<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

最後まで聞かせてあげたくて

2015年04月25日 19時51分29秒 | Weblog

ドヴォルジャークのシンフォニーNO9 "New world" を聴いている。「遠き山に日は落ちて・・・」の部分の主旋律を縦笛クラリネットが静かに奏でている。さぶろうも厳粛な気分になっている。

さぶろうは音楽の専門知識などはまるでない。第一、音譜が読めない。だから、音楽を聞いているとは言うものの、大きな顔はできない。何も分かっちゃいないからだ。それでいて、分かった風な顔をして聴いている。可笑しいと言えば可笑しい。

何処に出ても自信たっぷりで大きな顔ができたらいいのかもしれない。そういう人もいる。自信はあった方がいい。うんとうんとあった方がいい。こういう人にならついて行ける。それで安心ができる。本人だって揺らがないでいられる。

さぶろうはすぐに馬脚があらわれるので、人前で大言壮語はできない。すぐに浅瀬に乗り上げて座礁をする船に似ている。だから可哀想に、そこから先が進めないことになる。カモメがマストに来て止まっている。それをしらじらと眺めているきりになる。

夕食が済んだ。ジャガ芋と玉葱と人参を材料にした肉ジャガ料理を食べた。肉は牛肉の挽き割り肉だった。美味しかったのでスープまで飲み干した。これからお風呂に入る。でも美しい音楽「新世界」は終わっていない。お風呂に入れば新世界は聞けないけれど、消せない。さぶろうの他にも聞いている魂が10や20はありそうな気がして、だったら最後まで聞かせてあげたくて、消せないのである。

 

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それでお構いなしに

2015年04月25日 19時37分05秒 | Weblog

小松菜やホウレン草、蔓なし隠元豆の種蒔きをした。何時間しただろう。わからない。草を取って土を耕して、ここに石灰を撒いて、施肥して、その後に種を蒔く。それから防虫剤を散布。それから水撒きをして湿らす。この作業を一人で黙々とする。風が少しあった。鼻水を垂らした。

生きている。何か重大なこと、意味のあること、お金に換算できること、社会的貢献度の高いことをしていなければ生きていないということになれば大変なことだったのだが、それは問われていない。無条件である。条件はついていない。有り難い。さぶろうは重大なこともしていない、意味のあることもしていない。お金に換算できることもしていない。社会的貢献度の高いこともしていない。それでお構いなしに、午後からのひとときを過ごした。

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安らぎの宇宙

2015年04月25日 15時07分34秒 | Weblog

わたしが書いた詩を読んでくださった方を動かして、安心が見通せる地点へお連れすることができたらどんなに嬉しいでしょう。ここは安心を呼吸するところです。こことはこの地球上のことです。<動かして>などと大仰な表現を遣いましたが、この動きは動かしてくださる方の力に依っています。

「やすらぎの宇宙」

不安や恐怖はこの宇宙には存在していません/宇宙は安らぎです/宇宙はやすらぎがやすらいでいるところです/ここにわたしの安らぎを合わせることができます/するとわたしがやすらぎの宇宙になっています/不安がらせるものは宇宙ではありません/恐怖させるものは宇宙ではありません/最後は必ずやすらぎに導いて行くのが宇宙です/最後を見るまでは不安や恐怖が幅を効かせていますが/もうすぐです/ゆっくりして見ていたら分かります/もうすぐ最後の地点に到着をします

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遊びの休憩

2015年04月25日 14時55分04秒 | Weblog

ふふふ。三時のおやつをしています。バター風味の梨恵夢(リエム)という焼き菓子を食べています。銀紙に包んであります。甲府市のお菓子屋さんのです。頂き物です。それから珈琲を飲んでいます。珈琲は、白湯かとおもうくらいに薄くしてあります。濃いのは飲めません。人間が薄いのでこれでちょうどよいくらいです。タブレットで「ベスト・オブ・モーツアルト」も、音量を低くして、聴いています。こころがゆっくりします。まだ外へ行って農作業をしていないから、遊びの休憩は贅沢です。

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導きがなければ進めない

2015年04月25日 14時37分46秒 | Weblog

さぶろうに仏様のことを伝えて来てくださる大いなる意思があります。仏法聞くこと難しです。大海の底深くに住む小さな亀が海面の浮木の穴に上がってくるくらいの確率しかありません。難中の難であるのに、それを遮ってさぶろうに仏法を聞かせようというお慈悲が届いて来ます。さぶろうは仏様に選ばれるほどの功徳は積んできていません。功徳を積むどころか、その反対です。ですから人様の功徳をお借りしているか横取りしているかのどちらかです。仏法を聞いて仏様に会うということは至難なことなのに、この籤引き(法を聞く籤)を引いて、少しまた少しという具合に聞いています。導きがないと一歩も半歩も進めませんから、導きを感じないわけにはいきません。

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命が終わる時に恐怖心が起こらないように

2015年04月25日 13時12分42秒 | Weblog

其の人、命終わる時に臨んで、阿弥陀仏、諸の聖衆とともに其の人の前に現われて在(いま)せたまふが故に、是の人の(命)終わる時も心顛倒せずして、即(たちまち)にして阿弥陀仏の極楽国土に往生するを得べし。サーリプッタよ、我は是の利を見るが故に是の言を説けり。    「仏説阿弥陀経」より

ここで<其の人>というのは阿弥陀仏の説いた教えを聞いて、たった一日であろうと、一心不乱に名号を執持して(称えて)いる人=念仏者を指している。

人が(肉体の)命を終えて死に臨むときが来ると、そこに阿弥陀仏が多くの菩薩たちといっしょに目の前に現れて(お浄土行きを迎えて)下さるので、息を引き取るときも是の人は心が(死の恐怖などで)散乱することがないで落ち着いていられます。そしてその場でただちに阿弥陀仏の建設された極楽国土に往き、そこで其の人は(法性身として)生まれています。

サーリプッタよ、どうです、いいでしょう、素晴らしいでしょう。わたしはこのすばらしさを見て来たから、この阿弥陀経の経典をみなさんに説いて聞かせているのですよ。

この後にこう続く。「だからみなさん、いますぐわたしも阿弥陀仏のお浄土に生まれたいという願いを起こしてください」ここが結論である。

整理してみよう。1,死ぬ時が来ると阿弥陀仏が菩薩を従えてお迎えに来られる。2,死ぬ人の枕元にはっきりとした姿を伴って立たれる。(存在を現される)3,死の恐怖心が起きないようにしてくださる。4,心が散乱しない。5,その場でたちまち大転換が起こる。6,往生が決行されて来迎は終了する。7,生まれた先は間違いなく阿弥陀仏のお浄土である。8,そこまでずっと阿弥陀仏と多くの菩薩様がご一緒される。9,極楽浄土で往生成仏を喜んで下さるのもまた阿弥陀仏と多くの菩薩たちである。10,死が滞りなく新しい生に大転換するという奇跡が起こった。11,この奇跡の人をお釈迦様が見てこられた。12,あなた方も間違いなくこの奇跡の大転換を果たします。13,どうすればそうなるか。14,往生成仏を願って下さい。15,阿弥陀仏の御名を唱えたら願いが成就します。16、みなさん、安心して下さい。17,このようになっています。みなさんよかったですね、よかったですね。18,これが法です。ダンマです。宇宙全体の大きな大きな力がこうやって正しくあなたに働いています。

来迎図という仏画があります。阿弥陀如来来迎図とも言われます。平安時代に多く書かれました。山越えの阿弥陀(来迎)図というのもあります。経典を聞いただけでは「ウッソー」という人も多かったはずです。耳で聞いて信じないならば目で見て信じて下さいという慈悲が働いているように思います。目で見て信じないならばどうするか。往生浄土の事実が身の上に起こったときに、ああそうだったのか、仏陀のお教えは本当だったのかということがここで納得されます。最後はみなこの納得で完了になります。

頑迷固陋なさぶろうのためにこれだけ細かく経典に説明をしてあります。頭が下がります。

さぶろうが死ぬ時に死の恐怖心が起こらないで済むように、阿弥陀仏がみずからはるばるお浄土からさぶろうを迎えに来てくださいます。さぶろうは感激をしてたぶんその場で大声で泣きだしてしまうでしょう。生きているうちに死の恐怖心の克服解決ができている人には来迎は起こらないとも聞いています。

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己の中に猛毒を持つ

2015年04月25日 11時38分26秒 | Weblog

阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)は無瞋恚仏(むしんにぶつ)である。阿閦如来とも。

東方の妙喜国(或いは善快国)の教主である。いまも説法をされているのでここへ行けば聞くことができる。(行かなくともお呼びすれば聞くことができる)腹を立ててはいけないよ、人を恨んではいけないよと教えておられる。 

瞋恚(しんに)は三毒の一で、自分の心に逆らう者を怒りこれを恨むこころの魔。強く盛んな大魔王である。無瞋恚仏だから、怒りを抱かず恨みを浴びせることはない。揺るがないので不動仏とも呼ばれる。

梵語ではアクショービア仏。阿弥陀経の経典にも登場される。密教では金剛界五仏の一。仏の智慧の四智(しち)の一つである「大円鏡智」を表現されている。

* 

仏の四智:大円鏡智(だいえんきょうち)・平等性智(びょうどうしょうち)・妙観察智(みょうがんざつち)・成所作智(じょうしょさち)

* 

三毒:善根を毒する3種類の猛毒。貪欲・瞋恚・愚痴。(三善根:施・慈・慧)

われわれは己の中に猛毒を持つ。毒を持つ大蛇の比ではない。この猛毒は人を害するとき専用としているが、これを詰めている己の胃袋や己のこころをも害している。猛毒の成分は欲望、怒り、邪見である。

この猛毒の毒消し薬は施(我が所有としないで施し与えるという実践)、慈(他者の苦しみの棘を抜いてやる行動)、慧(仏智見、仏様から教えていただく仏法)である。猛毒を抱えたままではどれも難しい。

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雑然とした暮らしでいい

2015年04月25日 11時18分39秒 | Weblog

こちらがいいと思っても、それをそのままに受け取ってくれる人ばかりではない。その逆になるばあいもある。すると<あいつは嫌な奴だ>と蔑まれることになる。この蔑視に耐えられないので、すべての出荷を取り止めるということにもなる。さぶろうは否定に弱い。めそめそになる。これでは成長が見込めない。

日差しの強いところには出られないという弱点を持つ。肯定という日差しも否定という日差しも降り注いでいるはずである。バラエテイに富んでいるのがこの世の特徴だ。肯定だけの日差しを選択して外に出ていることなどはできない。雑菌の中で暮らしている者は、だから、こちらが抵抗力を付けるしかない。それで体力を付けるしかない。

雑菌などという呼び名をすると雑菌が怒り出すかもしれない。ごめんごめん。われわれはみんなともかくいっしょだくりで住んでいるということだ。善いも悪いも肯定も否定も混じり合って、まあ雑然とした暮らしをして、それが自然だということだ。

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空想という玩具遊び

2015年04月25日 11時00分26秒 | Weblog

さぶろうは空想が好きである。でも上手ではない。ただ玩具の空想をここそこに列べて一人で遊んでいるだけだ。一人で遊べるところが空想の真骨頂だ。空想が好きな者は現実対処の術を心得ていない。心得ていないからこそ空想に耽るのだ。空想好きには悪い癖がある。空想を現実以上にしてしまう。空想に現実以上の価値を置いてしまうのだ。見えている現実よりも見えていない空想をこそ大切にしなければならないなどという妙な掟を掲げてしまうのだ。彼はいよいよ現実界から疎まれてしまうことになる。疎まれたら今度こそいよいよ彼は空想の庭で遊んでいるしか能がなくなってしまう。

この頃、外に出ると、蜜蜂がさぶろうに取り憑いて困る。払っても払っても周囲を巡回する。糖尿病の気がある者には甘い匂いがしているのかもしれない。「おれは花じゃない」と言って聞かせるのだが、アドバイスに応じてくれない。でもって、180度方向転換をして、「おれは花である」と思うことにした。花には花蜜が涌いている。さぶろうの花蜜はなんだ。鼻から出ているのはせいぜい鼻汁、眼から流れているのは眼汁くらいで、花蜜には似ても似つかない。剥いた林檎を口に銜えてその半分を蜜蜂に提供するという術策はどうだろう。たしかに甘い香りと甘い味がするはずである。

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ここまでで十分だ

2015年04月25日 10時49分08秒 | Weblog

仏教の話ばかりだと線香臭くて嫌でしょ。宗教アレルギーの方だっていらっしゃるだろう。それで、万人共通の話題、つまり人恋を、しばしば創作させて、三時のおやつに供しているが、ふふ、この創作料理はぎこちなくてまずくて、おやつになっていないかもしれない。料理人の珠子をなんとかして人間にしなければならないのだが、こちらの注文通りには行かない。さぶろうは着替えて靴を履いて玄関に待った。しかし、今日もやはり珠子はやっては来なかった。これでいい。ここまでで十分だ。もしもほんとうに珠子が人間の化粧を施してやってきても、もてなしはできない。予感を抱いてそわそわして浮き足立つ。あたたかい気持ちになる。ここまでで十分だ。

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