(朝鮮学校のある風景52号からの転載)
―はじめにー
スファ、ヒジョン、ユファ、リファ、ユナ、ユニ。6歳から18歳までの私の孫たち!
ハンメはこの頃ね、右の耳がグワーンって耳鳴りしたり、物忘れがひどいんだ。それで、元気なうちに君たちへのラブレターを書いておこうと思ったんだ。最後まで読んでね。
―幼い頃のお話ー
今から71年前、ハンメはね、青森県平川市碇ヶ関という小さな村で生まれたんだよ。日本の植民地から解放され三年が経っていたけど、両親はまともな仕事にもつけず、仕方なくアボジが行商をしながら私たちを育ててくれたんだ。
その年の11月、アボジがなかなか帰ってこないのでオモニがあちこちに連絡を取ってみると、アボジが北海道まで行ったことがわかったんだ。行商の仕事がうまくいかなくて、仲間たちと山の中でどぶろくを作って売っていたのを警察に通報され連行されたんだって。
それでオモニは、大きなお腹(私がお腹の中にいたんだ)を抱えて、六歳の姉と三歳の兄の手を引き、列車を乗り継いで北海道に向かったそうなんだ。
ところが列車の中でオモニの陣痛が始まって、我慢しきれなくなったオモニは、青森の碇ヶ関という駅に降りたんだって。あてはないけど必死に歩き続けていたら、一人のおばさんが近寄ってきて「うちは小さな自炊旅館だけど布団部屋は空いているから、そこでとにかく赤ちゃんを産まないと」といって布団部屋に連れて行ってくれたそうなんだ。
産婆さんが到着する間もなく、布団部屋ですぐに私が生まれたそうだよ。オギャーという声もよく聞こえないほど、弱っていたんだって。でもその親切なおばさんのおかげで私は無事この世に生まれてくることができたんだ。感謝してもしきれない。
それから暖かくなるまでそこでお世話になって、半年後、青森港から連絡船に乗って北海道のアボジを訪ねたんだけど、保釈金も無い私たちはアボジが刑を終えるまでひたすら待つしかなかったんだって。
親子四人がさまよっていた時、今度は一人のおじいさんが、自分の家の馬小屋で寝泊まりすれば良いといって私たちを助けてくれたんだ。
冬になる前にアボジが帰ってきて、私たちは函館の海の近くの小屋で暮らすことになったんだよ。アボジは港で労働者として働くことになり、オモニは一歳になった私をおぶって毎日イカ裂きの仕事に出かけたの。100枚さばけば10枚もらえて、それをお米や野菜と交換して暮らしたんだって。
姉は銭上小学校に通っていた時、いじめられてばかりいたんだって。ある日、弟の頭をバットで叩いたら仲間に入れてあげるといわれ、その日から姉は学校に行かなくなってしまったんだ。それでアボジがいろいろ探して東京に朝鮮学校があることを知り、兄が小学校一年生になる前に池袋に引っ越して東京朝鮮第三初級学校に通うことになったんだ。
その後しばらく経って、私のハラボジが京都で無事暮らしているという知らせがあったので、京都の鳥羽街道という町に引っ越したんだ。ハラボジの家は坂の下にある半洞窟のような家で、入口はあるけど出口が無く窓も無いタコ部屋のような家だった。
姉たちは京都朝鮮第一初級学校に編入し、私は隣のホヨリと遊ぶ時以外はハラボジが引くリヤカーに乗って町中を歩いたの。廃品回収が仕事だから、いつもハラボジの声に合わせて「ボロおまへんか?ボロおまへんか!」と叫びながら一日を過ごしたよ。
ハラボジはお話がとても上手で暇さえあれば朝鮮の昔話をしてくれたの。朝鮮の民謡や時調まで教えてくれたわ。ハラボジは故郷で暮らしているときソダン(今の学校)の先生だったんだ。でも日本人に命令ばかりされるのが嫌で1930年代に一人で日本に渡ってきたそうだけど、第2次世界大戦の時、空襲で左足を失ったんだ。
ある日、ハラボジが義足を脱いで包帯を外していたとき、私は膝から下のない生足を初めて見て、びっくりして泣いてしまった。その時ハラボジは足を失くした時の話をしながら「国を奪われたらこんな足になっても抗議する所もない。お前は朝鮮語をしっかり学んで自分の国を守らなければならないよ」というお話をされたの。
京都でアボジとオモニは洋傘を作る仕事を覚えたんだけど、もっと傘の仕事が多い大阪に行くことになり、ハラボジも一緒に6人で中津という都会の中の田舎に引っ越したんだ。
―ウリハッキョに通った日々(初級部)―
京都にいる時からアボジは在日同胞組織の仕事を手伝っていたけど、中津に引っ越してからは分会長になって生き生きと活動していたなぁ。私は家から一番近い尼崎市立園田小学校分校というウリハッキョに通うことになって。兄も姉も生野区のウリハッキョから園田に編入し、毎朝きょうだい三人で阪急電車に乗って学校に通ったわ。
(1段目左から3人目<最初の女の子>)
分会長だったアボジはよく金日成将軍の話をしてくださった。将軍のおかげで国を取り戻した話やパルチザン闘争の時の武勇伝などいっぱい聞かされて、いつの間にか将軍は憧れの人になっていたなぁ。それとアボジが分会に成人学校を作ったので、私は兄と一緒によく成人学校に行って学校で習った朝鮮の歌を教えてあげたよ。
園田はね、とても環境の良い場所にあったわ。園田の駅から堤防に向かって10分ほど歩くと鉄橋があるの。その鉄橋の下に流れる川は藻川と呼ぶんだけど、水がきれいで川魚が泳いでいるのが見えていたよ。鉄橋を渡るとすぐ左斜め下にウリハッキョがあったの。
(真ん中の手前)
園田のハッキョは、4・24教育闘争の時、弾圧のため閉鎖されたんだけど、1952年に日本学校の分校として再開されたの。だから校長先生も担任の先生も朝・日両方の先生がいた。朝鮮の文字や歌は朝鮮の先生から、日本の文字や歌は日本の先生から習ったよ。
小学校三年生だった1957年に、祖国から初めて教育援助費と奨学金が送られてきた日のことは今も忘れられない。そして五年生だった1959年8月、阪神朝鮮初級学校で兵庫県の連合少年団のキャンプに参加していたとき、ジャカルタで行われた日朝赤十字社間の会談で、祖国への帰国に関する協定が結ばれたことを知り、運動場で一晩中キャンプファイヤ―をして、大人も子どもも一緒になって歌って踊った光景も忘れられない。その二つの出来事は私たちにも祖国があるということを全身に刻み込んでくれたんだ。
(1段目左側)
ハンメは君たちの詩を書いたり、火曜日行動の詩を書いたりしているけど、その始まりは小学生の時にあったと思うんだ。園田の分校では毎年作文や絵画のコンクールがあったんだけど、三年生の時、故郷に一人残ってハルモニと二人で苦労をしている一番上のお兄ちゃんに会ってみたいということを書いたの。それが学校の文集に載って。家に帰ってアボジの前で読んだら、いつもは怖い厳格なアボジが涙をボロボロ流しながら泣いたんだ。私はその日、作文が人を泣かすこともできるんだってことを初めて知った。離散家族だったからこそ誰よりも祖国の統一を願い、統一問題を真剣に考えたのかも知れない。
―ウリハッキョに通った日々(中級部)ー
中学校は北大阪朝鮮初中級学校に通ったんだけど、ここでも思い出は山ほどあるよ。その中でひとつだけ選ぶとしたらT先生との思い出かなぁ。T先生は早稲田大学に通っているとき留学同という組織を通していろいろ学び、朝鮮学校の先生になった方で、私が中三の時に数学の先生として北大阪に赴任されたの。背は高くないけどとても感じの良い先生だった。ある日、抜き打ちテストがあったんだけど、むしゃくしゃしていたから、答案用紙の裏に自分の悩みなんかをだらだら書いていたの。ちょうどそのころ反抗期だったのかもしれない。そしたら終了のチャイムが鳴ってしまって、消す暇もないまま答案用紙を回収されてしまったんだ。きっちり放課後、先生から呼び出しを食らったわ。叱られるのを覚悟して職員室に行ったら、なんと先生は何も言わず一冊の本を差し出されたの。
全和凰作「カンナニの埋葬」、先生はその本を読んで感想文を書いてくるようにおっしゃったの。悩みが多かった時期だから必死に読んで、すぐに原稿用紙4枚の感想文を書いて提出したわ。それから何日かして先生が分厚い封筒をくださったの。中を開けてびっくり。封筒の中には24枚の原稿用紙にびっしり私の感想文に対する感想が書かれてあったの。
中二の時、故郷にいるウェハルモニが亡くなられて、オモニは一人で故郷に帰ったんだけど、何か月たっても帰ってこれず軟禁状態が続いたの。朴正熙軍事政権ができて間もない頃だから、アボジが分会長をしていることや私たちが朝鮮学校に通っていることが全てオモニを帰らせない口実にされたんだ。領事館から人が来て、家族全員韓国籍に変更すること、アボジは分会長をやめること等の条件付きでオモニがやっと日本に帰ってこれることになったわ。
今まで分会長としてバリバリ働いていたアボジが、それから外にも出ず毎日大酒を飲んでいるのを見ながら、私はとてもショックを受けた。尊敬していたアボジが裏切り者になったと思い込んで反抗を続けていたの。そんな幼稚な私に対しT先生は手紙の中で、南北がなぜ分断されたのか、私の家族のような離散家族がなぜ生まれたのか、などを詳しく、わかりやすく書いてくださったの。そのお手紙というか感想文というか、それを読んでからパッと目の前の霧が晴れた気がしたわ。それから一年間T先生は何冊も本を貸してくださり、いろんなお話をしてくださった。たぶん私の文学好きはこのころに始まったと思う。今思えばT先生への想いが私の初恋だったかも知れない。中学卒業後一度も会ったことは無いけど…。
(中級部の時、運動場にプールが出来た日、お祝いに農楽を踊りました、左側)
―ウリハッキョに通った日々(高級部)―
大阪朝鮮高級学校に通うようになってからはグーンと大人になったような気がする。高一の夏休みに住吉の北加賀屋というところで四〇日間過ごしたんだけど、このとき初めて日本学校に通う子どもたちにウリマルを教えたの。一人だけ何度誘っても夏期学校に来ない雲鶴という男の子がいたんだけど、ある日家を訪ねて見たら妹が一人でお留守番していたの。雲鶴が帰ってくるまで妹さんと一緒に歌を歌ったり手遊びしたりして遊んでいたら、雲鶴が帰ってきてびっくりしていたわ。その次の日から雲鶴も妹と一緒に夏期学校に来るようになったの。雲鶴たちにはオモニがいなくて、アボジは飯場で働いて、出張に行けば二、三日帰ってこれないときが時々あったそうなの。それで何度も家に行って手伝っているうちに、私たちはきょうだいのように仲良くなったわ。
夏期学校の修了式の日、雲鶴が私にプレゼントをくれたの。何かわかる? ビー玉とべったんだった。あんなに大事にしていた宝物を…本当に嬉しくて、その日私は大人になったら必ず学校の先生になるんだって決めたんだ。
高二の時は夏期文宣隊員として大阪中を回りながら歌と踊り、お話や詩の朗読で同胞たちに祖国統一運動に立ち上がろうと呼びかけたわ。
高三の夏休みは東成支部に夏期宣伝隊に行ったんだけど、途中で盲腸炎になって済生会病院に入院したんだ。退院して間もなく二学期が始まり運動会の練習が始まったんだけど、ある日、朝高委員会のメンバーが校長室に呼ばれたの。舞踊担当の先生が入院のため来れなくなったので、今年は女子の部を中止しようかという相談だったわ。
私は文化部長だったんだけど、「自分たちの力で何とかしてみます」と大口をたたいてしまった。一旦口に出してしまったからにはやるしかないだろう?
まず舞踊部の三年生に事情を説明し創作を頼んだの。それから委員たちはもちろん、普段は俗にいうヤンキー組にも集まってもらって、「女子の集団体操を成功させたい。そのためにはあなたたちの力が絶対必要だ」と言って彼女らを説得したの。それから1か月余り、みんなのおかげで練習をサボる者は一人もいなかった。私は毎日朝礼台の上に立ってみんなを叱咤激励しながら見守ったわ。どれだけ罵声を飛ばしたか知れない。必死だったんだ。
運動会当日、集団体操は大成功! 閉会のアナウンスがあった途端、女子たちが一斉に私めがけて走ってきたの。覚悟はしていたけど数百人が一斉に向かってきたので私はショックのあまり気絶してしまったの。目が覚めてみたら喜馬病院のベッドの上だった。
みんなは運動会が終われば私を胴上げしようと約束していたそうだけど、何も知らない私はみんなにやられると思ってしまったんだ。体育の先生と一緒に運動場に帰ってきた時すでに薄暗かったけど、多くの友人たちが私の帰りを待っていてくれたの。みんなで一緒に泣いたあの日の感激は今も忘れられない。(次号に続く)
―はじめにー
スファ、ヒジョン、ユファ、リファ、ユナ、ユニ。6歳から18歳までの私の孫たち!
ハンメはこの頃ね、右の耳がグワーンって耳鳴りしたり、物忘れがひどいんだ。それで、元気なうちに君たちへのラブレターを書いておこうと思ったんだ。最後まで読んでね。
―幼い頃のお話ー
今から71年前、ハンメはね、青森県平川市碇ヶ関という小さな村で生まれたんだよ。日本の植民地から解放され三年が経っていたけど、両親はまともな仕事にもつけず、仕方なくアボジが行商をしながら私たちを育ててくれたんだ。
その年の11月、アボジがなかなか帰ってこないのでオモニがあちこちに連絡を取ってみると、アボジが北海道まで行ったことがわかったんだ。行商の仕事がうまくいかなくて、仲間たちと山の中でどぶろくを作って売っていたのを警察に通報され連行されたんだって。
それでオモニは、大きなお腹(私がお腹の中にいたんだ)を抱えて、六歳の姉と三歳の兄の手を引き、列車を乗り継いで北海道に向かったそうなんだ。
ところが列車の中でオモニの陣痛が始まって、我慢しきれなくなったオモニは、青森の碇ヶ関という駅に降りたんだって。あてはないけど必死に歩き続けていたら、一人のおばさんが近寄ってきて「うちは小さな自炊旅館だけど布団部屋は空いているから、そこでとにかく赤ちゃんを産まないと」といって布団部屋に連れて行ってくれたそうなんだ。
産婆さんが到着する間もなく、布団部屋ですぐに私が生まれたそうだよ。オギャーという声もよく聞こえないほど、弱っていたんだって。でもその親切なおばさんのおかげで私は無事この世に生まれてくることができたんだ。感謝してもしきれない。
それから暖かくなるまでそこでお世話になって、半年後、青森港から連絡船に乗って北海道のアボジを訪ねたんだけど、保釈金も無い私たちはアボジが刑を終えるまでひたすら待つしかなかったんだって。
親子四人がさまよっていた時、今度は一人のおじいさんが、自分の家の馬小屋で寝泊まりすれば良いといって私たちを助けてくれたんだ。
冬になる前にアボジが帰ってきて、私たちは函館の海の近くの小屋で暮らすことになったんだよ。アボジは港で労働者として働くことになり、オモニは一歳になった私をおぶって毎日イカ裂きの仕事に出かけたの。100枚さばけば10枚もらえて、それをお米や野菜と交換して暮らしたんだって。
姉は銭上小学校に通っていた時、いじめられてばかりいたんだって。ある日、弟の頭をバットで叩いたら仲間に入れてあげるといわれ、その日から姉は学校に行かなくなってしまったんだ。それでアボジがいろいろ探して東京に朝鮮学校があることを知り、兄が小学校一年生になる前に池袋に引っ越して東京朝鮮第三初級学校に通うことになったんだ。
その後しばらく経って、私のハラボジが京都で無事暮らしているという知らせがあったので、京都の鳥羽街道という町に引っ越したんだ。ハラボジの家は坂の下にある半洞窟のような家で、入口はあるけど出口が無く窓も無いタコ部屋のような家だった。
姉たちは京都朝鮮第一初級学校に編入し、私は隣のホヨリと遊ぶ時以外はハラボジが引くリヤカーに乗って町中を歩いたの。廃品回収が仕事だから、いつもハラボジの声に合わせて「ボロおまへんか?ボロおまへんか!」と叫びながら一日を過ごしたよ。
ハラボジはお話がとても上手で暇さえあれば朝鮮の昔話をしてくれたの。朝鮮の民謡や時調まで教えてくれたわ。ハラボジは故郷で暮らしているときソダン(今の学校)の先生だったんだ。でも日本人に命令ばかりされるのが嫌で1930年代に一人で日本に渡ってきたそうだけど、第2次世界大戦の時、空襲で左足を失ったんだ。
ある日、ハラボジが義足を脱いで包帯を外していたとき、私は膝から下のない生足を初めて見て、びっくりして泣いてしまった。その時ハラボジは足を失くした時の話をしながら「国を奪われたらこんな足になっても抗議する所もない。お前は朝鮮語をしっかり学んで自分の国を守らなければならないよ」というお話をされたの。
京都でアボジとオモニは洋傘を作る仕事を覚えたんだけど、もっと傘の仕事が多い大阪に行くことになり、ハラボジも一緒に6人で中津という都会の中の田舎に引っ越したんだ。
―ウリハッキョに通った日々(初級部)―
京都にいる時からアボジは在日同胞組織の仕事を手伝っていたけど、中津に引っ越してからは分会長になって生き生きと活動していたなぁ。私は家から一番近い尼崎市立園田小学校分校というウリハッキョに通うことになって。兄も姉も生野区のウリハッキョから園田に編入し、毎朝きょうだい三人で阪急電車に乗って学校に通ったわ。
(1段目左から3人目<最初の女の子>)
分会長だったアボジはよく金日成将軍の話をしてくださった。将軍のおかげで国を取り戻した話やパルチザン闘争の時の武勇伝などいっぱい聞かされて、いつの間にか将軍は憧れの人になっていたなぁ。それとアボジが分会に成人学校を作ったので、私は兄と一緒によく成人学校に行って学校で習った朝鮮の歌を教えてあげたよ。
園田はね、とても環境の良い場所にあったわ。園田の駅から堤防に向かって10分ほど歩くと鉄橋があるの。その鉄橋の下に流れる川は藻川と呼ぶんだけど、水がきれいで川魚が泳いでいるのが見えていたよ。鉄橋を渡るとすぐ左斜め下にウリハッキョがあったの。
(真ん中の手前)
園田のハッキョは、4・24教育闘争の時、弾圧のため閉鎖されたんだけど、1952年に日本学校の分校として再開されたの。だから校長先生も担任の先生も朝・日両方の先生がいた。朝鮮の文字や歌は朝鮮の先生から、日本の文字や歌は日本の先生から習ったよ。
小学校三年生だった1957年に、祖国から初めて教育援助費と奨学金が送られてきた日のことは今も忘れられない。そして五年生だった1959年8月、阪神朝鮮初級学校で兵庫県の連合少年団のキャンプに参加していたとき、ジャカルタで行われた日朝赤十字社間の会談で、祖国への帰国に関する協定が結ばれたことを知り、運動場で一晩中キャンプファイヤ―をして、大人も子どもも一緒になって歌って踊った光景も忘れられない。その二つの出来事は私たちにも祖国があるということを全身に刻み込んでくれたんだ。
(1段目左側)
ハンメは君たちの詩を書いたり、火曜日行動の詩を書いたりしているけど、その始まりは小学生の時にあったと思うんだ。園田の分校では毎年作文や絵画のコンクールがあったんだけど、三年生の時、故郷に一人残ってハルモニと二人で苦労をしている一番上のお兄ちゃんに会ってみたいということを書いたの。それが学校の文集に載って。家に帰ってアボジの前で読んだら、いつもは怖い厳格なアボジが涙をボロボロ流しながら泣いたんだ。私はその日、作文が人を泣かすこともできるんだってことを初めて知った。離散家族だったからこそ誰よりも祖国の統一を願い、統一問題を真剣に考えたのかも知れない。
―ウリハッキョに通った日々(中級部)ー
中学校は北大阪朝鮮初中級学校に通ったんだけど、ここでも思い出は山ほどあるよ。その中でひとつだけ選ぶとしたらT先生との思い出かなぁ。T先生は早稲田大学に通っているとき留学同という組織を通していろいろ学び、朝鮮学校の先生になった方で、私が中三の時に数学の先生として北大阪に赴任されたの。背は高くないけどとても感じの良い先生だった。ある日、抜き打ちテストがあったんだけど、むしゃくしゃしていたから、答案用紙の裏に自分の悩みなんかをだらだら書いていたの。ちょうどそのころ反抗期だったのかもしれない。そしたら終了のチャイムが鳴ってしまって、消す暇もないまま答案用紙を回収されてしまったんだ。きっちり放課後、先生から呼び出しを食らったわ。叱られるのを覚悟して職員室に行ったら、なんと先生は何も言わず一冊の本を差し出されたの。
全和凰作「カンナニの埋葬」、先生はその本を読んで感想文を書いてくるようにおっしゃったの。悩みが多かった時期だから必死に読んで、すぐに原稿用紙4枚の感想文を書いて提出したわ。それから何日かして先生が分厚い封筒をくださったの。中を開けてびっくり。封筒の中には24枚の原稿用紙にびっしり私の感想文に対する感想が書かれてあったの。
中二の時、故郷にいるウェハルモニが亡くなられて、オモニは一人で故郷に帰ったんだけど、何か月たっても帰ってこれず軟禁状態が続いたの。朴正熙軍事政権ができて間もない頃だから、アボジが分会長をしていることや私たちが朝鮮学校に通っていることが全てオモニを帰らせない口実にされたんだ。領事館から人が来て、家族全員韓国籍に変更すること、アボジは分会長をやめること等の条件付きでオモニがやっと日本に帰ってこれることになったわ。
今まで分会長としてバリバリ働いていたアボジが、それから外にも出ず毎日大酒を飲んでいるのを見ながら、私はとてもショックを受けた。尊敬していたアボジが裏切り者になったと思い込んで反抗を続けていたの。そんな幼稚な私に対しT先生は手紙の中で、南北がなぜ分断されたのか、私の家族のような離散家族がなぜ生まれたのか、などを詳しく、わかりやすく書いてくださったの。そのお手紙というか感想文というか、それを読んでからパッと目の前の霧が晴れた気がしたわ。それから一年間T先生は何冊も本を貸してくださり、いろんなお話をしてくださった。たぶん私の文学好きはこのころに始まったと思う。今思えばT先生への想いが私の初恋だったかも知れない。中学卒業後一度も会ったことは無いけど…。
(中級部の時、運動場にプールが出来た日、お祝いに農楽を踊りました、左側)
―ウリハッキョに通った日々(高級部)―
大阪朝鮮高級学校に通うようになってからはグーンと大人になったような気がする。高一の夏休みに住吉の北加賀屋というところで四〇日間過ごしたんだけど、このとき初めて日本学校に通う子どもたちにウリマルを教えたの。一人だけ何度誘っても夏期学校に来ない雲鶴という男の子がいたんだけど、ある日家を訪ねて見たら妹が一人でお留守番していたの。雲鶴が帰ってくるまで妹さんと一緒に歌を歌ったり手遊びしたりして遊んでいたら、雲鶴が帰ってきてびっくりしていたわ。その次の日から雲鶴も妹と一緒に夏期学校に来るようになったの。雲鶴たちにはオモニがいなくて、アボジは飯場で働いて、出張に行けば二、三日帰ってこれないときが時々あったそうなの。それで何度も家に行って手伝っているうちに、私たちはきょうだいのように仲良くなったわ。
夏期学校の修了式の日、雲鶴が私にプレゼントをくれたの。何かわかる? ビー玉とべったんだった。あんなに大事にしていた宝物を…本当に嬉しくて、その日私は大人になったら必ず学校の先生になるんだって決めたんだ。
高二の時は夏期文宣隊員として大阪中を回りながら歌と踊り、お話や詩の朗読で同胞たちに祖国統一運動に立ち上がろうと呼びかけたわ。
高三の夏休みは東成支部に夏期宣伝隊に行ったんだけど、途中で盲腸炎になって済生会病院に入院したんだ。退院して間もなく二学期が始まり運動会の練習が始まったんだけど、ある日、朝高委員会のメンバーが校長室に呼ばれたの。舞踊担当の先生が入院のため来れなくなったので、今年は女子の部を中止しようかという相談だったわ。
私は文化部長だったんだけど、「自分たちの力で何とかしてみます」と大口をたたいてしまった。一旦口に出してしまったからにはやるしかないだろう?
まず舞踊部の三年生に事情を説明し創作を頼んだの。それから委員たちはもちろん、普段は俗にいうヤンキー組にも集まってもらって、「女子の集団体操を成功させたい。そのためにはあなたたちの力が絶対必要だ」と言って彼女らを説得したの。それから1か月余り、みんなのおかげで練習をサボる者は一人もいなかった。私は毎日朝礼台の上に立ってみんなを叱咤激励しながら見守ったわ。どれだけ罵声を飛ばしたか知れない。必死だったんだ。
運動会当日、集団体操は大成功! 閉会のアナウンスがあった途端、女子たちが一斉に私めがけて走ってきたの。覚悟はしていたけど数百人が一斉に向かってきたので私はショックのあまり気絶してしまったの。目が覚めてみたら喜馬病院のベッドの上だった。
みんなは運動会が終われば私を胴上げしようと約束していたそうだけど、何も知らない私はみんなにやられると思ってしまったんだ。体育の先生と一緒に運動場に帰ってきた時すでに薄暗かったけど、多くの友人たちが私の帰りを待っていてくれたの。みんなで一緒に泣いたあの日の感激は今も忘れられない。(次号に続く)
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