あけぼの

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Scottの結婚式

2010-09-12 20:01:54 | アート・文化

このブログにしばしば登場する教え子、Scott の結婚式と披露宴に参列した。BestManはこれも教え子で同級生のGary。同級生のBrianも出席していた。プロの司会者を雇い、立派な結婚式であった。アメリカの結婚式には今回のほかに過去3回出た。XUの教え子、Gregさんの結婚式、UCの教授、BetsySatoの息子さんの結婚式、UCMikeの結婚式だ。教会で行われる結婚式は大体似たようなもの、TV で見る通りだ。披露宴ではケーキカットはあるものの、Danceやゲームが多く、参会者のスピーチは少ない。

この日Garyを通してScottに提案した。面白くするために盆踊りをしませんか、と。Scottが賛同した。Scott,Gary, Brianとも大学で日本文化や日本語を3年間学び、その間筆者はお盆の意味や盆踊りを教えていたから。BrianはとくにDance上手で盆踊りもうまかったのでBrianに先頭に立つよう促したが遠慮したのでやむなく筆者が先頭に立った。カクテルドレスだったがたおやかに。新郎のScott, Gary, Brianが続いた。この前までお隣さんだったSusanは筆者のクラスを何度か訪問したことがあり、盆踊りも知っているので私の学生の後に続いた。其の夫の写真家Paul45万円のニコンを抱えて被写体の我々にフォーカスした。ふと振り返ると、我々の後ろに列が出来ているではないか。式の参列者が一人また一人と日本の盆踊りの後ろに付き、長い列が出来たのだった。さすが面白いことの好きなアメリカ人、しなやかな踊りに惹かれて踊り、踊らない数人も魅せられたように目を大きく見開いて見つめてくれていた。東京音頭を3回踊ってお辞儀をして終えた。実は東京音頭のつもりだったが東京音頭と炭坑節を混ぜていたらしい。踊りをしっかり覚えていたBrianからブーイングが出て気が付いた。Brian を先頭にしていたら5人とももっとスムーズだったろう。しかし踊りのあと、新婦Deenaさんのお母さんが近づいてきて、「宴がとてもとても盛り上がって嬉しかった。本日の宴の終わりにもう一度お願いします。今度は全員で踊りましょう!」と言ってくれた。式が盛り上がって良かった!Scottも懐かしいクラスの踊りを結婚式で踊れて思い出に残ることだろう。(彩の渦輪)


猫も災難:「えらいところに貰われたニャー」

2010-09-09 06:02:00 | アート・文化

Ayako_colorado_matsutake_neko_001 Ayako_colorado_matsutake_neko_005 

コロラドに6日間滞在し松茸狩りをした。Aさんの家に泊まるのだがそれはボランティアとして外仕事、主に植木の手入れをしに毎年やってくるのだ。汗まみれになって仕事するのでそれは感謝されている。初秋に来る時にはついでに松茸狩りをする。今年の松茸狩りは成功、3回山に入った。新人の若者も誘い、狩る奥義を教えて喜ばれた。四人で8キロぐらいは取ったかな。連日松茸飯やおつゆ、また煮たり焼いたりと、嫌と言うほど食べた。日本では体験も想像もできぬことだ。

 この家の中は多めに買いこむ食品類、調味料類、道具類、もらい物や食べ残しのもので足の踏み場もない。整理したつもりだろうが置き場所がなくて床中物だらけ。空いているのは作られた狭い通路だけなのだ。地下室に至っては大型冷凍庫に予備の冷蔵庫があり、ドアーを開ければものが転げ出るほど一杯詰まっている。車庫は車ではなく使うことのない物の山で一杯、車はいつも外に置く。

 最近貰われた猫にも居場所がない。やっと見つけたソファ-の背もたれの上部に機嫌よくこれ見よがしに寝転がり私たちを眺めていたが、寝がえりを打ってサデクリ落ちた。足の爪を立てて頑張ったが身体の重みは支えられなかった。「猫も木から落ちる」とはこれだ。なかなか出てこないので心配したがやがてとんでもない方向から「にゃー」と発して出てきた。ある時は狭い通路にうずくまっていてAさんに足を踏まれ、びっこを引いていた。Aさんも猫を避けようと身体の重心を失い、物の中に倒れ込み3か所打ち身の怪我をした。猫にとっては寝る平らな場所のない家、油断すれば踏まれる危険だらけの家。外に出たがるのもよくわかる。(自悠人)


モデルもつとめた熟年中米の旅 完~エルサルバドル共和国~

2010-09-07 08:42:53 | アート・文化

Tadaaki_tanabata_elsalvadorhonduras セロヴェルデ高原にて

コアテペケ湖とセロ・ベルデ高原へ出かけた。コアテペケ湖はサンタ・アナ市の郊外にあり一周24キロ、深いところは120メートルもある山間の湖で、水は瑠璃色だ。周囲は緑と霧に囲まれた静寂な雰囲気の避暑地だ。湖畔は人々の憩いの場だが雨季のせいか人が少なかった。湖に飛び込んで見た。ヒヤッと冷たかった。「フリオ!」と叫んだら皆が笑った。湖に突き出した小屋がけで頂いた食事は格別美味だった。ここに来られる人は一握りかも知れぬ。ここでは眸の魅力的な小学校の先生にセロ・ベルデ高原への行き方を聞いた。サンタ・アナからバスで2時間だが途中のエル・コンゴでセロ・ベルデ行きに乗りかえるのだ。

大型バスは薄暗いジャングルの木々の枝と接触しながら登って行く。人の乗り降りのあるうちは安心だったがいつの間にか我々だけになっていた。左右に揺れながら登っていくバス。運転手に促され国立公園入り口料金所で降り、そこから徒歩で100m登った。見晴らし台には多くの観光客がいた。ここは山頂付近、富士の姿に似た活火山イサルコの勇壮な姿は印象的だ。頂きは火口、雲か霧か煙のように上昇し、見え隠れに山を包む様は幻想的だ。そこからは目の高さに見えるが1910mもある。この山に登って見たい衝動に駆られた。周辺の景観を説明してくれたアロンソ氏が「何時でも案内してあげる」と申し出た。面白い。犬も歩いてよい棒に当たったようだ。私は日本の富士山を案内することを約し、楽しみを残した。人々が寄って来て一緒に写真を撮ろうとモデルにさせられた。4-5組のグループと撮った。我々が親しみを持って受け入れられたのは間違いない。後にエルサルバドルは特別親日的と知った。国際空港建設その他、過去日本の援助も多く、日本を目指している国だそうだ。(自悠人)


モデルもつとめた熟年中米の旅 ~エルサルバドル共和国

2010-09-06 15:28:00 | アート・文化

中南米で一番遅れて新政権が誕生し18年経つこの国は現今は安定を享受しているようだが、かつては独裁、弾圧、内戦、大地震などが繰り返され血に染められた歴史がある。首都サンサルバドルに到着して他の中米諸国と変わらぬ雰囲気にホッとした。だが日系人の安宿の主人に、「治安が悪いので個人旅行ではウエイスト・バックやカメラなどは人目に触れないようにしろ」と注意された。だが恐がっていたのでは旅は出来ない。犬も歩けば棒に当たる式の旅には期待があった。

エルサルバドルは九州の半分ぐらいの狭い国土で国内航空機は飛んでいない。貨幣は米ドルがそのまま使えるので換金の必要がなく便利だ。内戦中は国内に仕事がなく多くの働き手は米国に出稼ぎに出ていたが、国の安定とともに帰国し、今は高い失業率に悩まされているようだ。だが男女とも体型は太り気味で三段腹の人が多かった。アメリカナイズされたファーストフードのせいだろう。セントロには軒並みに店が連なっており、市場の混雑ぶりはいずこの国も等しく活気がある。政府は国の経済振興策にコーヒーの生産及びその品質改善を重視している。確かにどこで飲んでも安価で美味しいことは経験した。気付いたことだが目の鋭い人たちを多く見かけた。移動はバス、タクシーのみ。都市間を結ぶ主要道路は整備されており長距離バスも多い。ほんの一部のバスしか冷房はない。窓から熱帯の風が入ってくる。山間部が多いので陽光さえ避ければ汗をかかない。市内、郊外バスの乗客は親切だ。雨季だったせいか旅行者は我々のみ、下車場所を尋ねると多くの乗客が反応してここだここだと教えてくれる。降りたら「この人が同じ方向に行くからついていけ」とバトンタッチする。ある時は乗り継ぎバス停まで連れて行ってくれたりと親切に会うことが多かった。郊外バスの中では懸命に生きる庶民をひしひしと感じた。乗客を目当てに相変わらず物売りがひっきりなしに乗り込んでは降りて行く。一品1ドル以内の商売だから日に20ドル以下の儲けだろう。それをやるしか生きる方法のない大人や子どもたち。彼らなりに汗にまみれて働いている。日本の登校拒否の子どもたちにこの現実を見せてやりたいと思うことしきりだった。同じ人間に生まれながらこの差をどう考えればよいか、と。続く(自悠人)