私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Johann Sebastien Bach: Le Clavier Bien Tempéré - Premier Livre BWV 846-869
Astrée E 8510
演奏: Blandine Verlet (Clavecin Hans Ruckers II, 1624)

1722年にバッハが作製した自筆譜に”Das Wohltemperierte Clavier.”と記されたこの作品の標題は、英語では”The Well-Tempered Clavier”、フランス語では”Le Clavier Bien Tempéré”と訳されているが、これを「平均律クラヴィア」とした日本語の標題は、明らかに誤訳である。それだけに留まらずこの誤訳は、重大な誤解を生む事となっている。
 ギリシャの哲学者ピュタゴラスによって体系化された音律による音階は、純正な完全五度(ドとソの音程)の積み重ねによって成り立っているが、この純正な完全五度を12回重ねて得られるhis(ドイツの音名h、英語の音名ではb、日本語でロの半音高い音)は、出発点のcと一致せず、幾分高くなる。このc’とhisの差、余剰を「ピュタゴラス・コンマ」と言い、このコンマを含む和音は不快なうなり(ウルフ)を生じる*。さらにこのピュタゴラスの音律では長三度の音程が広く、長調3和音が純正にならない。純正な長三度とピュタゴラス音律の長三度の差を「シントニック・コンマ」と言い、これはピュタゴラス・コンマより僅かに狭い。中世までは、長三度は不協和音と考えられてきたが、多声音楽の発展、和音が重視される音楽様式の普及に伴って、長三度は協和音と考えられるようになり、これが調性を決定する重要な和音となって来た。そこで長三度を純正とする音律が種々考案され、 特にハ長調を挟む8つの調で長3度が純正になる中全音律は、ルネサンス後期からバロックにかけて広く用いられる様になった。中全音律では、ハ長調とフラット3つ、シャープ4つまでの調の長三度が純正となる。しかし、11の完全五度は純正より狭く、これを「中全音律の五度」と呼んでいる。Gis - Disの完全五度は、その他の11の完全五度を狭くした事により非常に広く、「ウルフ」を生じる。そして、音楽がより多くの調性を求めるようになってくると、中全音律では、ハ長調から隔たった調性で美しい和音が得られないという問題が深刻になってきて、その解決法がいろいろ考案されるようになってきた。「ピュタゴラス・コンマ」を均等に12の半音の間隔に配する「等分律」あるいは「平均律」という考えは、かなり昔からあったと考えられている。特に固定されたフレットを持ち、曲によって調弦を変更する必要のあるリュートのような楽器においては、平均律は有用だと考えられて来た。しかし実際には平均律が鍵盤楽器の調律として一般的になるのは、19世紀に入ってずっと後のことであった。
 バッハが調律について直接書いたり語ったものが残っていないため、それを理由に平均律を採用していた可能性があると主張する人達がいるが、これは全く根拠のない誤りである。それは、バッハと近い関係にあったオルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマンの調律や、バッハの弟子で音楽理論家でもあったヨハン・フィリップ・キルンベルガーの調律に関する考え方などによって、バッハが平均律による調律を行っていなかったことは、疑う余地がない。当時の様々な調律法に対する努力は、あくまでも出来る限り多くの調性で、美しい和音が得られることを前提としたもので、決して単純に均等な半音を得ることにはなかった。バッハは「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の自筆譜表紙に”Das Wohltemperierte Clavier”と記しているが、この”wholtemperiert”をそのまま訳すと「良く調律された」と言う意味になる。ちなみに、バッハがこの”wohltemperiert”と言う語を用いたのは、おそらくアンドレアス・ヴェルクマイスターが1681年に出版した音律に関する論文の表題で、”Orgel-Probe oder kurtze Beschreibung … wie durch Anweiss und Hülffe des Monochordi ein Clavier wohl zu temperiren und zu stimmen sey…”と記している事に由来していると思われる。したがって、このバッハの作品を「平均律クラフィーア曲集」と呼ぶことは、明らかに誤りであり、不要な誤解を生じる原因となる。そこで筆者はこれを「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」と表記することにした。”wohltemperiert”をそのまま訳すると「良く調律された」となるが、これではどのような音律であっても、その音律に正確に調律するという、技術的な面が強調される可能性があるので、筆者は「巧みに調律された」という訳を用いることにした。この訳語は決してなめらかな、名詞として用いられるに最適な言葉ではないかも知れないが、バロック時代のより多くの調性で美しい和音を得ようとする努力をその意味に込めることが出来ると考え、選んだものである。
 「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」は、オクターヴに含まれる12の半音を基音とする12の長調と12の短調、合わせて24の調性の前奏曲とフーガからなっており、このすべての調性に於いて、破綻の無いよう調律された鍵盤楽器を想定して作曲されている。バッハはこの作品を作曲するに当たって、どのような音律を想定していたかについては、上述のように、バッハが調律について具体的に語ったり書いたりしていないので分からない。唯一手掛かりになりそうなのは、フリートリヒ・ヴィルヘルム・マールプルク(Friedrich Wilhelm Marpurg, 1718 - 1795)がヨハン・フィリップ・キルンベルガー(Johann Philipp Kirnberger, 1721 - 1783)から聞いたという、バッハが鍵盤楽器の調律に於いて「すべての長三度を鋭くする**」と指示したという証言である。この証言の通りであるとすると、バッハはすべての長三度を純正ではなく、いくらかずらして、唸りを生ずるように調律するように指示していたことになる。この様な調律法には、ヴェルクマイスターの音律が適合する。実際にバッハが、ヴェルクマイスターの音律を採用していたという記録や証言は見付かっていないが、筆者は、上述のように「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の標題に、ヴェルクマイスターに由来する表現を用いていることも、一つの間接的証拠に当たるのではないかと考えている。
 上述したように、バッハの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻の自筆譜の表紙には、1722年と記入されている。しかし、この自筆譜に先行するバッハの自筆の草稿が存在したことは、長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのために1720年に書き込み始められた音楽帖(Clavier-Büchlein vor Wilhelm Friedemann Bach. angefangen in Cöthen den 22. Januar Aõ;. 1720)に断片も含め11曲の前奏曲が、そのうち7曲は1721年頃、残りの4曲は1722年秋から1723年の初めにかけてフリーデマンの手で書き込まれていることや、ほかに多数存在する同時代の写譜から推察されている。この曲の構想は、フリーデマンや次男のカール・フィリップ・エマーヌエル、そして多くの弟子達の教育を目的として始められたものであった。自筆譜の作製は1年後の1723年だが、「2声のインヴェンションと3声のシンフォーニア(BWV 772 - 801)」と同じ目的のもとに作曲されたのである。後に1739年から1742年の間に完成した第2巻とともに、バッハの鍵盤楽器のための作品の中でも最も規模の大きい、体系的な曲集として、「鍵盤楽器のための旧約聖書」と呼ばれることがある。
 今回紹介するCDは、ブランディーヌ・ヴェルレが1624年ハンス・リュッカースII世作のチェンバロを演奏しているアストレー盤である。ブランディーヌ・ヴェルレは1942年生まれのフランスのチェンバロ奏者で、パリの国立高等音楽・舞踏学院に学び、1963年から演奏活動を始め、1970年以来クープランやマルシャンなどフランスの作曲家の作品やバッハの作品を数多く録音している。
 演奏している楽器は、フレミッシュ・チェンバロの名器を多く生み出したリュッカース一族の創始者、ハンス・リュッカースの息子、1578年の生まれのハンス・リュッカースII世が1624年に製作した、製作時点では移調鍵盤を備えた、各一対の8フィートと4フィートの弦を持つ楽器であった。17世紀の前半にフランスにもたらされ、まず移調鍵盤が通常の二段鍵盤に変更され、8フィート弦が追加された。最終的に1720年頃に、ショートオクターブが全半音階に変更され、高音域がc’’’からd’’’に延長された。しかし、いずれの改造でも、ケースや響版など、楽器の基本構造は、オリジナルのままに維持されている。そのため、リュッカース工房製のチェンバロとしての特徴を充分に備えている楽器といえよう。このチェンバロは、現在フランスのアルザス地方、コルマーにあるウンターリンデン美術館に所蔵されている。非常に良く管理された名器の豊かで美しい響きを聴くことが出来る。ヴェルレの演奏は、最近の若手奏者に良くあるような速いテンポでバリバリ弾きまくるというものとは対照的で、バロック時代の指使いによって、丁寧に1つ1つの音を紡いで行くものである。このレーベルの常として、奏者の紹介も、演奏のピッチ、調律についての情報も一切明かされていない。ヴェルレの演奏スタイルから推して、a = 415 Hz、いずれかのwohltemperierte調律だと思うのだが・・・。録音は、1993年5月に行われた。
 Astréeは、以前からその詳細がよく分からないレーベルであったが、現在同じくフランスのナイーヴに吸収され、部分的ではあるが、再版されている。この「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻は、現在アストレーと同じE 8510の番号で販売されている。ナイーヴのウェブサイトには、どのようなデザインであるか示されて居らず、もしかしたらアストレーで製作されたCDをそのまま販売している可能性もある。

発売元: Astrée (Naïve)

* 音律については、「西洋音楽の音律についての簡単な説明」を参照のこと。

** Friedrich Wilhelm Marpurg, “... Versuch über die musikalische Temperatur, nebst einem Anhang über den Rameau- und Kirnbergerschen Grundbaß, und vier Tabellen....” Breslau, Johann Friedrich Korn, 1776, p. 213: “Der Hr. Kirnberger selbst hat mir und andern mehrmahl erzählet, wie der berühmte Joh. Seb. Bach ihm, währender Zeit seines von demselben genoßnen musikalischen Unterrichts, die Stimmung seines Claviers übertragen, und wie dieser Meister ausdrücklich von ihm verlanget, alle großen Terzen scharf zu machen.”マールプルクはこれを敷衍して「調律に於いて、すべての長三度を鋭くする、すなわちすべてうなりを発するようにするべきで、純正な長三度が生ずることはあり得ないと言うことで、したがって81/80高くした長三度は不可能という事である」と解説している。(Bach-Dokumente•Band III, 815より引用)

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コメント
 
 
 
Astrée (くらんべりぃ)
2008-05-08 11:00:44
こんにちわ。

「Astrée」ですが、フランスの「naive」(http://www.naive.fr/home.php)が買い取って、アストレ時代のCDはこちらで入手可能なものが多いです。
ご紹介されているCDですが、arkivmusic.comで調べると(http://www.arkivmusic.com/classical/albumList.jsp?name_id1=527&name_role1=1&name_id2=20040&name_role2=2&bcorder=21)、Naiveで販売されていることになっていますが、本家NaiveのサイトではCDが見当たりません。廃盤かもしれないですね。
わたくしがフランス語が読めないので、見落としている可能性は多いですが・・・
 
 
 
AstréeのCD (ogawa_j)
2008-05-09 11:42:32
naiveのサイトは、確かに分かり難いですね。クラシックのサーチでBlandine Verletを探してもありませんし、お手上げです。Astreeで探しても反応しませんし・・・。
 確かにaktivmusic.comでは、Naiveがレーベル名になっていますね、半音階的前奏曲とフーガなどが入ったCDは、レーベル表示が変わっているように見えます。jpcやCD Universeでは、アストレー・レーベルのヴェルレのCDは5つほどありますし、まだCDショップでは"ASTRÉE AUDIVIS"のものがかなりありますが・・・。アストレーはもともとその正体がよく分からないレーベルでしたから、謎は解けないままということなのでしょうか・・・。
 
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