<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

儚いことに変わりはない

2015年04月22日 20時10分21秒 | Weblog

宝籤に当たったらよかろう。そしたらどうしよう。大金が舞い込んだら? 舞い込んだことがないので、その後は見当がつかない。

大金持ちになったらあれこれもしてみたい。まず賭け事をしてみたい。おもいっきり有り金をはたいて、潔さを己に見せてみたい。そしてまた元の木阿弥に戻って、しょんぼり夕暮れの空を仰いでいる。

此処掘れワンワンの昔話は意外性があってわくわくさせられる。掘ったら大判小判がざっくざく出て来て、老爺はそこであえなく腰を抜かしてしまう。この夢物語はそれでお痛快である。

シンドバットも千夜一夜も笠地蔵もわらしべ長者も、成金の夢をかなえてくれる。なってみたいという願望を果たした主人公に身を重ねて己の貧乏を慰撫してみる。それでいいのだ。現実でなくてもいいのだ。現実も空想も、儚いことには変わりがないのだから。

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己の正義と相手の正義が重ならない場合

2015年04月22日 19時42分15秒 | Weblog

人のご機嫌をとるのはよそう。疲れる。じゃ、どうするか。しばらく一人でいる。ご機嫌を取って喜ばれるとは限らない。迷惑ということだってある。まるで波長が合わないことに付き合わされた相手だって、同じようにへとへとになったかもしれない。よろこばそうとしたことが、却って苦しめたことになったという場合もある。ある。相手も苦しむ。苦しませた相手にすまなく思う。

己の考えている正義が相手にとっても正義であるとは限らない。相手の利益になるはずだと思ってやったことが、不利益になった場合もある。こちらとそちらの思惑がぴったり合うとは、事前には分からない。お仕着せの独善ほどつまらないものはない。ああ、つまらないと欠伸をされるのがおちである。

午後から大興禅寺のツツジを見に行った。ツツジも己の正義を立てない。わたしも立てない。行くのは40年ぶりだった。駐車場からが遠くて、しかも迂回路を迂回して山坂を上がって行った。脹ら脛の後ろと前がたちまち硬直してしまった。杖にしがみつきながら、休み休みしながら上った。本堂の後ろ一帯がツツジ園になっていたが、そこもまた階段が続いていて、結局は入園を諦め、本堂までの坂道の、両サイドの開花を見てよしとした。

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橘かおる朝風に

2015年04月22日 13時59分15秒 | Weblog

甍の波と雲の波/重なる波の中空を/橘かおる朝風に/高く泳ぐや鯉のぼり  作詞作曲未詳「鯉のぼり」 大正2年文部省唱歌 

橘は柑橘類の総称。蜜柑の花ととってよかろう。花は甘い匂いがする。遠くまでする。甍は寺の甍だろうか。寺がそう建て込んでいるわけではないだろうから、ここは普通の民家の屋根瓦でもよさそうだ。これに雲までが波打っている。五月は空が美しい。ここへ男の子の誕生を知らせる鯉のぼりが颯爽と泳ぎ出す。鯉は出世魚。吉兆の現れを予言している。

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鼻は下を向いていた

2015年04月22日 07時13分05秒 | Weblog

妙好人(みょうこうにん)因幡(現在の鳥取県)の源左(本名は足利喜三郎 1842~1930)の口癖は「ようこそようこそ」「さてもさても」であったらしい。「ようこそこの源左を親様(阿弥陀仏)が助けてくれると誓って下さった」「それを思うとなんともなんとも有り難くてならん」という述懐である。妙好人とは浄土真宗の信を貫いた在俗の人のことである。貧乏且つ無学の人が多い。

ある日、突然の大雨に遭っての帰り、願正寺の住職に「えらいめにあったのう」と声をかけられると、源左は即座に「鼻が下を向いてついているで有り難い」と返した。なるほど、鼻が上を向いてついていたら、雨が流れ込むところであった。そうじゃなくてすんだというところにすぐさま阿弥陀仏のお慈悲を受け取れるのだ。

感無量寿経に「念仏する者は、まさにしるべし、この人は人中の分陀利華(プンダリーケ 白蓮華のこと)なり」の字句がある。親鸞聖人の「顕浄土真実教行証文類」にはこうある。「分陀利といふは、人中の好華と名づく。また希有華と名づく。また人中の上上華と名づく。また人中の妙好華と名づく。念仏の人はすなわちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の最勝人なり」

「正信偈」にはこうある。「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、仏は広大勝解の人とのたまへり。この人を分陀利華と名づく」 分陀利華は別名、淤泥華(おでいげ)とも。煩悩悪業の泥中に生活して、ついには仏の正覚の白蓮華を咲かせる人を褒め讃えてこう呼んだのである。

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わたしはいつもこころの声を聞いてるわ

2015年04月22日 05時52分26秒 | Weblog

おはようございます。夜明けです。障子戸(わたしの書斎は障子戸です)を開けて外を見ています。風がないようです。高くてほっそりしたリラの花枝も微動だにしていません。お天気はいいようです。

平原綾香の「ジュピター」の曲とホルストの「惑星」を昨夜は真夜中に起きて聞きました。ホルストの「惑星」はこれまでも何度も聞いて、その度に厳粛な気分になります。平原綾香の「ジュピター」は東日本大震災の後で大ヒットしていたころにわたしも聞きました。昨日はこれを久しぶりにしみじみ聞きました。歌詞(吉元由美作詞)もいいし、彼女の熱唱もいいですね。

今日は看護学校へ行きます。ここで新入生に一つの講座を受け持ちます。話の途中、真ん中くらいに休憩を入れたところで、この歌「ジュピター」をかけてみようかな。タブレットを持参して行きます。

♪ Every day I listen to my heart /一人じゃない/深い胸の奥でつながってる・・・Every day I listen to my heart /ひとりじゃない/この宇宙の(そら)の御胸に抱かれて・・・悲しいことは/自分を信じてあげられないこと・・・愛を学ぶために/孤独があるなら/意味のないことなど/起こりはしない・・・私たちは誰も/ひとりじゃない/ありのままでずっと/愛されてる・・・♪ 

” わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、ひとりじゃないことがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、この宇宙(そら)のみ胸に抱かれていることがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、私たちは誰もありのままで愛されていることがわかるの。わたしはいつもこころの声を聞いているわ。すると、愛を学ぶために孤独があることがわかるの。”  じーんと来てしまった。 

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