私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Johann Sebastian Bach: Missa (1733)
Teldec Das alte Werk 2564 69057-1
演奏:Rotraud Hansmann (Sporan I), Emiko Iiyama (Sopran II), Helen Watts (Alt), Kurt Equiluz (Tenor), Max van Egmond (Baß), Wiener Sängerknaben, Chorus Viennensis (Leitung•Conductor: Hans Gillesberger), Concentus musicus Wien, Nikolaus Harnoncourt

バッハ晩年の最高傑作「ロ短調ミサ曲」(BWV 232)は、バッハが1748年に、「キュリエ」から「アニュス・デイ」に至るミサ通常文全文の作曲の構想を抱き、すでに1733年に作曲していた「キュリエ」と「グローリア」からなるいわゆる「ミサ」や、1723年に作曲していた「サンクトゥス」などの既存の曲を集め、それに「ニケア信経」、「オザンナ」、「ベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」、「ドナ・ノビス・パーチェム」を新たに加え、1冊の自筆総譜を作製したことによって完成した作品である。その最終的な修正は、1749年から1750年にかけての冬の期間にまで及んだ。この自筆総譜には、全体の標題が欠けており、「1. ミサ」、「2. ニケア信経」、[3. サンクトゥス」、「4. オザンナ、ベネディクトゥス、アニュス・デイ、ドナ・ノビス・パーチェム」の4つの扉ページで区切られた部分からなっている。
 この内「ミサ」の部分は、1733年に作曲された事が、この年の7月27日付のザクセン選帝候フリートリヒ・アウグストII世に宛てた、宮廷作曲家の称号を嘆願する手紙を添えて、パート譜を献呈したことによって確実になっている。この際、総譜ではなく、パート譜を贈ったのは、バッハがドレースデンに於いて演奏する事を想定していたためとも考えられる。このパート譜は、ライプツィヒの教会で演奏するカンタータのパート譜などとは違って、大部分をバッハ自身、一部をカール・フィリップ・エマーヌエル、ヴィルヘルム・フリーデマン、アンナ・マグダレーナ、それに特定出来ないがおそらくバッハ家の一員が作製に携わっている。通奏低音のパート譜は、ライプツィヒの教会で演奏する作品の場合とは違って、カムマートーンで記譜され、指揮のための注記を含んでいる。従ってこのパート譜は、バッハのライプツィヒに於ける職務とは関係なく、私的目的で作製された事は確実である。自筆総譜に使用されている用紙は、バッハの手稿の1732年以降に用いられているものと同じであり、作曲が1732年から1733年の間、より確実には、1733年の7月に行われたものと思われる。
 この選帝候フリートリヒ・アウグストII世に献呈したパート譜は、この「ミサ」の1733年に作曲された時点の状態を「凍結」したものとして、重要な意味を持つ。バッハは、自筆総譜の「ミサ」の部分に、その後細部の修正を加えており、それは主として1748年にミサ通常文全文の作曲に着手して以降に加えられたものである。その一方で、パート譜については、その作製時点でバッハは細部に修正を加えており、それは総譜には反映されていない。従ってこのパート譜は、それ独自の異稿となっているのである。ただ、その「ロ短調ミサ曲」との相違は、細かい細部に限られている。
 それでは、なぜバッハがラテン語の典礼「キュリエ」と「グローリア」からなる「ミサ」を作曲することになったのか? 1733年2月1日に、ザクセン選帝候フリートリヒ・アウグストI世(強王)が死亡し、選帝侯国は、6ヶ月にわたる喪に服した。そのため2月15日の五旬節の日曜日から教会カンタータの演奏は行われなくなり、バッハが指揮を引き受けていたライプツィヒ大学の学生によって構成されているコレーギウム・ムージクムによるツィンマーマンのコーヒーハウスでの演奏会も行われなくなった。そのため、バッハは教会カンタータ演奏やコレーギウム・ムージクムの演奏の準備をする必要がなくなった。バッハは、この機会を利用し、新しく選帝候の地位を継ぐフリートリヒ・ヴィルヘルムII世に自作を献呈し、同時に宮廷の公的地位を得て、当時問題がこじれていたライプツィヒに於ける立場を強くすることを思い立った。バッハは献呈する作品として、カトリック教の宮廷でも、ライプツィヒのルター派の教会においても受け入れられる、「キュリエ」と「グローリア」からなる「ミサ」、あるいは「ミサ・ブレヴィス」が最適であると考えた。そして実際にこの作品が作曲され、1733年7月27日に新しい選帝候に献呈された。
 しかし、バッハがこの様なまとまった大曲を、何ら具体的な演奏の見通し無しに作曲することはあり得ないという意見が強く、例えば、1733年4月21日に、ライプツィヒに於いて、フリートリヒ・アウグストII世への忠誠を誓う礼拝が行われ、その際にこの「ミサ」が演奏されたのではないかという説を唱える研究者もいる。しかしそれを支持する記録は存在せず、その際の演奏のためのパート譜も存在しない。もう一つの演奏の可能性は、上にも述べたドレースデンに於ける作品献呈の直前に、ヴィルヘルム・フリーデマンがオルガニストへの就任が決まっていたルター派のソフィア教会においてである。実際にソフィア教会のオルガンは、カムマートーンであり、指揮のための注記を含む通奏低音のパート譜は、この教会における演奏の可能性を支持している。しかしながら、この演奏を証明するいかなる証拠も存在しない。従って、この「ミサ」が、パート譜献呈の前に演奏されたどうかは不明である。
 「ミサ」に含まれる12曲の内、第7曲の合唱「あなたの大いなる栄光のゆえに、あなたに感謝を捧げます(Gratias agimus tibi/propter magnam gloriam tuam)*」は、1731年8月27日のライプツィヒ市参事会員交代の礼拝で初演されたカンタータ「私達はあなたに感謝します、神よ(Wir danken dir, Gott)」(BWV 29)の第2曲の合唱の転用であり、第9曲の合唱「世の罪を取り除いて下さる方よ、私達を憐れんで下さい(Qui tollis peccata mundi, miserer nobis)」は、1723年8月1日の三位一体後第10日曜日に初演されたカンタータ「見よ、そして何らかの悩みがあるのかを知れ(Schauet doch und sehet, ob irgend ein Schmerz sei)」(BWV 46)の第1曲目の合唱の転用であることは分かっているが、その外の曲についても、転用の可能性を指摘する研究者が多い。クリストフ・ヴォルフは、バッハの自筆譜の筆跡は、その曲が作曲しながら記譜されたのか、すでにある曲を手本に記譜されたのか、あるいは先行する草稿に基づいて記譜されたのかが区別出来ることにもとづいて、第2曲の「キリストよ、哀れみたまえ(Christe eleison)」、第6曲の「私達はあなたを誉め(Laudamus te)」、第8曲「主なる神よ(Domine Deus)」、第10曲「父の右に座しおられる方よ(Qui sedes ad dexteram Patris)」の4曲のアリア、第4曲「天のいと高きところでは神に栄光がありますように(Gloria in excelsis Deo)」、第5曲「そして地上では善意の人の平和がありますように(Et in terra pax hominibus bonae voluntatis)」の合唱は、他の曲の転用である可能性があると述べているが、いずれの場合も現存するバッハの作品の中に該当するもはない。こうした「ミサ」に於ける転用の可能性については、以前から多くの研究者が自説を述べており、極端な場合、第1曲の「 主よ、あわれみたまえ(Kyrie eleison)」の最初の4小節以外はすべて転用であると主張する研究者もいる。しかしいずれの場合もその証拠を挙げることは出来ず、推測の域に留まっている。
 バッハは1733年1月からの服喪期間を有効に利用して、「ミサ」の12曲を入念に作曲していった。合唱曲においては、緻密なフーガによる展開が採用され、アリアでは独唱あるいは二重唱に独奏楽器が加えられ、特に第11曲の「あなただけがいと高き方であり(Quoniam tu solus sanctus)」では、ホルンと2つのファゴットと通奏低音の伴奏を伴ってバスが歌う、非常に印象的なアリアとなっている。これらのアリアが、実際に他の曲からの転用であったかどうかは確認出来ないが、ドイツ語とラテン語の音韻構造の違いは、簡単に転用が可能であったとは思えない。結果として、現存する「ミサ」を構成する各曲に、転用に基づくと思える不自然さは見られない。この「ミサ」が、バッハの指揮の下に演奏されたかどうかは不明だが、献呈したパート譜によって、ドレースデン宮廷に於いて演奏されたとしても、ラテン語典礼の「ミサ」として、決して恥じることのない作品となることを充分に認識して作曲した事は間違いないように思える。
 今回紹介するCDは、ニコラウス・ハルノンクール指揮、コンセントゥス・ムジクス・ヴィーン他のメンバーによるテルデック盤である。テルデックには、同じメンバーによる「ロ短調ミサ曲」(BWV 232)の録音があり、ほぼ同時期に録音されたもののようであるが、今回紹介するCDには、録音の年月日の記載がないので、正確には分からないが、いずれもアナログ録音である。ハルノンクールは、レオンハルトとともに、1970年から1988年にかけて、テルデックのバッハ教会カンタータ全集の録音を行っており、オリジナル編成による唯一の全集として、今日でもその価値は失われていない。この全集では、すべての声楽部は男声によってのみ演奏するという方針で録音されたが、ハルノンクールが担当する第51番と第199番においてのみ、女性歌手がソプラノパートを歌っている。このことは、ハルノンクールがこの全集の録音中、すでに少年によるソプラノの歌唱に不満を抱いていたことを示している。そして特に歌唱力が必要な2曲のカンタータに於いては、原則を逸脱しても女性歌手を起用したものと思われる。ハルノンクールは、この教会カンタータ全集以外においても、「マタイ受難曲」(BWV 244)、「ヨハネ受難曲」(BWV 245)、「クリスマス・オラトーリオ」(BWV 248)においても、オリジナル編成の原則に基づいて演奏しているが、それ以降、「ロ短調ミサ曲」(BWV 232)、「ミサ 1733」、「マグニフィカート」(BWV 243)およびその後の「マタイ受難曲」等の再録音においても女声を起用するようになっている。
 以前から「私的CD評」で何度も述べているように、18世紀のドイツの教会、中でもルター派の教会の礼拝においては、女声が音楽に参加することはなかった。カトリックの教会においても同様である。この事は、現在でもカトリックの聖堂には、少年合唱団が常設されていることからも分かる。従って、教会カンタータなどの礼拝で演奏される曲に於いて、女声が加わることはあり得ない。その演奏に於いて、如何にオリジナル楽器を用い、当時の奏法やピッチ、音律のもとづいた演奏であっても、そこに女声が加わっていることによって、それはもはやオリジナル編成、当時の演奏の再現ではなくなっているのである。その点に於いて、今回紹介するハルノンクール指揮の「ミサ 1733」は、オリジナル編成による演奏ではない。せっかく合唱にヴィーン少年合唱団を起用しているのに残念なことである。このCDには、録音年が記載されていないが、1972年頃の録音と思われる。

発売元:Warner Classics & Jazz

ラテン語のミサの日本語訳は、三ヶ尻正「ミサ曲 ラテン語・教会音楽ハンドブック ―ミサとは・歴史・発音・名曲選―」(株)ショパン 2001年を引用した。

** Christoph Wolff “Johann Sebastian Bach • Messe in h-Moll”, Bärenreiter-Verlag 2009

注)「ミサ 1733」については、上記クリストフ・ヴォルフの著書と新バッハ全集第II部門第1a “Frühfassungen zur h-moll-Messe BWV 232”のウーヴェ・ヴォルフによる校訂報告書を参考にした。

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