私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 




Bach: Goldberg Variations, 14 Canons
Harmonia mundi USA HMU 907425/26
演奏: Richard Egarr (Harpsichord)

バッハの「ゴルトベルク変奏曲(BWV 988)」のCDは、すでに「グスタフ・レオンハルトによるゴルトベルク変奏曲」の項で紹介したが、その際バッハが指定した反復記号が全て無視されている点に触れた。この点に関して、ブログ「The Art of Bach」の「くらんべりぃ」さんからコメントをいただき、リチャード・エガーの演奏によるCDをご紹介いただいた。このCDは、単にバッハの指定した反復記号を全て守った「完全版」であるだけではなく、他にも特徴のあるCDなので、今回取りあげることにした。 作品そのものについては、上述の筆者の投稿を参照されたい。
 エガーが添付の解説書で述べている点の一つは、演奏に使用しているチェンバロに関することで、楽器そのものは1638年アントワープのリュッカース作になるチェンバロをジョエル・カッツマンが1991年に製作した複製である。エガーの説明によると、この録音に当たり、弦を弾くプレクトラムをカモメの羽柄を用いて新たにヴォイシング(プレクトラムなどを調整して、音を整えること)したとのことである。チェンバロのプレクトラムは、元々ガチョウの羽柄などを用いていたが、現在では耐久性や保守の問題で、プラスチックを用いることが一般的になっている。しかし、オリジナル楽器を演奏するプロの演奏家がそのプラスチックのプレクトラムを用いたチェンバロで演奏しているわけではなさそうである。筆者が以前に行った演奏会で、チェンバロの製作者が、ガチョウの羽を示しながらプレクトラムの説明をしたことがあった。CDの解説書などで触れることはなかなか無いが、鳥の羽柄のプレクトラムを用いること自体は決して特殊な例ではないように思われる。しかし、このCDに於いてエガーが演奏しているリュッカースタイプのチェンバロの響きは、音量や音の豊かさよりもむしろ繊細さを感じさせるものである。ただ、エガーはこの楽器をすでに他の録音でも使用しており、その響きの特徴も今回紹介するCDと共通しているので、必ずしもプレクトラムの素材だけがこの響きに貢献しているわけではなさそうである。
 エガーが述べているもう一つの点は、この演奏に当たって、筆者が「 バッハの調律法? 自筆の装飾模様を巡る最近の論議」の項で紹介した、バッハの「巧みに調律された鍵盤楽器のための前奏曲とフーガ」第1集の自筆譜表紙上端に記入された装飾模様に示されているという、ブラッドリー・レーマンの「解読」した調律法を採用していることである。エガーはこのレーマンの調律法は、「一つの」案ではあるが、「全く尤もらしい」と述べている。筆者は上記の項で述べた通り、このレーマンの調律法とバッハの装飾との関連性は、全くナンセンスだと思うが、この調律法自体は18世紀後半から19世紀にかけて採用されていた、ヴァロッティやヤングのものと極めて近く、決して突飛なものではない。しかし、実際にこのエガーの演奏を聞いてみると、中全音律やヴェルクマイスターの調律よりも平均律に近づいた、やや性格に乏しい和音に聞こえる。筆者は、平均律はチェンバロにはふさわしくない調律法と考えているので、その点からもこのエガーの演奏で採用している調律法は、あまりふさわしいものとは思えない。と言って、全く不満足な響きとまでは言えず、あまり気にしなければ、作品を聴く妨げになるものではない。ピッチはa = 409 Hzである。
リチャード・エガーは、イギリス生まれの鍵盤楽器奏者、指揮者で、イギリスで音楽教育を受けた後、グスタフ・レオンハルトの教えを受けている。鍵盤楽器奏者として活躍する一方、ロンドン・バロックに通奏低音奏者として加わっていたり、ヴァイオリニストのアンドリュー・マンゼと共演している。2006年からは、クリストファー・ホグウッドの後任として、アカデミー・オヴ・エインシェント・ミュージックの音楽監督の地位にある。
 このエガーによる「ゴルトベルク変奏曲」の「完全版」の演奏は、レオンハルトの反復を省略した演奏とは違って、一つ一つの変奏をゆったりと落ち着いて聴くことが出来る。1枚のCDに押し込まなければならないという制約なしに、ややゆっくりとしたテンポで、変奏ごとにあまり音色を変えることなく、入念に弾いている。第30変奏のクォドリベットを、劇的に盛り上げようとしていないところも好感が持てる。
 このCDには、「ゴルトベルク変奏曲」のあとに、バッハが所有していた出版譜の末尾にバッハが「前掲のアリアの基音8つに基づく種々のカノン(Verschiedene Canones &UUml;ber die ersteren acht Fundamental-Noten vorheriger Arie, von J. S. Bach)」と題して自筆で記入した14のカノンが、同じくエガーのチェンバロ演奏で収められている。この1747年か1748年に記入された自筆譜は、明らかに浄書であることを示しており、これに先行する下書きが存在したことは明らかであるが、失われてしまった。この14のカノンの内、14番目の曲は、バッハがミツラーの音楽協会に入会する際に提出した1746年にエリアス・ゴットロープ・ハウスマンが画いた肖像画で、バッハ手に持っている紙に書かれている6声のカノン(BWV 1076)と同じである。この曲は同じくバッハがミツラーの音楽協会に提出した印刷譜も存在する。さらに11曲目のカノンは、1747年10月15日にヨハン・ゴットフリート・フルダの記名簿に記入された4声と低音(Soggetto)のカノン(BWV 1077)と同一である。記名簿は、招かれた友人や知人が記念に記帳するもので、音楽家は自作の短いカノンを記帳することが多く行われていた。記名簿に記入されたバッハのカノンは、このほかにも3曲が知られている。これら2曲のカノンは、何れも出版譜の末尾に記入されたものが先で、後に書かれたものには修正が加えられている。したがって作曲は1746年かそれ以前と思われる。エガーの演奏は、新バッハ全集に掲載されている解題の通りではなく、カノンの主題を1声で提示した後他の声部を加えて行くなど、独自の工夫をしている。なお、このエガーの演奏による14のカノンは、くらんべりぃさんのブログ「The Art of Bach」の「BWV1087 14のカノン(「ゴルトベルク変奏曲」の主題に基づく)」ですでに紹介されている。
 このCDの録音は、音源からやや距離を置いて行われており、ほどよく演奏空間の響きが取り入れられている。制作はハルモニア・ムンディ・フランスのアメリカ部門で、録音は2005年3月にオランダのハーレムで行われた。先のレオンハルトの演奏を紹介した際に、「 最近ではCDの製造コストもかなり安くなっているのだから、2枚組になっても・・・」と書いたが、このハルモニア・ムンディ・フランスの2枚組CDは、しっかり2枚分の値段である!

発売元:Harmonia mundi France

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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


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コメント
 
 
 
Unknown (くらんべりぃ)
2008-10-01 12:19:13
10月号のアントレに、エガーのインタビューが載っており、この調律方法について言及していますね。
レーマンの説の細部の正しさについてはわからないとしているものの、平均律クラヴィーアについては、表紙に書かれた渦巻きが調律方法を示していることは間違いないと言っています。
曲集全体に驚くほどうまくかみ合うと言っています。「響きが自然で、輝かしいものになる」とのこと。彼はキルンベルガーやヴェルクマイスターで調律した場合、特定の調で納得できない部分があり、今回の調律方法を選んだようですね。
ただし、他の楽器と演奏するときには、他の楽器が困るそうで、この調律方法がどこまで適用できるかは疑問視しています
 
 
 
バッハの調律 (ogawa_j)
2008-10-02 10:09:43
興味ある引用、ありがとうございました。調性による響きの違いを良い方に取るか、欠点と取るかによって、調律法の評価が違ってくるのでしょうね。もととレーマンの調律法は、ヴァロッティやヤングの調律法に極めて近いので、悪い響きの調性はほとんど無いのは確かですから、その点がエガーが高く評価する決め手になったのではないかと思います。
 木管楽器や金管楽器の場合は、もともと特定の調律法で調整されているでしょうから、音程の微調整は難しいでしょうし、弦楽器の場合、奏者が身につけている音感と合わない音程は、なかなか適応できないのでしょうか。
 
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