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ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

歌舞伎に縁がないのに【歌舞伎町】とは、これ如何に?

2024-05-31 15:18:04 | 2023年10月より横浜での日々

5月29日  昨夜は音を立てて風が荒れ狂った。眩しい初夏の季節なのに、天候の変化が激しい。今朝はもう天候回復、曇ってはいたけど、静かな早朝。5時過ぎいつもの散歩へ。【緑道】の山肌には野の花達が優しい微風に揺れていた。どんな小さな草花も愛しい。

    この辺りは4時半ごろには太陽が顔を出す。太宰府より1時間位日の出が早い、その代わり日暮れも早いんだなあ。今はいいけど、晩秋の頃の早い夕暮れは悲しく寂しい気持ちに襲われる。今は私の大好きな若緑輝く初夏、今のうちに動かなきゃあ!!

 先日初めて歌舞伎町あたりに行った。まずは次の画像を御覧じませ。【筋書きより拝借)勘九郎・七之助・虎之介・鶴松君の面々。やっぱり妖しい美しさは、七之助君かしら。

 【筋書き・・プログラムから拝借)

夜の街で有名な「歌舞伎町」は何故歌舞伎町という町名になったのか?江戸時代に芝居小屋があったのか?いや、【中村座・森田座・市村座】江戸三座と言われる芝居小屋があったのは、かつての角筈一丁目と西大久保一丁目辺りの町名が歌舞伎町と命名されたのは昭和23(1948)年。戦後、娯楽街として歌舞伎を上演する劇場を建設する予定だったため「歌舞伎町」と名付けられましたが、計画はとん挫し現在に至ったそうである。私は大沢在昌の【新宿鮫】という本(なかなか面白かった)で、この夜の街を知ったが、今はもっと変化しているのだろう。異世界という感じであった。

その歌舞伎上演が今迄なかった歌舞伎町で〈中村屋〉が舞台に立った。その発想が面白い。歌舞伎町タワーにある【ミラノ座】で。こじんまりとした劇場で舞台と観客席も近く、花道がないので、客席から役者さんが登場したリ、観客には嬉しい親近感満載の公演だった。楽しい舞台で、日頃の憂さを忘れたひと時であった。

【演し物】

正札附根元摺(しょうふだつきこんげんくさずり)(荒事の豪快さと華やかさ)曽我物の踊り

流 星(りゅうせい)雷の夫婦喧嘩に流れ星が観るに見かねて仲裁に入った様子を、おりしも七夕、牽牛星と織姫星に報告する

     という楽しい踊り。勘九郎が「流れ星」となって、雷夫婦・おばあさん・子供の4人を踊り分ける。踊りは定評のある

     勘九郎。見ていて心地よい。

     勘太郎と長三郎の兄弟が。勘太郎はもう中学二年。背も高くなって、見事に踊る。指の先まで神経が届いて感心だ。

福叶神恋噺(ふくかなう かみのこいばな)上方落語「貧乏神」に題材をとった新作落語。七之助の貧乏神「おびんちゃん」楽しい人情噺、世話物。七之助の軽妙であでやかな演技や台詞に観客席は笑いの渦。楽しい新作歌舞伎だった。

歌舞伎好きな方は  こちらもどうぞ  http://blog.livedoor.jp/okuni_n_2012/ (歌舞伎観たまま感じたまま)

娘と車で行ったので、歌舞伎町は外から覗いた、そんな感じだったが、道にはでっかいホストさんやホステスさんの看板が掲げられ、広大なゲーセンには昼間というのに、ネオンなどがキラキラ・ギラギラ。夜ともなれば、不夜城のごとくきらびやかになるのだろうか。いずれにせよ、私のような世代の者には縁のない街だ。             

         

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レトロな世界の図書室へ。(東洋文庫)

2024-05-20 08:41:36 | 2023年10月より横浜での日々

母の日、娘が「多分お母さんが喜ぶと思うところへ連れて行くね」と車で文京区本駒込にある【東洋文庫】というところに連れ出してくれた。入館して…内心「わあ」と叫んでしまった。ほの暗い図書室は半径丈に天井までの図書棚があり、重厚な背表紙の如何にも古い立派な本達が整然と並んでいる。その前には長椅子。座って眺めていると、なんと言ったらいいのだろう。古い時代にさかのぼって本に囲まれている雰囲気。いつまでもその空気に浸っていたいと思わせてしまう部屋。本好きであれば私のこの気持ちはきっと解ってくれるだろうなあ。ラベルが貼ってあるということは手に取ることも出来るのだが・・・。手にとっても私には読めそうもないが。そう、ただこの雰囲気に包まれていたいと思える、レトロな図書室の佇まいだった。

 【東洋文庫】「アジア全域の歴史と文化を対象とする研究図書館ミュージアム」と公式ページにある。私はそんな難しいことは全く解らないが、娘が気に入るだろうと言った、このレトロな図書室の雰囲気に圧倒され、ずっとここに座っていたという気持ちに駆られた。大正時代に三菱財閥を起こした岩崎弥太郎(司馬遼太郎の”龍馬が行く”でもおなじみの)の子息の岩崎久が、日本や中国は勿論、東洋の国々のことを書き記した世界中の本を集めたもので、様々な国で古来からアジアの国々について書き記された本を収集したもの。当時の財閥の財力ならではの収集だろう。https://toyo-bunko.or.jp/

                              

    レトロでゴージャスな雰囲気の図書室・立て看板・庭園。

 併設の【オリエント・カフェ】は小岩井農場の経営だそうな。文庫ランチBook型と言いうのが楽しかった。k珈琲とデザートも付いている。アメリカに住む次女も、私達夫婦が訪れる前には、いろんな旅やイベントを用意して驚かせてくれたものだが、長女も時々こんな風に楽しませてくれる。心地よい時間を過ごすことが出来た。

   母の日にはこんな贈り物も姉妹から届いた。父の分も長生きしてねと。 サクランボ(佐藤錦)や珍しい風味のドレッシング,早速サラダでマイルドな味を楽しんだ。アリガトウ。

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桜盛りの太宰府・福岡・博多へ帰省

2024-04-20 08:27:37 | 2023年10月より横浜での日々

 4月4日福岡空港へ。今回は諸々の用事を抱えての帰省。滞在中スケジュールはびっしりだったが、レンタカーで娘が”アッシーくん”を勤めてくれたので、どうにか予定した用件をクリアーすることが出来た。丁度桜真っ盛りの時期、あいにくの曇り続ではあったが、車の中から、あちこちの桜を愛でることが出来た。

 太宰府では私の散歩コースの一つでもあり、友人達と毎年「桜三昧」を楽しんだ御笠川添いの桜並木も、少しだが歩いて懐かしい風景の中に身を置くことが出来た。満開の桜はもう散り急ぎはじめ、川面には「花筏」が揺れていた。私の境遇は変わっても、自然の風景はいつもながらに私を迎えてくれた。太宰府を離れてまだ1年半だが、もう懐かしい想い出の土地となってしまったことを実感した。帰りの空港では【宗像神社の若布献上出発式式】があっており、神官さんや巫女さんが。春は新若布の季節でもあるんですね。

  若布献上出発式・御笠川添いの桜並木。アイランドシティ(東区香椎照葉あたり)

 連泊したのは東区のアイランドシティにあるホテル。この辺りは松原の向こうに白砂の浜、青い海原が広がっていたし、野鳥が訪れる大きな干潟があったが、大きく姿を変えて、まだこれから発展する街だろうか。突然ニョッキリ!細長い高層ビルが現れてびっくり。変貌ぶりに驚くばかりである。

 久しぶりの福岡の中心地天神の辺りも、変貌を遂げつつあった。世の中が一斉に【スマホ】使用の時代となりつつあるのと一緒で、私が生まれ育った街も、変化のど真ん中にあるようだ。

 お世話になった方のお宅への弔問や文学サークルでご一緒していた99歳になられる方(車椅子だがこん玄関まで出て来て下さって。今月の歌舞伎座の仁左衛門さん・玉三郎さんの話題もだされて、さすがに『博多座にも行けなくなったよ』と仰っていたが、足腰は弱られたけど、頭脳明晰、変わりない話し方にほっと嬉しかった。菩提寺に夫の三回忌のことの打ち合わせも模したし、実家の墓参りも。会いたい叔母や妹弟やいとこ達・友人達にも会えて、久しぶりの「吉塚うなぎ」や「フレンチ」博多ならではの新鮮な海鮮なども合間に味わうことも出来た。今回時間がなく、会えなかった友人達には、またの機会をと約束する。慌ただしくはあったが、故郷はヤッパリいいものだとしみじみと思った次第である。

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初めて【横浜にぎわい座】へ。

2024-03-19 12:13:04 | 2023年10月より横浜での日々

 弥生の月も半ばを過ぎた。まだ三寒四温、気温の上下が続く、”春の嵐?”か。風の強いこと!

太宰府時代「子供文庫」や我が子が同じクラスというPTA関係で縁の出来た童話作家長野ヒデ子さんからのLINEで【横浜にぎわい座へのお誘いがあった。今住んでいるところからメトロで楽に行ける範囲にある寄席なので、即行くことにした。近場の寄席というので気になってもいたので。

   我が家からはグリーLINEからブルーラインに乗り換えて、地理音痴の私でも迷わずにたどり着けた。

長野ヒデ子さんを迎え、新美南吉と那智を語る”桂 文我の『不思議な落語会』と表題にある通り、関西落語の文我師匠とヒデ子さんの対談を挟んだユニークな落語会だった

落語 狸の礼 林家 染吉・新美南吉の童話を落語に「花の木村と盗人たち」桂 文我・新美南吉について話しましょう。長野ヒデ子/桂 文我の対談などなど、仲入りの後は、「天狗さし 染吉」の落語に始まり、文我さんの那智の昔話より「ひとつたたら」・那智についてのヒデ子さん/文我さんの対談など。

南吉の童話や那智の昔話を文我さんがうまく落語として生かしての一席など。「もともと南吉の作品にはそういう楽しさがあるんですよ」と対談でもそんな話が出ていた。会場には若いお母さんや子供達の姿もあった。長野さんも文我さんも、子供達に「紙芝居を」とずっと取り組んでこられた、その縁で「童話作家と落語家」のコンビ誕生となったようだ。

長野ヒデ子さんの天衣無縫というか、大らかなところから巻き起こる彼女の事件?事故(子豚拾った事件や福引事件・脚折った事件など、文我さんに言わせるとユニークで落語にみたいだ、不思議な人だと)なところも加えて、26歳で早世した童話作家新美南吉(教科書には「ごんきつね」が載っているが、他に心に響く作品あり)の遺作「てんごく」に絵を長野さんが描いて、今回刊行された話など。新美南吉を取り上げたのは解るけど、那智がなんで出て来るのか・・・ヒデ子さんがいう不思議なご縁、彼女の作品か「海を返して」からの人と人とがつながっていく、いや繋げる力を彼女が持っているということだろう。

長野さんが今回刊行した新美南吉の遺作「てんごく」は、幼い頃に母に死に分かれた南吉の、母に寄せる愛から生まれた童話。手帳に書き残したものが絵本となった。

 多数の童話作品がある長野さんの作品を少しだけ。

太宰府での「子供文庫」活動の中から主婦の彼女が、押しも押されぬ童話作家となったのは、才能は勿論常に前向きで行動的だったから、その才能にもスポットライトが当たったのだろう。やはり小学校来の仲の良い同級生が「押絵」などで美術名鑑に名前が載るようになったのも、才能と前向きな行動がプラスしてのことだと思う。何のとりえもない主婦の私は、彼女たちの活躍にただただ感心するばかりである。

桂文我さんは、自分の筋・ポリシーを持っている落語家さんのようだ。TVには出演しないとか。大学の客員教授でもある。落語家の方は非常に知識豊かな人が多いが、文我さんも然り。対談を聞いて改めて凄いなと感じた。口調はとても柔らかいのだが。

。お二人の活躍を祈りながら、いや、あれだけのパワーのあるお二人だから、私がそんな事を思わなくても、活動の場は広がっていくことだろう。そういえば長野さんは先日トナムへ美智子様ゆかりの国の祝日「読書の日」のゲストに、招かれて「紙芝居」のことなど講演をしたという。子供達やお母さん達を前に、明るく楽し気に紙芝居をしている画像を拝見した。

夕方迄楽しく過ごし、久しぶりに声を出して笑ったなと嬉しかった。近いし、これから時々「笑い」のひと時を過ごしに「横浜賑わい座」に行くとしようかな。にぎわい座は亡き桂 歌丸さんが二代目館長だったようだ(歌丸さんは横浜生まれ・育ちの人と聞いた)

 ・新美南吉 ・4代目 桂文我  ・長野ヒデ子さんについて詳しくお知りになりたい方は、ネットで検索してくださいね。

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3月・弥生の月を迎えて。

2024-03-04 10:41:45 | 2023年10月より横浜での日々

3月4日(月)

  昨日に続いて眩しい陽光が広がっているが風はまだ冷たい。まさに「早春賦」の趣の朝だ。太宰府の友からLINEに「昨日は粉雪が舞ったよ。」と。白いものがちらついていても、白梅・紅梅にメジロがやって来ていた太宰府の我が家の庭を思い起こし、しばし望郷の念に駆られた。人生は流れる水の如し・・・紆余曲折、留まらず絶えず揺れながら過ぎていくものだという、センチメンタルな想いに浸る自分に苦笑を覚えながら。

 長崎の大村に住む、亡き夫の会社関係の方から「もう喪は明けたでしょうから、祝いの品でも食べて頂きたくて」と【桃カステラ&桃ゼリー】が届いた。長崎地方では桃の節句には桃カステラを節句祝いで親戚や友人に贈る習わしがあるという。長崎は鎖国時代も開港の街。中国の貿易で栄え、中国の文化の影響を受けて明治・大正時代から縁起菓子として「桃カステラ」を作るようになったそうだ。カステラはオランダから入ってきて長崎の銘菓となった。ついでながら、昔の博多は4月3日が「ひな祭り」だった。お盆は8月ひな祭りは4月。でも、関東はお盆は7月ひな祭りは3月(今は博多も3月にしていると思う)そして毎月1日(おついたち)と15日(おじゅうごんち)の朝食は赤飯に紅白なますだった。江戸の頃からの博多商人の風習・慣習の名残りだったのだろう。福岡大空襲で戦後は色んな博多のしきたりや行事なども簡単になったり途絶えたりした。戦争は人も文化も破壊してしまう。

 横浜も開港の歴史のある街。先日福岡からの来客を娘や孫と案内して夕食をとったが、丁度中国のお正月【春節祭】だったので、灯ともし頃になると、提灯を連ねた龍の飾り物が街を彩っていた。有名店の前には長蛇の列、娘が予約を入れていてくれたので、すんなり入ることが出来たが、食事するために延々と並んでいる人達の気力に感心してしまう。私は飲食店で長く並んで待つ・・・のは、どうにも苦手だ。娘が春節祭の提灯を探して買ってきた。中華街商工会で売っていたそうだ。点灯すると真っ赤なに光る蓮をかたどった提灯。アチコチで「それ何処で買った?」と聞かれた。ちょっとした異国情緒のお祭り気分を味わった宵のひとときだった。(龍の飾り物・山下公園にも春節祭の看板が・中華街青の門・手提げて散策、祝い提灯)

   

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