私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




橋本絹代著「やわらかなバッハ」、春秋社刊、2009年12月20日発行

バッハに付随するイメージとしては、厳格な対位法にもとづく作品と結び付いて、堅いとか難しい、あるいは宗教音楽との関連で荘厳とか崇高とか言ったイメージを抱く人が多いのではないかと思うので、この「やわらかなバッハ」という標題は、意表を突いていて興味を惹かれる。
 この本は、ピアノを学ぶ人達に、「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ*」の演奏を通じて、音楽の本質の理解へ導くことを目的としている。なお、この本では<WTC>(Das Wohltempetri(e)rte Clavierの略)と言う略語を使用しているので、本稿でも以降この本に従って用いる。
 まず、この本で著者が誤訳である「平均律・・・」を避けている点は評価出来るが、著者は必ずしも「平均律」と<WTC>の関係を否定しているわけではない。日本でピアノを習っている人のほとんどは、「平均律」以外にも様々な音律があるということは、知らないのではないかと思われる。ピアノの調律は、定期的に専門の人が来てやってくれるものと思って居るのであろう。そう言う人達を対象として第1章では、簡単に音律の歴史を辿り、平均律に至るまでの様々な音律の存在を説明している。さらに純正な和音について説明し、純正さを犠牲にした平均律の問題点を指摘する。そしてバッハの<WTC>第1巻の表紙に記された”Das Wohltemperi(e)rte Clavier”の意味するところを論じる。18世紀は、それまで主流を成していた中全音律から、より多くの調性での演奏が可能な音律への試みが盛んに行われていた時代で、ヴェルクマイスターを始め、キルンベルガーや平均律を提唱するマールプルクなど、ドイツに於いても様々な音律が提唱されていた。そのような流れの中での、12の長調、12の短調すべてを網羅するバッハの<WTC>成立の意味、そしてそれを実現させた音律がどのようなものであったかが説明される。以前に「バッハの調律法? 自筆譜の装飾模様を巡る最近の論議」で紹介した、<WTC>第1巻の自筆譜の表紙上部に記入された渦巻き模様についても触れている。そして著者は、バッハの<WTC>を可能にした音律は、「・・・等分に近い不等分であることを示しているように思われる」(25頁)とのべている。
 第2章では、音楽に感情表現を求める「アフェクテンレーレ」から初めて、ギリシャ旋法を説明し、ヨハン・マッテゾンの調性格論を始めとする、調性にはそれぞれ性格があるという説を検証する。バロックから20世紀に至る音楽家や学者、文学者の調の性格についての記述には、相反する調性格論が存在する事を挙げて、普遍的な調の性格を見出すことは困難であることを述べている。しかし、著者の指摘にもかかわらず、これほど長年に渉って、多くの人が調の性格について論じていたという事は、一般的に調性による響きの違い、それによって引きおこされる感情に違いがあることが強く認識されていたからに違いない。それに、音律によって和音の響きは異なり、主和音と属和音や下属和音相互の移行による響きの変化も異なるので、人によって調の性格の表現が異なるからと言って、それが調の性格の存在を否定する根拠となるとは言えないように思う。むしろ、調性による響きの違い、それによって感じられる情緒の違いは、言葉によっては表現することが非常に困難であることを意味しているように思われる。著者がこの記述によって、調性の性格を否定的に論じている点には、筆者は疑問を感じる。
 <WTC>に関しては、第1巻、第2巻の前奏曲とフーガ、1つの調に対して4つの曲の曲想を比較して、バッハは調性に対して明確な性格を与えていないことを説明する。さらにこの章で、バッハが<WTC>の編纂に際して、特に第2巻では1/3の曲を、他の調性から移調して当てはめたことを指摘して、バッハが<WTC>のそれぞれの調に性格を与えようとしていたのではないと論じている。その事を示すために、<WTC>以外の作品に於ける移調の例を挙げているが、これらの例の中には、様々な事情によって行われたものがあり、必ずしも調性格を論じるに適した例とは言えないものもある。例えば「マグニフィカート」の、1723年12月25日に初演された、4曲のコラールを挿入した変ホ長調の初稿(BWV 243a)と1732年から1735年に改作されたニ長調の改稿(BWV 243)の場合は、バッハがトーマス・カントールに就任した年の1723年には、木管楽器がコーアトーンの、トランペットやオルガンに対して短3度低い、いわゆる「ティーフ・カムマートーン」であったため、変ホ長調にしたもので、後の改稿は、ライプツィヒの教会音楽の大半と同様コーアトーンより長2度(全音)低い「カムマートーン」の木管楽器に合わせてニ長調に書き直したものである。従って、トランペットやオルガンのコーアトーンの側から見れば、これは移調とは言えないのである。また、独奏楽器のための協奏曲からチェンバロ協奏曲に編曲した際の移調は、鍵盤楽器の音域が理由であったと思われる。著者はこの章で、バッハが移調によって多くの曲を<WTC>のそれぞれの調性に当てはめたことを根拠に、各曲の調性はそれほど意味はなく、平均律で演奏しても差し支えない、と言う結論に導いているとは必ずしも言えない。本来の意図は、さらに読み進めれば、やがて明らかとなる。
 第3章では、現在の日本の音楽教育に関連して、「固定ド読み(音名読み)」と「移動ド読み(階名読み)」について論じているところが興味深い。筆者は以前合唱団に入っていて、その時「移動ド読み」を習得したのだが、後にリコーダー・アンサンブルに入った時に、指導者が「固定ド読み」を用いていて、当初非常に当惑したことを思い出す。これは「余談」の中の余談だが(!)、先日「名曲探偵アマデウス」の「未完成交響曲」の回を見ていたら、シューベルトの和音を説明する人が、「固定ド読み」で説明していて、これでは調性の中での和音の役割が分からないではないかと思った。同じ章で著者が、絶対音階について述べている点に関しては、筆者も同感である。ただ、この章で、ベートーフェンの調感覚について述べている内容は、前の章の調の性格についての記述とはかなり異なって居るように感じた。ベートーフェンは、調の性格を強く意識していたというのである。しかし、ベートーフェンは、本当にキルンベルガーII音律を前提として作曲していたのだろうか? 著者は出典を明らかにしていないが、何らかの根拠があってのことと思う。しかし、時代的に考えると、当時はより平均律に近い1/6ピュタゴラス・コンマによる調律など、より幅広い調性を容認する音律が採用されていたと思うのだが。
 著者が第1章、第2章で述べた音律や調の性格についての記述は、最後の第4章で述べられる、著者が2007年に刊行した「イコール式 バッハ平均律クラヴィーア曲集 1」に繋がっている。平均律で調律されたピアノで<WTC>を弾く場合には、長調と短調という2つの音律しか存在せず、ハ長調であれ嬰ハ長調であれ、その響きには音程以外に何の違いもないと説明する。そして、決して美しいとは言えない平均律で<WTC>を弾くのではなく、例えばキルンベルガーII音律に調律したピアノで、<WTC>のすべての曲を、ハ長調もしくはイ短調に移調して弾けば、純正な三和音を含む美しい響きで演奏出来ると説明する。著者の提唱する「イコール式」の特徴は:
+ 等分平均律に基づく「固定ド読み」ピアノ教育の弊害を軽減する
+ 音楽の構造を正しく理解し、音楽力の向上を図る
+ ハ長調とイ短調を基本の調とする
+ 「キルンベルガー(II)音律」を用いて自然の耳を作る
+ 連弾を取り入れて声部進行を学ぶ
にあると説明する(158頁)。その後さらに具体的な説明を加えているが、この「イコール式 バッハ平均律クラヴィーア曲集 1」の目的が音楽学習にあり、その教材としてこの作品を用いていることがここに至って明らかとなる。
 以上かなり批判的な意見も述べてきたが、筆者は、著者の意図を否定するつもりは全くなく、著者が「やわらかなバッハ」という言葉を用いたのは、「既成概念にとらわれないで自由な精神」(139頁)でバッハの作品に取り組もうという意図に基づいたもので、 そう言う意図から、<WTC>について楽曲分析や原典の資料的研究などのアカデミックな視点からではなく、音律や調性の問題、純正な和音の美しさ、そして<WTC>そのものについて解りやすく解説している点は、ピアノ学習者に限らず、多くの人にとって有用な本であると思う。なお、この本と密接に関連している著者によるブログ「やわらかなバッハ (イコール式音楽研究所)」がある。このブログが2007年4月に始められており、今回紹介した本「やわらかなバッハ」の執筆過程を反映した内容であるが、それだけにとどまらない内容もあるので、興味のある方は閲覧されることをおすすめする。

 しかし筆者は、バッハの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」の本質を学び、鑑賞するには、バッハが想定していた音律を探究し、その音律に調律した当時のチェンバロ、クラヴィコードあるいはその復元楽器で、当時のピッチで演奏することが必要であると考える。バッハが<WTC>の作曲に際し想定した音律は、明らかに平均律ではなく、「巧みな調律(wohltemperierte Stimmung)」であり、そうであるなら調性による響きの違いは存在し、その響きの違いを再現することは、<WTC>の演奏にとって欠くことの出来ない重要な条件であると思う。音律に関してバッハが具体的に記したものも弟子等による伝承も存在しないため不明だが、おそらくは当時最も広く行われていたヴェルクマイスターIIIあるいはそれを多少修正した音律ではないかと思われる。筆者は、音楽作品はその曲が作曲された当時の楽器や音楽環境(これには音律や音程も当然含まれる)と切り離すことが出来ないと考えているので、<WTC>を演奏、鑑賞する場合にも、当時の楽器、音律、音程によることが求められると思うのである。


* 日本語の「平均律クラフィーア曲集」という表現は、原題の”Das Wohltemper(i)erte Clavier”の訳語としては、明らかに誤訳である。英語の”Well-Tempered Clavier”や、フランス語の”Le Clavier bien tempéré”は、元の意味を正しく表現しているのに対して、日本語の「平均律・・・」では、バッハがこの作品を、平均律を前提として作曲したという誤った理解に導く可能性がある。バッハが調律について直接書いたり語ったものが残っていないため、それを理由に平均律を採用していた可能性があると主張する人がいるが、これは全く根拠のない誤りである。それは、バッハと近い関係にあったオルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマンの調律や、バッハの弟子で音楽理論家でもあったヨハン・フィリップ・キルンベルガーの調律に関する考え方などによって、バッハが平均律による調律を行っていなかったことは、疑う余地がない。当時の様々な調律法に対する努力は、あくまでも出来る限り多くの調性で、美しい和音が得られることを前提としたもので、決して単純に均等な半音を得ることにはなかった。”wohltemperiert”をそのまま訳すと「良く調律された」と言う意味になる。しかしこのままでは、どのような音律であっても、その音律に正確に調律するという、技術的な面が強調される可能性があるので、筆者は「巧みに調律された」という訳を用いることにした。この訳語は決してなめらかな、曲名として用いられるに最適な言葉ではないかも知れないが、バロック時代の、より多くの調性で美しい和音を得ようとする努力の意味に込めることが出来ると考え、選んだものである。

** 「私的CD評」では、「バッハの『巧みに調律された鍵盤楽器のための24の前奏曲とフー ガ第1集」をオリジナルのチェンバロで聴く』」で取り上げている。

** なお、ピュタゴラス音律や中全音律、平均律など様々な音律に於ける和音の響きを、電子音ではあるが経験出来るコンテンツが、”Reine, mitteltönige und andere Stimmungen oder Das syntonische Komma in der Musiktheorie und alles, was damit zusammenhängt” と言うサイトにある。言語はドイツ語なので、ドイツ語が読めない人には利用しにくいが、たとえば “Was bedeutet beim Klavierspielen wohltemperiert? Oder: Vom Zauber der reinen Terz.”では、純正と平均律、ヴェルクマイスターIIIの長三度の和音を聞き比べることが出来る。”8. Lektion Mitteltönige und wohltemperierte Stimmungen”では、純正と中全音律、平均律の長調三和音を聞き比べることが出来る。

にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
クラシック音楽鑑賞をテーマとするブログを、ランキング形式で紹介するサイト。
興味ある人はこのアイコンをクリックしてください。

音楽広場
「音楽広場」という音楽関係のブログのランキングサイトへのリンクです。興味のある方は、このアイコンをクリックして下さい。

コメント ( 9 ) | Trackback ( 0 )


« バッハの「ヨ... ショパンの作... »
 
コメント
 
 
 
私も実験しています♪ (REIKO)
2010-04-04 03:49:53
最近、パソコンのMIDI音源(デフォルトはもちろん12等分平均律)を他の音律に変える方法がわかったので、色々と鳴らして実験しています。
なのでとても興味深く書評を読ませていただきました。

<WTC>に関しては、バッハが各調の性格に合わせて曲を書いているとは私も思いません。
12等分ではなく、不等分で「24の調が(許容範囲内の汚くない響きで)演奏できる音律」で全て演奏した時、それら各調の微妙な響きの違いを味わうための曲集では?と思います。

まあ、長調と短調の2曲だけ書いて、それを全て移調し弾き&聴き比べてもいいわけですが、鍵盤曲は移調で(運指的に)弾きにくくなることがあるので、やはりそれぞれに曲を書いた方がベストだと思うわけです。
不等分律時代、鍵盤楽器の「調による響きの違い」は、純正でない(しかし何とか許せる程度の)長三度や5度が「適度に」含まれていることから生じるので、いくら響きが美しくても「全部ハ長調かイ短調に移調してキルンベルガー2で弾く」のは<WTC>の本意から外れるような気がしますね。
別の曲(集)ならともかく。
まあ、曲中の転調で多少響きが変わるかな?とは思いますが。
 
 
 
「巧みな調律」と平均律 (ogawa_j)
2010-04-04 12:05:38
確かブログ「ヘンデルをもっと楽しむ♪」の REIKOさんですね? 標題を「ヘンデルと戦慄の右脳改革音楽箱」に変更されたのですね。記念イヤーが終わっても、ヘンデルの魅力を伝えておられるREIKOさんに敬意を表します。
 いただいたコメントは、実際に鍵盤楽器を弾かれる方のご意見だと思います。鍵盤楽器ですべての調性を弾くという練習の側面を別にしても、"Das wohltemperierte Klavier"は、やはり本来の調性で、非平均律で弾いてこそその本質が分かると思って居ますので、REIKOさんのお考えには賛同します。
(HTMLの関係で、「山括弧」を使うと、コマンドと解釈して、表示されないようです。それでREIKOさんのコメントの一部が欠けている意味が分かりました。)
 
 
 
不安定に漂う温度 (pfaelzerwein)
2010-04-05 02:42:51
ご無沙汰しております。偶々ヨハン・マッテゾンの調性論とバッハの関係を扱っていましたので興味深く拝読しました。

「鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」に関しては触れる立場にありませんが、バッハが置かれていた「時代の立場」と「完成した楽器」、またその奏法の歴史などを考えるとご指摘の点は良く理解出来ます。

指揮者のヘルヴェッヘはそれを、「不安定に漂う温度」と称して、その当時の調性感の秀逸を示唆しています。
 
 
 
Re:「不安定に漂う温度」 (ogawa_j)
2010-04-05 10:47:19
Pfaelzerweinさん、コメントありがとうございます。ヘッレヴェヘの表現は、不均等調律を表現する言葉として、確かに言い得て妙ですね。和音の美しさと、調性による響きの揺らぎが、音楽表現を豊かにしていたように思われます。長調と短調に二元化してしまった調性感が、無調音楽を生み出したのかも知れません。これは思いつきですが・・・。
 
 
 
バッハの好み (たぬき)
2010-04-29 05:07:22
資料がないのでわかりませんが、バッハが好んだのは、ヴェルクマイスターかナイトハルトではないかという説があります。
 
 
 
バッハの音律 (ogawa_j)
2010-04-29 10:42:17
バッハの調律については、様々な説があって、本人がその件について何も残していないため、はっきりしたことは分かりません。そのため最近、href="http://blog.goo.ne.jp/ogawa_j/e/ecdb8169733c1a1b2c60568b137ddabe" target="_blank">バッハの調律法? 自筆譜の装飾模様を巡る最近の論議で説明したような、珍説が続々登場しています。しかし実際はおそらく、たぬきさんがお考えのように、ヴェルクマイスターやナイトハルトの様な、当時の要求に応じて考案された調律法のどれか、あるいはそれを独自に多少調整した音律ではないかと思います。それも「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」のように遠隔の調性を必要とするごく僅かな曲を演奏する時のチェンバロに限ったものではないかと思います。教会カンタータなどは、オルガンや木管楽器の調律やピッチを簡単には変えられませんしね。
 
 
 
二元化 (陰陽)
2012-10-10 21:50:27
教会旋法をイオニアとエオリアに集約した結果として、長調と短調の二元化が完成したのではないでしょうか。
するとそれはバッハの業績ということになるでしょう。
シェーンベルクはバッハを「最初の12音音楽家」と
位置づけたそうですから。

バッハは教会旋法を二元化して近代長短調を確立しました。
二元化した長短調を24の異なる音階開始音で書いて、弟子たちに全調の練習をさせようとしたのが「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」とも考えられますね。

もともと二元化された長調と短調から作られた24曲だとすれば、ハ長調とイ短調だけで弾くことは理にかなっているのではないでしょうか。

更に高度なテクニックを養成するには、ハ長調とイ短調からいろいろな調に移調して弾けばよいと思います。








 
 
 
長調と短調への二元化 (ogawa_j)
2012-10-11 10:54:54
陰陽さん、ご意見ありがとうございます。
 音階の二元化という観点からは、ハ長調とイ短調だけで足りるという考えも出てくるかも知れませんが、楽器の調律が、理論的には平均律の存在は知られていても、実際には和音の純正な響きを求めていた時代に於いては、調性の違いによる和音、旋律進行の違いを意識していたはずで、橋本絹代氏は調性の性格論に否定的ですが、その意識を当時の人達が持っていたことは否定しようが無いように思います。ですから、音階のそれぞれを開始音とした長調と短調、合計24の調性による曲からなる「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」の存在意義は、当時も現在も厳然としてあるように思います。
 
 
 
直近のコメントについて (ogawa_j)
2012-10-11 18:05:49
陰陽さんのコメントに対する先ほどの私のコメントは、バッハの『巧みに調律された鍵盤楽器のための24に前奏曲とフーガ』第2巻を聴くにおける私の、この作品は「長短合わせて24の調性すべてを演奏する事の出来る技巧を獲得するための練習曲を提供することにあり、・・・あまり音律について考える必要はないのではないか」という主旨の記述と矛盾するような気がします。しかしこれは、私としては音律の問題にのみとらわれて、この作品を見るのはおかしいのではないかと思う故のことで、決して音律を無視しているつもりではありません。
 
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。