私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Johann Sebastien Bach: Le Clavier Bien Tempéré - Deuxième Livre BWV 870-893
Astrée E 8539
演奏: Blandine Verlet (Clavecin Hans Ruckers II, 1624)

バッハが「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1巻(BWV 846 - 869)の自筆譜を作製したのは、1722年のことであったが、「【改訂】 バッハの『巧みに調律された鍵盤楽器のための24に前奏曲とフーガ第1集』を聴く」で紹介した通り、長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのために1720年に書き込み始められた音楽帖(Clavier-Büchlein vor Wilhelm Friedemann Bach. angefangen in Cöthen den 22. Januar Aõ;. 1720)に断片も含め11曲の前奏曲が、そのうち7曲は1721年頃、残りの4曲は1722年秋から1723年の初めにかけてフリーデマンの手で書き込まれていることや、ほかに多数存在する同時代の写譜から、この曲は、フリーデマンや次男のカール・フィリップ・エマーヌエル、そして多くの弟子達の教育を目的として作曲されたものであったことがわかる。
それからおよそ20年、バッハは同じ構想の作品「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第2巻(BWV 870 - 893)を完成させた。この作品には自筆譜があり、これは現在ロンドンの大英図書館に所蔵されている。だたこの自筆の内、嬰ハ短調(BWV 873)、ニ長調(BWV 874)とヘ短調(BWV 881)が記入された3葉が欠落している。表紙も存在しない。この自筆譜は、全紙を横位置にして、左右に二分して記譜されており、見開きの状態で、表面は前奏曲、裏面はフーガが記入されていて、途中で楽譜をめくることなく演奏出来るよう配慮されている。ただ、例外的に前奏曲が見開きに入らないため裏面に続き、そのためフーガの記譜が窮屈になり、五線を追加したり、表面の余白に終わりの部分を記入したり(第11番ホ長調 [BWV 880])、前奏曲が短いため、右半分から書き始め、終わりの部分のみ左半分の最下段に記入し、フーガは裏面から始まり、表面の左半分に続いている(第16番ト短調 [BWV 885])場合などがある。なおこの自筆譜の内、5曲はアンナ・マグダレーナによって記入されている。用紙は6種類用いられており、これと曲の標題の違いなどから、全体は3つのグループに分けることが出来る。バッハの筆跡や、バッハによる修正から、この自筆譜は作曲しながら作製されたものでも浄書されたものでもなく、先行するひとつないし複数の草稿に基づき作製されたものと思われる。いったん記入された後、バッハは細部に多数の修正を行っている。バッハのおよびアンナ・マグダレーナの筆跡および用いられている用紙によって、この自筆譜は1739年から1742年の間に作製されたものと思われる*。
 この自筆譜が完成して間もなく、この作品をはじめとしてバッハの死までに幾つもの作品を筆写した名前の分からない人物によって写譜が作製された。この筆写譜は、現在4つの部分に分かれ、ベルリンの国立図書館、ロンドンの大英図書館、シカゴのニューベリー図書館、そしてかなりの部分が1876年にドレースデンのザクセン国王の音楽蔵書の管理官であったモーリッツ・フュルステナウによって古書店で発見され、国王の音楽蔵書に収蔵されていたが、1945年2月13日の英米空軍による爆撃で焼失したと思われる。しかしこの写譜によって、完全ではないが、自筆譜で欠落している3曲の復元が可能である。
 さらにこの作品には、バッハの弟子で、後に娘婿となったヨハン・クリストフ・アルトニコル(Johann Christoph Altnickol, 1719 - 1759)が、1744年に作製した写譜が存在する。この手稿は、その内容の分析によって、ロンドンの自筆譜とは別の手本にもとづいて筆写されたものと思われ、その手本となったバッハの自筆は、現在存在しない。
 この2系統の手稿の間には、様々な異なった部分があり、ロンドンの自筆譜が最も新しい状態を示しているもの、アルトニコルの写譜が最も新しい状態を示しているもの、どちらが新しい状態なのか判断出来ないもの、両者がほぼ同じ状態にあるものが混在しており、これらをもとにひとつの決定稿を作製することは困難なため、新バッハ全集は、ロンドンの自筆譜を基にしたものと、アルトニコルの写譜によるものの二種を掲載している。
 バッハは、この作品を作曲するにあたり、すでにある曲を利用した。古い形態が残っているものが10曲あり、さらに両系統の手稿の修正などから、古い状態の曲が存在することが推定されるものを含めると、その数は20曲にも上る。これらの中には元の曲を移調して組み入れたものも多数ある。例えば前奏曲嬰ハ長調とフーガ嬰ハ長調は、いずれももとはハ長調であった。なお、古い形態が存在する10曲は、この新バッハ全集の第V部門第6巻の2に補遺として掲載されている。
 「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第2巻の前奏曲は、第1巻よりさらに変化に富んでいるが、特に目立つのは、10曲がAABBの2部構成になっていることである。第1巻では、第24番ロ短調の前奏曲(BWV 869)のみが2部構成である。
 この第2巻も、第1巻同様、弟子達の教育を目的に作曲されたもので、その事は多数の筆写譜が存在することによって分かる。アルトニコルの写譜あるいはその手本による写譜は比較的限られており、ロンドンの自筆譜あるいはその系統のすでに焼失してしまった手稿にもとづく写譜の方が圧倒的に多い。
 バッハがこの第2巻をいつ頃から作曲し始めたかは、存在する古い状態の曲の状態からも明確には判断出来ない。これらの古い状態の曲は、自筆ではなく、一部アンナ・マグダレーナ、それにバッハの弟子であったヨハン・カスパー・フォーグラー(Johann Caspar Vogler, 1696 - 1763)の写譜などによって存在するが、前奏曲ニ短調(BWV 875a)のフォーグラーによる写譜が、1729年頃に行われたこと以外は、その作曲年ははっきりしない。しかしアンナ・マグダレーナによる写譜は、ロンドンの自筆譜とそれほど時間的に隔たっていないようなので、第2巻の作曲は、かなり短時間に行われたと考えて良いようである。
 これら二つの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」については、24すべての調性を破綻無く演奏する事の出来る音律に多くの注意が注がれていて、そのために第1巻の自筆譜の表紙の上部にある渦巻き状の装飾模様が、音律を示していると言う説とその「解読」なるものが多数提示されているが、筆者は、バッハがこの二つの作品を作曲した目的は、通常はほとんど使用されることのない調性も含め、長短合わせて24の調性すべてを演奏する事の出来る技巧を獲得するための練習曲を提供することにあったと考えている。この二つの作品は、全体を通して演奏する事を目的として居らず、唯一の音律によって全体を演奏する必要もなかったのではないかと思われる。場合によっては、曲に応じて調律を変更することも可能である。それ故あまり音律について考える必要はないのではないかとも思えるのである。
 今回紹介するCDは、「【改訂】 バッハの『巧みに調律された鍵盤楽器のための24に前奏曲とフーガ第1集』を聴く」で紹介したCDと同じ、ブランディーヌ・ヴェルレが1624年ハンス・リュッカースII世作のチェンバロを演奏しているアストレー盤である。このチェンバロは、アントワープのリュッカース一族の創始者、ハンス・リュッカースの息子、1578年生まれのハンス・リュッカースII世が製作した、製作時点では移調鍵盤を備えた、各一対の8フィートと4フィートの弦を持つ楽器であった。17世紀の前半以降フランスに於いて何度か改造され、最終的に1720年頃に、ショートオクターブが全半音階に変更され、高音域がc’’’からd’’’に延長された。しかし、いずれの改造でも、ケースや響版など、楽器の基本構造は、オリジナルのままに維持されている。このチェンバロは、現在フランスのアルザス地方、コルマーにあるウンターリンデン美術館に所蔵されている。非常に良く管理された、豊かで美しい響きを聴くことが出来る。ヴェルレの演奏は、最近の若手奏者に良くあるような速いテンポでバリバリ弾きまくるというものとは対照的で、バロック時代の指使いによって、丁寧に1つ1つの音を紡いで行くものである。このレーベルの常として、奏者の紹介も、演奏のピッチ、調律についての情報も一切明かされていない。ヴェルレの演奏スタイルから推して、a = 415 Hz、いずれかのwohltemperierte調律だと思うのだが・・・。録音は、1994年4月に行われた。
 Astréeは、現在フランスのナイーヴに吸収され、その音源は部分的ではあるが、再版されている。この「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第2巻は、現在アストレーと同じE 8539の番号で販売されている。ナイーヴのウェブサイトには、どのようなデザインであるか示されて居らず、もしかしたらアストレーで製作されたCDをそのまま販売している可能性もある。

発売元: Astrée (Naïve)

注)「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第2巻の原典と成立事情については、新バッハ全集第V部門第6巻の2のアルフレート・デュルによる校訂報告書を参考にした。

* 巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第2巻に組み入れられた曲の原曲のいくつかについては、「ケーテン時代のバッハによる弟子達の教育のための鍵盤楽器曲を聴く」で触れているので、参照されたい。

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