<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

かんかん照りの真夏になった

2015年04月05日 12時19分46秒 | Weblog

真夏だ。一気に真夏だ。かんかん照りになった。牡丹がぐにゃりと首を垂れた。急いで日陰に移したやった。暑い。上着なんか着ていられないので、下着一枚になった。裸になりたいところだ。小葱を抜いて土を落とし、日陰に移動して、揃えて洗う。日に照らされて畑の作業などできたものではない。今日は佐賀桜マラソンの日。近くの吉野ヶ里公立公園折り返しだ。フルマラソンの選手たちが熱射病になって倒れるんじゃないか。途端に心配になってきた。寒い寒いと言って震えていた頃が懐かしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

われわれの命は無量光の仏智そのものである

2015年04月05日 06時48分52秒 | Weblog

サーリプッタよ、彼の仏の寿命、及び其の人民(の寿命)は無量にして無辺なる阿僧祇(あそうぎ)劫なり。この故に阿弥陀と名づくるなり。サーリプッタよ、阿弥陀仏は成仏し已(おわ)ってより来(このか)た、今に於いて十劫なり。   「仏説阿弥陀経」より

サーリプッタよ、彼の仏のお命とその国に生きる人たちの命が限りなくはかりしれないから、(彼の仏を)阿弥陀(=無量寿なる仏)と名づけるのである。サーリプッタよ、阿弥陀仏として成仏してから今日の日まで已に10劫という長い年月がたっているのです。

阿僧祇(あそうぎ)とは10の140乗のことで無数を示す単位。1劫は、160km四方の大岩を3年に1度、天女が空から降りてきて、来ている衣の裾でその大岩を摩滅させるに必要な期間のこと。従って阿僧祇劫とは、もはや、時間の観念では把握できない時間なので、無時間としていい。

1,阿弥陀仏が成仏して以来これまでに10劫が過ぎ去っているが、阿弥陀仏のお命は阿僧祇劫も続くので、まだその億兆分の1も過ぎ去ってはいない。いまも、これからも阿弥陀仏の救済は続行する。

2,阿弥陀仏の成仏事件は今を去ること10劫年も昔の事件なのである。この10劫年の長きに亘って衆生救済の事業を営まれてきたというわけである。

3,それに先だって阿弥陀仏になろうと発願をされた時間が10劫、発願を実行に移して修行に入られた時間がまた10劫もある。それを思う。

4,そこまでは仏さまの事件だから信じるとしても、その国土の人民の寿命も阿弥陀仏と同じくらい、つまり10劫年も生き続けているというショッキングなニュースはにわかには信じがたい。

5,信じ難い者が信じられるようにするにはどうすればいいか。わたしの名を呼べ。わたしを称名しわたしを念仏せよ。これが彼の仏の回答である。自力ではなく他力で或る。仏力の仏智である。

6,無量寿とはわたしは死なないということである。肉体は滅びてしまうが無量寿体は死滅をしないということだ。無量寿体は仏の御身だからである。

7,われわれは無限に向上をしていく存在である。向上の途中で永遠の死がもたらされたりすることはない。

阿弥陀の国では、つまり、時間がない(無量寿)ということなのだ。死んだり生きたりはなく、ただ永遠の現在があるだけということになる。そこに無量光が輝き渡っている。無量光は無量の仏智であるから、これに輝かされているだけでいいのである。輝かされているだけで限りなく向上をして行くのである。阿弥陀経はこういう生命観、宇宙観である。阿弥陀経を説いているのは、これも仏陀と成ったお釈迦様である。お釈迦様はこの生命観・宇宙観を説いて衆生を救済しようとしているのだ。われわれはぶつ切れの生命観しか持っていない。われわれの生命観では、死も生もぶつぶつに切れているから、切れ端だらけを生きていることになるが、仏陀はそれを否定し修正している。曰く、命は無量寿であると。曰く、われわれの命は、仏のそれと等しく、無量光の智慧そのものであると。

まあなんという肯定的な、建設的な、大涅槃の生命観・宇宙観の提示であろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恋患いという患い

2015年04月05日 06時17分22秒 | Weblog

夜が明けています。明けない夜はないといいますが、ほんとうのようです。6時半。障子戸の向こうが明るくなっています。早起きの雀がちゅんちゅん鳴いています。

さぶろうは或る女の人を思っています。春の野原という美しい女の人です。思っているだけなのですが、罪悪をも感じます。老いた者は恋をしてはならないという戒めがあります。でも、大丈夫、たとい出会いはあっても、二人っきりで会うことはないでしょう。彼女が二人っきりを求めていることは千万もありませんから。お伽噺の白雪姫と小人たちの、わたしはその11人目の小人さんです。なにしろお伽噺。白雪姫はこの11人目の思慕者の存在を知っていません。仕方がありません、この秘めた恋をあの世まで持ち運んで行きましょう。

春の野原には可愛いスミレがたくさん咲いています。でもあまりにも小さく、あまりにも控え目なので、よくよく見ないと気づけません。さぶろうは野原へ行って、この気づいた者の一人になっていることを自慢します。密かな自慢なのですが。可愛いスミレは、しかし、よも恋患いのさぶろうに気づいていることはありますまい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミヤコワスレ屋さん開店

2015年04月05日 05時32分12秒 | Weblog

「ミヤコワスレ屋」さんを開店してもよさそうなほどになりました。春になって勢いが付いてそれぞれ大家族を作っています。家族の構成員は10~15株にもなります。これを株分けして、1株ずつ6号鉢(焼き物の鉢だけではなく、ビニール製もありますが)に植え替えをしました。これが優に100個を越えました。(好きですねえ) 

素朴で清楚な赤紫の花を1輪つけています。体長が大きめになる白花は開花が遅れています。2株ずつ、3株ずつにしているやや大きめの鉢もあります。みな直射日光が当たらない日陰に列べて置いています。新しく買ってきた培養土を使いました。これに油粕の固形肥料を4個ずつ施肥して水をたっぷりかけました。秋口にはまた大家族を作るでしょう。お金もかかりますが、こんな他愛ない児戯の遊びに明け暮れていられる我が身の幸せに、たっぷりの感謝です。

お風呂の飾り棚には直径35cm、高さ25cmの丸鉢を飾っています。はや数輪の花を着けています。お風呂に浸かって一日の疲れを癒やしながら観賞をしています。なにしろ清楚です。花言葉を「謙虚」としていいくらいに控え目ですが、謙虚の瞳がほんのりしていいのです。つぶらな瞳に恋心が募ります。

欲しい人にはお分けします。昨日さっそく家内の友人から申し出がありましたのでお分けしました。喜ばれました。取引をしたつもりはありませんが、返礼のワインが届きました。年代物のワインです。そこの家の人は誰もワインを嗜まないそうです。夕食に少しだけ試飲しました。ふふふ。今日もこの児戯を続投したいのですが、もはや移植すべき鉢が尽きました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大いなる己を生きる者

2015年04月05日 05時10分08秒 | Weblog

あらゆる方向に向かって心で探し求めていても、自分より愛しいものをどこにも見出すことはできなかった。そのように他の人々にとっても、それぞれ自己は愛しいものなのである。自己を愛する者は他人を害してはならない。「相応部経典」より

他者を害してはならない。自己を害してもならない。他者を愛しまねばならない。自己をも愛しまねばならない。他者を利さねばならない。自己をも利さねばならない。他者を守らねばならない。自己をも守らねばならない。他者を導かねばならない。自己をも導かねばならない。よい方向へよい方向へ導かねばならない。他者を苦しめてはならない。自己を苦しめてもならない。他者をよろこばせねばならない。自己をよろこばせねばならない。他はこの意味で己の反映である。己の鏡である。この故に他者は他なる己である。自己も他己(たこ)も己の共通者・共同者である。他己を害する者は自己を害する者である。他己を愛しむ者は自己を愛しむ者である。われわれは共同して生き共通して生きているのである。己は大いなる己を生きているのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしは意識体です

2015年04月05日 04時10分11秒 | Weblog

おはようございます。明け方の4時を少し過ぎています。わたしは意識体です。意識というbodyを持っています。雨の音を聞いています。夜中をずっとしとしとしとしとと降っています。風もあるようです。時折ざざあざざあと横殴りの雨を用いて、彼(風)は高まる感情を打ち付けているようです。障子戸の向こうでの出来事なのでよくは分かりません。見えないとわたしは意識体として生きているより他にありません。

わたしの意識には潜在している意識と顕在している意識とがあります。意識は海であったり空であったり陸地であったりします。もっと詳しくいえば海の底であったり地中深くのマントルであったり、空の彼方の銀河だったりします。時間も空間も意識にとってはバウンダリーがなくて自由境界なのです。それともう一つ特徴的なのはそれを個人所有にせずに、つまり拘りがなくてすぐに融合してしまうというところがあります。するとわたしの意識は全体意識になります。それでもそれをわたしとすることも可能です。それを空間的には集合意識、あるいはもっと時間を遡って根源意識と呼ぶ場合もあります。

平和に平穏に融合しているかと思うと分裂が起こります。どろりどろりの意識の混沌から創造の欲望がうねり出して来て、細胞分裂のようなエモーションがスタートします。もともとの混沌は無性だったところに、精子と卵子が芽生えて踊り出します。これが互を求めて結合したらこうなります。ともかく何か活動をしたいのですね。活動はやがて顕在化します。活動がちりじりにならないように一枚の大きな皮膚で覆っていますけど。

わたしは意識体です。いまのところは顕在した意識体です。夜中の雨を聞いています。雨の音を聞くというのもわたしの楽しみの一つでした。いろんな種類の楽しみを味わって意識嚢が気球のようにぱんぱんに膨れあがり、今にも上空へ飛び出しそうです。そろそろ融合バージョンに入ります。全体への懐かしさのようなものを覚えてもいるようです。そうです、意識は考えること、自覚することで自己のあり方を認識するしかないのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする