙されたと思うわ。
その詩の朗読が1位になり「朝鮮新報」にも掲載されるなんて夢にも思っていなかったからどんなに嬉しかったか。感動のあまり「新報」を何10回読み返したか知れない。その時がちょうど花の20歳だった。
歌舞団部門・詩朗読一位の盾)
でも良いことばかりが続いたのではないわ。基礎知識も無いのにその後偶然書いた詩が2作とも創作賞を戴きビビってしまった私は、その時からまったく詩を書けなくなってしまったの。なのに新報社の方から連絡があり、テーマの決まっている詩を書いてと依頼されてしまったの。私は正直に「今まったく書けないから勘弁してほしい」と言ったけど、編集部の方で必ず推敲してから掲載するからと言って下さったので、要求されたテーマで詩を書いて送ったのだけれど、詩が掲載されてしばらくしてからその詩に対する厳しい批評が「新報」に掲載されたの。
その批評は詩語、詩行に至るまでとても具体的で頭をガーンと殴られたようなショックを感じたわ。でもその時、愚かな私は自分の勉強不足を反省するのではなく、新報社に対し、(だから無理だと言ったのに)と逆恨みをして、二度と詩なんて書くものかと思ってしまったの。
ところがその年、朝鮮大学で行われた一般同胞の競演大会でお会いした、新報社の編集部の方から嘘のような本当の話を聞くことになったの。
あの批評は韓徳銖議長が新報社に自ら電話をされ合評をしてくださり、その批評を「新報」に掲載するように言われたとのこと。編集部が新人たちの詩をもっと吟味し正しい方向に導いていかねばならないことなど、いろいろ指導があったというお話だった。
私は恥ずかしいやら情けないやら複雑な心境だった。自分がどんなに傲慢だったのか、勉強もまともにせず小手先だけで詩を書いて、あげくの果てには少し批判されたからと、二度と詩を書くものかと思った自分が恥ずかしくてその場から逃げ出したいくらいだった。
韓徳銖議長との思い出はそればかりではなかったわ。1971年の春、福井での集いに大阪歌舞団が呼ばれて公演をしたのだけれど、その日議長も来られていたの。公演が終わり宿舎に帰ってまもなく、歌舞団の金団長と共に議長の部屋にすぐ来るように言われ行ってみると、韓徳銖議長が一冊の詩集を差し出されたの。
(詩集「党の旗印のもとに」)
その詩集は1970年10月10日、祖国の文芸出版社が発行した「党の旗印のもとに」という詩集だったの。
朝鮮労働党の創建25周年を記念し祖国の詩人51人が執筆した詩の中に在日詩人3人の詩が掲載されたのだけど、その3人(南時雨、洪允杓、許玉汝)の中に私の詩が入っていたとわざわざ持ってきてくださったの。まだ祖国との往来が実現されていなかった時期だけにどのように入手されたのかは知らないけど、幼い地方の歌舞団員のことをお忘れにならず、公演先まで詩集を持ってきてくださった韓徳銖議長にどれほど感謝したか知れない。その詩は私が3作目に書いた詩で、1969年文芸同中央の「文学芸術」32号に掲載された詩だった。
韓徳銖議長はその日、詩集をくださりながら「オンニョトンムが祖国の詩人になった。本当に嬉しい。詩だけを書く人は多々いるが詩を書き、朗読もできる人はそんなに多くない。これからも両方を頑張りなさい。」と仰った。私が五〇年間、詩作と朗読の両方を続けてきたのは、その日の教えを守り後世に繋げなければという想いだったと思う。
(同胞を引率して朝鮮大学校を訪問)
ちょうどそんな頃だった。1971年の10月から総連中央が実施した第1期文学創作通信教育を受けることになったのは。1年半の間に4回に渡り1週間ずつ行われた実習講習会にも参加し、毎月毎月赤ペンだらけで帰ってくるレポートを見ながらため息つきつつ、真剣に文学の勉強をしたわ。文学概論、朝鮮文学史をはじめ四年間大学で学ぶ内容を一年半で消化せねばならなかったから宿題が多すぎて大変だった。
その時の講師陣は朝鮮大学文学部の先生方と文芸同の詩人や作家の先生方だった。私の第一詩集「山つつじ」の編集をしてくださった鄭和欽先生も講師のおひとりだった。詩分科の担任は金学烈先生だったんだけど、近畿地方に出張で来る度、文学部員たちを指導してくださった先生は、生涯担任の先生だったような気がする。講師のおひとりだった金斗権先生は九〇歳近くになられても、良い資料が見つかるとコピーして送って下さるわ。本当に恩師たちには恵まれた人生だと感謝している。(恩師たちは既にお亡くなりになった。)
1期生の中には今もノンフィクション作家として活躍している高賛侑さん、東京の呉順姫先生等、今もお付き合いの続いている方々がいる。
■ハルベとのなれそめ
堅い話はこれぐらいにしてハルベとのなれそめを少しだけ話そうかな。照れるけど…。
ハルベは高校時代二年先輩だった。学生時代は話もしたことなかったし、特に関心も無かった。他の方々とグループ交際もしていたし…。
私が歌舞団で働き始めたころ、ハルベは朝鮮大学を卒業し大阪朝鮮高級学校の音楽教師として配置されたの。歌舞団と彼が顧問を務める吹奏楽部は共演する機会が結構あったんだけど、ある日、天王寺野外音楽堂で権利擁護のための集会があり、歌舞団は歌唱指導を、朝高吹奏楽部は大会の雰囲気を盛り上げるための演奏を行ったの。集会が終り帰ろうとしたとき、忘れ物に気が付き取りに行ったあと、裏門の扉を開けたら、なんと眩しいぐらいの夕陽が差し込んできたの。その夕陽を背に男の人が立っていたのだけれどそれがハルベだった。私は一瞬ドキッとしてしまって、この世にこんな綺麗な男の人がいたのかとポーっとしてしまったの。一瞬だけど…。
ところがそのあとからドラマは始まった。(笑)
ハンメはね、幼いころから小さな夢を持っていたの。それはね、自分でお金をためてピアノを買うことだった。幼い頃は食べるのが精一杯でピアノを習うなんて夢のまた夢だったけど、歌舞団に入団してからは思い切って家の近くの教室でピアノを習い始めたの。
そんなある日、歌舞団の先輩が、「吹奏楽部の先輩がピアノを売りたいと言っているけど彼の家にピアノを見に行く?」と言ってくれたのでびっくりしたけど一緒に行ったの。
ピアノを見に家に行ってびっくり。彼はどこかのお坊ちゃまかと勝手に想像していたのに、古い四軒長屋の真ん中の家だった。中二階にピアノが置いてあったけど、天井も電線が見える裸天井の山小屋のような部屋だった。
どうしてピアノを売るのかと聞いたら、防音装置が無いので夜に練習したり編曲ができないからと言ってたわ。ピアノを売ってエレクトーンを買うとも言ってたなぁ。エレクトーンならイヤホンで音を聞けるからと。
ピアノはとても丁寧に使っていたらしく傷も無くとても綺麗だった。一目で気にいって購入する約束をして、配達の日程などは後日に連絡することになったの。それからしばらくして歌舞団の先輩がピアノのことで彼の家に連絡を入れたら、なんと、アボジが電話に出られ、彼が交通事故にあって深江橋の住本病院に入院しているとおっしゃった。私はびっくり仰天し、先輩と二人でお見舞いに行ったわ。
彼は、近所の同僚の方の車に乗せてもらって学校に向かう途中でトラックに衝突し、あばら骨が三本折れ、右側の鼻翼が吹っ飛んでしまい、太ももの肉を切除して鼻翼に移植する大きな手術をした後だった。本当に痛々しかった。
先輩が用事があるからと先に帰ってしまったんだけど(今考えればこの先輩が私たちをくっつけようと意図的に帰ったのかもしれない)、彼が「家に行って本を持ってきて」とかなんとか、色々頼みごとをするので、結局病院には何回か行く羽目になったわ。少しマシになったころピアノの配達のこともあったので、家の近くの梅田まで来てもらって私の家までの略図を渡すことになったの。
ちょうどそのころ大阪では万国博覧会が大々的に行われていたんだけど、その日どちらが先に誘ったかは忘れたけど、一緒に万博を観に行く約束をしたの。漫画のような話でしょう? 夏休みだったとはいえ、入院中に万博に行くなんて、初デートが万博だったなんて今思い出しても笑いが出るわね。万博会場に向かう地下鉄の駅で、彼と同じ分科の体育の女教師(恩師の裵菊子先生)に偶然会うわと最初からハプニングだらけ(笑)
その日いろんな国の会場を回っているとき無口なハルベが突然「君、高一の時、吹奏楽部室に一度入って来たことがあっただろう?」と言ったのでびっくりしたけど、(ははーん、この人、私に少しは関心があったんだ)と思ったわ。帰りの地下鉄を降りるときに「電話番号教えて」と言われたけど「自分で調べたら」とつっけんどんに答えてバイバイしたの。結局それから1年半後の1971年11月に、私は彼から買ったピアノを持って彼の処に嫁いだのよ。笑えるでしょう? フフフ
え? 無口なハルベがどのようにプロポーズしたのかって? プロポーズなんてするはずが無いでしょう。交際を始めて一年ほどたったある日、ハルベが急に「誰かが結婚しようと言ったらどうするの?」って聞くからオモニに聞いてみると言ったの。それで家に帰って両親に言ったら「すぐにその人を家に連れてきなさい」と言うことにになってとんとん拍子で婚約式、結婚式と繫がったの。嘘のような本当の話よ。
(結婚式の写真)
結婚式は天王寺の統国寺で行われたのだけど、新郎新婦入場の時、客席からため息交じりに「新郎綺麗ねぇ~」という声が聞こえてきたわ。式場でくすっと笑ってしまったのも四七年前のお・ は・ な・ し!
■結婚一年後に女性同盟に
結婚してから1年後の1972年の10月に女性同盟本部に異動になったの。ちょうどユニのオンマを身ごもって五か月ぐらいだったね。長くいた方々全員が総入れ替えになったの。
歌舞団にはそれまで結婚後も歌舞団活動を続けた女性は一人もいなかったので、私の出産後のことを心配して女性同盟に配置してくださったそうだったけど、急な異動だったので理解ができずショックが大きすぎたのは確かよ。
女性同盟に行ってからは委員長の秘書のような役割を任せられて、大会の報告書や委員長の討論文、そして手記の執筆のお手伝いなんかもしたわ。長女が生まれてからは城東支部への現地指導を任され、娘をシオモニに預け、夜は毎日のように支部で活動したわ。
(女性同盟の専従時代に女性祝賀団を作り大きな定期大会で舞台に立ったこともあった。)
ある時期、「集中運動期間」というのがあってね。自宅は瓢箪山というところにあったんだけど、最終バスが九時に出てしまうので、一か月近く家に帰れず、シオモニ(姑)の家で過ごしたことがあったの。シオモニの家だから良いだろうと、安心しきって久しぶりに家に帰ったら夫(ハルベ)に「私がおとなしいと思ってなめてるのか!」と怒鳴られたわ。生まれて初めて夫に怒鳴られショックを受けた私は、その日のうちに引っ越しを決意し、夫がもともと両親と住んでいた例のあの四軒長屋の中二階(六畳一間と三畳の物置)に引っ越したわ。仕事を続けるために。笑えるだろう? ハルベから買ったあのピアノと、ハルベが買ったエレクトーンもまたあの家に帰ったんだよ。(次号に続く)